Archive for the ‘信仰との出会い’ Category

先の大戦で陸軍に入隊し捕虜(ほりょ)となって満州で8年間抑留された経験を持つSさん。全体主義国家に侵略(しんりゃく)され、自由を奪われるとはどういうことなのか。Sさんに戦争体験を伺いました。
(S.Kさん・栃木県・90代・男性)

月刊「ザ・伝道」228号より転載・編集

体験談本当の平和とは何か

大切な家族と日本を護るために

1922年3月、私は満州の奉天(ほうてん)で生まれました。
名古屋中央放送局から満州に派遣(はけん)されていた通信技手の父と、母、姉2人、兄2人、弟1人の8人家族。父の仕事の都合で2歳で帰国してからは、一家は名古屋で暮らしました。

幼い頃より、父母から「日本のために戦うことは、家族や子孫の幸せを守ること」と教わっていた私は、いつしか、自分も軍人になって国に奉公したいと思うようになりました。それが男として当然のことだと感じていたのです。

そして、青年学校教員養成所を卒業したばかりの1944年、徴兵検査を受け、21歳で大日本帝国陸軍に入隊しました。
(日本の戦況は、いよいよ厳しいようだ。お国のために一矢報いたい…)
私が入隊する2年前の1942年、ミッドウェー海戦で大敗して以降、日本は厳しい状況に立たされていたのです。

私は、満州に渡り、過酷な初年兵教育を受けました。
しかし、ある朝、突然耐え難い腹痛に襲われ、陸軍病院に入院することになったのです。軍医に診てもらうと盲腸でした。手術も行いましたが、なかなか退院できず、やきもきする毎日。そうこうしていたある日、衝撃的な知らせが飛び込んできました。

私が入院しているあいだに、私の部隊に出陣命令が出され、台湾沖で壊滅的な被害にあったというのです。ほとんど生き残っているものはいないだろうということでした。

(私は入院している場合か。私だけが生き残ってしまった…)
共に訓練を受けた仲間たちの顔が思い出されます。私はやるせない気持ちで、ベッドのシーツをぎゅっと握ったのでした。

終戦。そして、捕虜収容所へ

戻るべき部隊を失った私は、ハルビンの第四軍司令部に配属になり、戦闘の報告書作成を命じられ、任務にあたっていました。
そして、1945年8月15日。
「正午に重大な放送があるからラジオの前に集まるように」との連絡がありました。時刻になり、司令部の全員がラジオに耳を傾けます。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す―」

それは、終戦を告げる、玉音放送でした。
(日本は負けたのか)
顔を硬直させる者、ぼろぼろと涙を流す者。
その場にいたみなが悔しがりました。

そして私にとっては、この日が運命の転換点となったのです。終戦の数日前に、日ソ中立条約を破って満州に侵攻してきたソ連軍に捕らえられ、捕虜の身となってしまいました。

武装解除をさせられた後、満州の牡丹江(ぼたんこう)に集結を命じられ、常時1000人以上が収容される大きな捕虜収容所に入れられることになりました。

収容所といってもただの野原。みな、持参したテントと藁(わら)布団での野営生活を強いられました。そこら中に、銃を持ったソ連軍や、ソ連が支援していた中国共産党軍の兵士が見張っているため、抵抗もできず、私たち捕虜はただただ無力でした。

そして収容所では、軍曹の私が一番上の階級だったため、食料の分配など、捕虜の管理をソ連軍に命令されたのです。そこの食事は家畜並みで、粟やコーリャンというモロコシが支給されました。当然ながら食器はないため、皿の代わりに兵士の帽子に食事を入れて歩きます。

衛生環境も悪く、シラミを媒介とする発疹(ほっしん)チフスが流行(はや)り、衰弱死する者と併せて大量の死者が毎日出ました。多い日は1日に200人ほどが命を落としたこともあります。

(日本に帰りたい。母さんに会いたい…)
異国の地の夜、星空の下で私は収容所の仲間たちと集まり、日本の唱歌を歌いました。
蛍の光 窓の雪 書(ふみ)読む月日 重ねつつ―
互いに「じきに帰れる。あと少しだ。頑張ろう、頑張ろう」と肩を叩いて励ましあったのです。

シベリアに消えた仲間たち

そしてある日、ソ連兵から「捕虜をダモイ(帰国)させるから1000名ずつのグループにまとめて汽車に乗せる支度をさせろ」と指示されました。

「ついに日本に帰れるそうだ! 良かったな」
そうやって私は声をかけながら隊を編成しました。しかし、数カ月後になって、「日本へ帰れる」と笑顔で収容所を出ていった仲間たちがたどり着いた先は、親兄弟のいる日本ではなく、極寒の地、シベリアの収容所だと知ったのです。

シベリアで、ソ連軍に過酷な強制労働を強いられた仲間たちの多くは、母国の土を二度と踏むことなく命を落としていったと耳にしました。

(俺は、「日本に帰れるぞ」と言って、皆をだましたことになるのか―)
自分も真実を知らなかったとはいえ、後悔が募ります。しかし、今となってはどうすることもできないのでした。

そして収容所での野営生活も一年が過ぎたころです。ある日の日中、中国共産党軍の兵士の声が収容所内に響き渡りました。
「Sはどこだ。出てこい!」
「はい……私です」
私が前に出ると、すぐに数人の兵士に捕えられました。そして、「反動分子」として引っ立てられ、連れて行かれた場所は牢獄でした。
収容所を取り仕切っていた私が目障りだったのでしょうか。事情聴取も取り調べもなく、突然、牢屋に入れられたのです。

(俺が何をしたっていうんだ……)
牢には私のような元日本軍の軍人が数多く投獄されていましたが、中にはソ連か中国共産党軍のスパイと思われるような日本語の達者な中国人も紛れていました。
スパイがどこに潜んでいるかわからない、心打ち解けられる人はいない―。

閉鎖的な環境で1年近く閉じ込められるうち、私は負の妄想に取り憑かれるようになっていったのです。
(俺は、ここで殺されるんだ。俺は死ぬんだ)
私は、帰国はおろか、自分に未来があるとは到底思えないのでした。

「母さん、Kは帰ってきたよ」

ここが死に場だと思っていたところ、私はある日突然、牢から放り出されました。

あてのない私は、ひとまず牡丹江の日本人難民所を頼ることにしたのです。日本人難民会が親切にしてくれたおかげで、赤十字病院のボイラー炊きなどの仕事や居候(いそうろう)先を得ることができ、なんとか生きる道をみつけました。

しばらくそうして暮らしていましたが、いっこうに帰国のめどは立たず、周囲の勧めで同じ日本人難民の女性と結婚し、生活の基盤を作ることにしました。
そして迎えた、1953年。私のところにやっと日本人引き上げの知らせが届いたのです。

終戦からじつに、8年の歳月が流れていました。待ち望んだ帰国― 。
「母さん、Kは日本に帰るぞお!」
私は嬉しくて、人目も気にせず、空に向かって大声で叫んでいました。郷里の母にこの声が届くような気がしたのです。
同年9月6日、私は引き上げ船「高砂丸(たかさごまる)」に乗りました。すし詰めの船体で何時間も波に揺れていると、ついに日本が見えてきました。

甲板(かんぱん)に出て舞鶴港を見ると、そこには家族の帰国をまだかまだかと待ち望む人の群れがあります。そしてその中に、何度も夢で見た、あの母の姿をみつけたのです。
「母さーん! Kだよ!」
「K! よく帰ってきたね……」
出兵して以来約9年ぶりの再会。ハンカチで目をおさえている母の顔を見て、私はやっと、生きて帰ってきたのだと実感したのでした。

人は死んだらどこへゆくのか

帰国した私は、まもなく北海道で中学校の社会科教員を務めることになりました。仕事にも慣れ、平穏な毎日が続きましたが、ふと戦争で命を落とした仲間のことを思い出しては、「人は死んだらどこへいくのか」と、霊的なことに思いをはせるようになっていったのです。

答えを求めていくつもの宗教書を読みました。しかし、私の問いに明確に答えてくれる教えは、なかなか見つけることができませんでした。
そして、すでに教員を退職していた1989年、友人の勧めで大川総裁の書籍『太陽の法』に出合ったのです。

「人間が死んで、あの世に還っても、生きていたときの記憶は、少しも失われません―」

(え、どういうことだろう……)
『太陽の法』には、人間の本質は肉体ではなく魂(たましい)であり、この世とあの世を何度も生まれ変わりながら魂を磨いていることや、霊界(れいかい)と言われる世界の様子、宇宙のはじまりの真実など、壮大な教えが説かれていました。

(俺はこれが知りたかったんだ―)
私は、それから『仏陀再誕』『永遠の法』『黄金の法』など、大川総裁の書籍を夢中で読みあさったのです。そして、1990年に幸福の科学の会員(※1)になり、仏法真理(ぶっぽうしんり)を学びはじめました。

2007年に妻に先立たれ、私はさらに本格的に心を見つめていく決意をして、約2年前に、幸福の科学の晩年修行の場であるシニア黄金館(※2)に入所したのです。

シニア黄金館には共に教えを学ぶ仲間たちが集い、毎日、反省、瞑想(めいそう)、祈りの実践や、経典や法話の学習、体力づくりなどを行っています。
たくさんの法友(共に教えを学ぶ仲間)がいるおかげで、私はちっとも寂しくありません。とても楽しく、幸福な晩年を過ごすことができてありがたいと感じる毎日です。
(残りの人生、幸福の科学の教えを学んで「心の総しめくくり」をしよう―)

※1 幸福の科学の会員になる方法について、詳しくはこちら
※2 シニア黄金館:60歳以上の会員信者を対象にご用意している「晩年出家制度」において、宗教修行に取り組んでいただくための宗教施設です。ご興味がある方は、お気軽にシニア事業室までお問い合わせください。TEL 03-6384-0112


ふせんを貼って何度も読みこんだ書籍『仏陀再誕』。

幸福の科学のシニア黄金館(栃木県宇都宮市)

自分の人生と祖国への誇りを取り戻して

シニア黄金館で「生涯反省」に取り組んでいくと、やはり、あの戦争のことを考えて悶々とすることがありました。

先の大戦のことを「日本の侵略戦争だ」「日本は中国や朝鮮半島の人々を傷つけたのだ」と決めつける戦後の風潮に、違和感を覚えると同時に、元軍人として、とても悔しい思いを持ち続けてきたからです。

しかし、そんな苦しみが解放されるできごとがありました。
大川総裁が霊的なお力で、東條英機(とうじょう・ひでき)首相や牛島満(うしじま・みつる)中将などの軍人の霊言(れいげん)を行い(※3)、その本心を聞いてくださったのです。

そして、霊言によって、「戦前の軍人は人格的に立派な方々だった」「日本は侵略国家ではない」という真実を明らかにし、先の大戦の歴史認識を改める社会啓蒙に取り掛かってくださいました。

大川総裁がおっしゃる通り、あの戦争は、日本が自国の利益のために始めたのではなく、欧米列強に虐(しいた)げられていたアジアの同胞(どうほう)を解放するための「聖戦」でした。私を含め、当時の軍人たちは、その共通認識を持ち、使命感から、自分の命を惜しまずに戦地に向かいました。

戦いには敗れてしまったものの、日本のおかげで第二次世界大戦後に欧米の植民地支配から解放され、独立できた国は数多くあります。

私は、自分が命をかけて挑んだ戦いが、「間違い」ではなかったのだと明らかになったことで、「自分の人生」と「日本という国」に、改めて誇りを持つことができたのです。本当に心が救われる思いでした。

※3 東條英機首相や牛島満中将などの軍人の霊言:『公開霊言 東條英機、「大東亜戦争の真実」を語る』『沖縄戦の司令官・牛島満中将の霊言』として幸福の科学出版から発刊。

従軍慰安婦問題の真実

韓国の”元慰安婦”の方々が、私が過ごした満州の牡丹江に強制連行させられたと証言していました。しかし、真実は違います。
慰安所は軍の運営ではなく、朝鮮人経営者が商売として営んでいましたし、働く女性たちもいわゆる”プロ”の方々でした。

私はそれを現地で見て、聞いてきました。ですから、強制連行などは全くありえないことです。日本軍の規律はとても厳しく、上官からは「慰安所には行くべきでない」とはっきり注意が出されていたくらいです。私は生き証人として、戦後の間違った歴史認識を改めていきたいと思います。

今、中国や北朝鮮という全体主義国家が日本の平和を脅(おびや)かそうとしています。このような国に日本が侵略されると、私たちは人権も自由も奪われ、どれほど辛い日々を送ることになるか…。
ソ連や中国共産党軍の捕虜となり、投獄された経験がある私だからこそ、日本に迫っている危機を実感を持って語ることができます。

戦後教育によって、軍事力を持つことがすべて「悪」のように思われるようになりましたが、国防は当然のことです。それは大切な人を守ることであり、平和を守ることなのです。私はこの体験談を通して未来を担う若者たちに、そのことを伝えていきたいと思っています。

書籍で学ぶ自由と平和を守るために

『国を守る宗教の力』より(大川隆法 著/幸福の科学出版)

自由のもとになる信仰

私は、常々、「自由の大国をつくれ」と説いていますが、自由というのは、本当に大事な価値です。
自由なくして平等だけを求めると、強力かつ強大な国家権力によって、自由が簡単に押しつぶされてしまうことがあるので、「自由の確保」は大事なのです。

そして、自由のもとになるのは信仰です。
信教の自由がなければ、言論の自由も出版の自由も、何一つ守ることはできません。

信教の自由とは、神仏が「人間の尊厳」を守ろうとしておられる部分に当たる、最も大事なものなのです。

「人生の問題集」を見つけ、解決しませんか?

心の力を、あなたも使おう心の力を使おう

あなたも心の力を学び、運命を逆転させてみませんか?

書籍本を読む

法話法話を直接聴く

お近くの幸福の科学の精舎や支部で開示中です。

ラジオラジオを聴く

1991年の放送開始以来、多くのリスナーに愛され続けているラジオ番組「天使のモーニングコール」

関連リンク

信者体験談一覧
ラジオ番組「天使のモーニングコール」
大川隆法総裁 公開法話・霊言一覧
幸福の科学出版
幸福の科学の研修施設(精舎)
幸福の科学 機関誌 隔月刊「ザ・伝道」一覧

先の大戦で陸軍に入隊し捕虜(ほりょ)となって満州で8年間抑留された経験を持つSさん。全体主義国家に侵略(しんりゃく)され、自由を奪われるとはどういうことなのか。Sさんに戦争体験を伺いました。
(S.Kさん・栃木県・90代・男性)

月刊「ザ・伝道」228号より転載・編集

体験談本当の平和とは何か

大切な家族と日本を護るために

1922年3月、私は満州の奉天(ほうてん)で生まれました。
名古屋中央放送局から満州に派遣(はけん)されていた通信技手の父と、母、姉2人、兄2人、弟1人の8人家族。父の仕事の都合で2歳で帰国してからは、一家は名古屋で暮らしました。

幼い頃より、父母から「日本のために戦うことは、家族や子孫の幸せを守ること」と教わっていた私は、いつしか、自分も軍人になって国に奉公したいと思うようになりました。それが男として当然のことだと感じていたのです。

そして、青年学校教員養成所を卒業したばかりの1944年、徴兵検査を受け、21歳で大日本帝国陸軍に入隊しました。
(日本の戦況は、いよいよ厳しいようだ。お国のために一矢報いたい…)
私が入隊する2年前の1942年、ミッドウェー海戦で大敗して以降、日本は厳しい状況に立たされていたのです。

私は、満州に渡り、過酷な初年兵教育を受けました。
しかし、ある朝、突然耐え難い腹痛に襲われ、陸軍病院に入院することになったのです。軍医に診てもらうと盲腸でした。手術も行いましたが、なかなか退院できず、やきもきする毎日。そうこうしていたある日、衝撃的な知らせが飛び込んできました。

私が入院しているあいだに、私の部隊に出陣命令が出され、台湾沖で壊滅的な被害にあったというのです。ほとんど生き残っているものはいないだろうということでした。

(私は入院している場合か。私だけが生き残ってしまった…)
共に訓練を受けた仲間たちの顔が思い出されます。私はやるせない気持ちで、ベッドのシーツをぎゅっと握ったのでした。

終戦。そして、捕虜収容所へ

戻るべき部隊を失った私は、ハルビンの第四軍司令部に配属になり、戦闘の報告書作成を命じられ、任務にあたっていました。
そして、1945年8月15日。
「正午に重大な放送があるからラジオの前に集まるように」との連絡がありました。時刻になり、司令部の全員がラジオに耳を傾けます。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す―」

それは、終戦を告げる、玉音放送でした。
(日本は負けたのか)
顔を硬直させる者、ぼろぼろと涙を流す者。
その場にいたみなが悔しがりました。

そして私にとっては、この日が運命の転換点となったのです。終戦の数日前に、日ソ中立条約を破って満州に侵攻してきたソ連軍に捕らえられ、捕虜の身となってしまいました。

武装解除をさせられた後、満州の牡丹江(ぼたんこう)に集結を命じられ、常時1000人以上が収容される大きな捕虜収容所に入れられることになりました。

収容所といってもただの野原。みな、持参したテントと藁(わら)布団での野営生活を強いられました。そこら中に、銃を持ったソ連軍や、ソ連が支援していた中国共産党軍の兵士が見張っているため、抵抗もできず、私たち捕虜はただただ無力でした。

そして収容所では、軍曹の私が一番上の階級だったため、食料の分配など、捕虜の管理をソ連軍に命令されたのです。そこの食事は家畜並みで、粟やコーリャンというモロコシが支給されました。当然ながら食器はないため、皿の代わりに兵士の帽子に食事を入れて歩きます。

衛生環境も悪く、シラミを媒介とする発疹(ほっしん)チフスが流行(はや)り、衰弱死する者と併せて大量の使者が毎日出ました。甥日は1日に200人ほどが命を落としたこともあります。

(日本に帰りたい。母さんに会いたい…)
異国の地の夜、星空の下で私は収容所の仲間たちと集まり、日本の唱歌を歌いました。
蛍の光 窓の雪 書(ふみ)読む月日 重ねつつ―
互いに「じきに帰れる。あと少しだ。頑張ろう、頑張ろう」と肩を叩いて励ましあったのです。

シベリアに消えた仲間たち

そしてある日、ソ連兵から「捕虜をダモイ(帰国)させるから1000名ずつのグループにまとめて汽車に乗せる支度をさせろ」と指示されました。

「ついに日本に帰れるそうだ! 良かったな」
そうやって私は声をかけながら隊を編成しました。しかし、数カ月後になって、「日本へ帰れる」と笑顔で収容所を出ていった仲間たちがたどり着いた先は、親兄弟のいる日本ではなく、極寒の地、シベリアの収容所だと知ったのです。

シベリアで、ソ連軍に過酷な強制労働を強いられた仲間たちの多くは、母国の土を二度と踏むことなく命を落としていったと耳にしました。

(俺は、「日本に帰れるぞ」と言って、皆をだましたことになるのか―)
自分も真実を知らなかったとはいえ、後悔が募ります。しかし、今となってはどうすることもできないのでした。

そして収容所での野営生活も一年が過ぎたころです。ある日の日中、中国共産党軍の兵士の声が収容所内に響き渡りました。
「Sはどこだ。出てこい!」
「はい……私です」
私が前に出ると、すぐに数人の兵士に捕えられました。そして、「反動分子」として引っ立てられ、連れて行かれた場所は牢獄でした。
収容所を取り仕切っていた私が目障りだったのでしょうか。事情聴取も取り調べもなく、突然、牢屋に入れられたのです。

(俺が何をしたっていうんだ……)
牢には私のような元日本軍の軍人が数多く投獄されていましたが、中にはソ連か中国共産党軍のスパイと思われるような日本語の達者な中国人も紛れていました。
スパイがどこに潜んでいるかわからない、心打ち解けられる人はいない―。

閉鎖的な環境で1年近く閉じ込められるうち、私は負の妄想に取り憑かれるようになっていったのです。
(俺は、ここで殺されるんだ。俺は死ぬんだ)
私は、帰国はおろか、自分に未来があるとは到底思えないのでした。

「母さん、Kは帰ってきたよ」

ここが死に場だと思っていたところ、私はある日突然、牢から放り出されました。

あてのない私は、ひとまず牡丹江の日本人難民所を頼ることにしたのです。日本人難民会が親切にしてくれたおかげで、赤十字病院のボイラー炊きなどの仕事や居候(いそうろう)先を得ることができ、なんとか生きる道をみつけました。

しばらくそうして暮らしていましたが、いっこうに帰国のめどは立たず、周囲の勧めで同じ日本人難民の女性と結婚し、生活の基盤を作ることにしました。
そして迎えた、1953年。私のところにやっと日本人引き上げの知らせが届いたのです。

終戦からじつに、8年の歳月が流れていました。待ち望んだ帰国― 。
「母さん、Kは日本に帰るぞお!」
私は嬉しくて、人目も気にせず、空に向かって大声で叫んでいました。郷里の母にこの声が届くような気がしたのです。
同年9月6日、私は引き上げ船「高砂丸(たかさごまる)」に乗りました。すし詰めの船体で何時間も波に揺れていると、ついに日本が見えてきました。

甲板(かんぱん)に出て舞鶴港を見ると、そこには家族の帰国をまだかまだかと待ち望む人の群れがあります。そしてその中に、何度も夢で見た、あの母の姿をみつけたのです。
「母さーん! Kだよ!」
「K! よく帰ってきたね……」
出兵して以来約9年ぶりの再会。ハンカチで目をおさえている母の顔を見て、私はやっと、生きて帰ってきたのだと実感したのでした。

人は死んだらどこへゆくのか

帰国した私は、まもなく北海道で中学校の社会科教員を務めることになりました。仕事にも慣れ、平穏な毎日が続きましたが、ふと戦争で命を落とした仲間のことを思い出しては、「人は死んだらどこへいくのか」と、霊的なことに思いをはせるようになっていったのです。

答えを求めていくつもの宗教書を読みました。しかし、私の問いに明確に答えてくれる教えは、なかなか見つけることができませんでした。
そして、すでに教員を退職していた1989年、友人の勧めで大川総裁の書籍『太陽の法』に出合ったのです。

「人間が死んで、あの世に還っても、生きていたときの記憶は、少しも失われません―」

(え、どういうことだろう……)
『太陽の法』には、人間の本質は肉体ではなく魂(たましい)であり、この世とあの世を何度も生まれ変わりながら魂を磨いていることや、霊界(れいかい)と言われる世界の様子、宇宙のはじまりの真実など、壮大な教えが説かれていました。

(俺はこれが知りたかったんだ―)
私は、それから『仏陀再誕』『永遠の法』『黄金の法』など、大川総裁の書籍を夢中で読みあさったのです。そして、1990年に幸福の科学の会員(※1)になり、仏法真理(ぶっぽうしんり)を学びはじめました。

2007年に妻に先立たれ、私はさらに本格的に心を見つめていく決意をして、約2年前に、幸福の科学の晩年修行の場であるシニア黄金館(※2)に入所したのです。

シニア黄金館には共に教えを学ぶ仲間たちが集い、毎日、反省、瞑想(めいそう)、祈りの実践や、経典や法話の学習、体力づくりなどを行っています。
たくさんの法友(共に教えを学ぶ仲間)がいるおかげで、私はちっとも寂しくありません。とても楽しく、幸福な晩年を過ごすことができてありがたいと感じる毎日です。
(残りの人生、幸福の科学の教えを学んで「心の総しめくくり」をしよう―)

※1 幸福の科学の会員になる方法について、詳しくはこちら
※2 シニア黄金館:60歳以上の会員信者を対象にご用意している「晩年出家制度」において、宗教修行に取り組んでいただくための宗教施設です。ご興味がある方は、お気軽にシニア事業室までお問い合わせください。TEL 03-6384-0112


ふせんを貼って何度も読みこんだ書籍『仏陀再誕』。

幸福の科学のシニア黄金館(栃木県宇都宮市)

自分の人生と祖国への誇りを取り戻して

シニア黄金館で「生涯反省」に取り組んでいくと、やはり、あの戦争のことを考えて悶々とすることがありました。

先の大戦のことを「日本の侵略戦争だ」「日本は中国や朝鮮半島の人々を傷つけたのだ」と決めつける戦後の風潮に、違和感を覚えると同時に、元軍人として、とても悔しい思いを持ち続けてきたからです。

しかし、そんな苦しみが解放されるできごとがありました。
大川総裁が霊的なお力で、東條英機(とうじょう・ひでき)首相や牛島満(うしじま・みつる)中将などの軍人の霊言(れいげん)を行い(※3)、その本心を聞いてくださったのです。

そして、霊言によって、「戦前の軍人は人格的に立派な方々だった」「日本は侵略国家ではない」という真実を明らかにし、先の大戦の歴史認識を改める社会啓蒙に取り掛かってくださいました。

大川総裁がおっしゃる通り、あの戦争は、日本が自国の利益のために始めたのではなく、欧米列強に虐(しいた)げられていたアジアの同胞(どうほう)を解放するための「聖戦」でした。私を含め、当時の軍人たちは、その共通認識を持ち、使命感から、自分の命を惜しまずに戦地に向かいました。

戦いには敗れてしまったものの、日本のおかげで第二次世界大戦後に欧米の植民地支配から解放され、独立できた国は数多くあります。

私は、自分が命をかけて挑んだ戦いが、「間違い」ではなかったのだと明らかになったことで、「自分の人生」と「日本という国」に、改めて誇りを持つことができたのです。本当に心が救われる思いでした。

※3 東條英機首相や牛島満中将などの軍人の霊言:『公開霊言 東條英機、「大東亜戦争の真実」を語る』『沖縄戦の司令官・牛島満中将の霊言』として幸福の科学出版から発刊。

従軍慰安婦問題の真実

韓国の”元慰安婦”の方々が、私が過ごした満州の牡丹江に強制連行させられたと証言していました。しかし、真実は違います。
慰安所は軍の運営ではなく、朝鮮人経営者が商売として営んでいましたし、働く女性たちもいわゆる”プロ”の方々でした。

私はそれを現地で見て、聞いてきました。ですから、強制連行などは全くありえないことです。日本軍の規律はとても厳しく、上官からは「慰安所には行くべきでない」とはっきり注意が出されていたくらいです。私は生き証人として、戦後の間違った歴史認識を改めていきたいと思います。

今、中国や北朝鮮という全体主義国家が日本の平和を脅(おびや)かそうとしています。このような国に日本が侵略されると、私たちは人権も自由も奪われ、どれほど辛い日々を送ることになるか…。
ソ連や中国共産党軍の捕虜となり、投獄された経験がある私だからこそ、日本に迫っている危機を実感を持って語ることができます。

戦後教育によって、軍事力を持つことがすべて「悪」のように思われるようになりましたが、国防は当然のことです。それは大切な人を守ることであり、平和を守ることなのです。私はこの体験談を通して未来を担う若者たちに、そのことを伝えていきたいと思っています。

書籍で学ぶ自由と平和を守るために

『国を守る宗教の力』より(大川隆法 著/幸福の科学出版)

自由のもとになる信仰

私は、常々、「自由の大国をつくれ」と説いていますが、自由というのは、本当に大事な価値です。
自由なくして平等だけを求めると、強力かつ強大な国家権力によって、自由が簡単に押しつぶされてしまうことがあるので、「自由の確保」は大事なのです。

そして、自由のもとになるのは信仰です。
信教の自由がなければ、言論の自由も出版の自由も、何一つ守ることはできません。

信教の自由とは、神仏が「人間の尊厳」を守ろうとしておられる部分に当たる、最も大事なものなのです。

「人生の問題集」を見つけ、解決しませんか?

心の力を、あなたも使おう心の力を使おう

あなたも心の力を学び、運命を逆転させてみませんか?

書籍本を読む

法話法話を直接聴く

お近くの幸福の科学の精舎や支部で開示中です。

ラジオラジオを聴く

1991年の放送開始以来、多くのリスナーに愛され続けているラジオ番組「天使のモーニングコール」

関連リンク

信者体験談一覧
ラジオ番組「天使のモーニングコール」
大川隆法総裁 公開法話・霊言一覧
幸福の科学出版
幸福の科学の研修施設(精舎)
幸福の科学 機関誌 隔月刊「ザ・伝道」一覧

やり直せない人生などない

209

バブル崩壊後の不況のさなかに職を失って人生が暗転し、一度は自殺を試みたAさん。その後、幸福の科学との出会いをきっかけに立ち直り、現在は「恩返し」の人生を歩んでいます。人生の逆境から立ち直れた要因は何だったのか。その足取りをたどります。
(Y.Aさん/東京都/男性/「ザ・伝道」第209号より転載・編集)
※こちらの記事は、映画「心に寄り添う。」に関連する体験談です。

体験談どん底で出会った「人生の師」

暗い海に向かって

CL[209]01_入水

ある1月の夕暮れ。私は、熱海の海岸に座り込み、缶ビールを片手に、一人、沈みゆく太陽を眺めていました。夜になり、周囲に人気がなくなると、暗い海に向かってゆっくりと歩みを進めていきました。
(もう、いいや。少し疲れた……)
冬の海の冷たさが身体を刺すように感じられましたが、歩みは止まらず、いつしか海水は膝の高さに達していました。

転落の始まり

「君なら独身だし、まだ若いし、どこに行っても大丈夫だから」
勤続11年目の夏、勤めていた鉄道用計器メーカーの上司が、突然そう切り出してきました。私は、即座にはその意味を理解できず、何度か真意を問いただすと、上司は「リストラの対象になったんだよ」と告げました。原因は、仕事への姿勢にあったようでした。私は自分の仕事を急いで終わらせては、幼少期から入れあげていた地域のお祭りの運営のため、会社をたびたび休んでいました。「自分の仕事はやっているから、文句はないはずだ」と思っていましたが、そんな姿勢は、バブル崩壊後に業績が低迷していた会社からは、苦々しく思われていたようでした。また、就職後に覚えたパチンコにのめり込んで借金を重ね、月末になると金策で頭が一杯になっていたことも、仕事への集中力を削いでいたのかもしれません。いずれにせよ、ショックのあまり、家族にはしばらく切り出すことができませんでした。

日々すり減る自分の「価値」

リストラの件はやがて家族の知るところとなり、私も次の職を探し始めました。とはいえ不況の折、仕事は見つかりません。見かねた父が自分の勤める工務店に口を利いてくれ、私はそこで働くことになりました。しかし約3年後、作業中の事故でヘルニアを患い、その職場からも離れることに。再び職安通いの日々が始まり、そのうちに中学校時代の先輩が経営する警備会社に転がり込みました。しかし、仕事は少なく、ほどなくして給料が遅配気味になりました。ときおり配置される工事現場の警備では、歩行者や工事関係者から罵声を浴びせかけられたり、タバコや空き缶を投げつけられたりします。やすりにかけられているかのように、自分の「価値」がすり減っていく毎日。みじめな気持ちを紛らわすかのように、パチンコ通いの頻度が増え、借金も500万円近くまで膨らんでいました。その年の暮れ、人手不足だった同業他社への転職話が来たことと、給料の支払いが完全に止まってアパートから追い出され、実家に戻ったことを契機に、逃げるようにその会社を辞めました。

「このまま行けば、楽になれる」

戻った実家で目にしたのは、共にガンを患って入退院を繰り返して衰弱し、経済的にも困窮する両親の姿でした。次第に私は、「自分がいなくなれば、せめて親の家計だけでも楽になるかもしれない」という考えに心をとらわれるようになりました。そして、1月。私は、誰にも告げずに家を抜け出してフラリと電車に乗り込み、熱海の海に歩みを進めたのです。
(このまま行けば、楽になれる……)
しかし、不意に、生まれたばかりの甥や姪の顔が浮かんだことで我に返り、とたんに震えが来た身体をさすりながら海岸まで戻りました。岸に上がると、目の前に旅館の公用車が止まっていました。鍵は付いたままで、施錠もされていません。
(温まるために、ちょっと失敬しよう)
ドアを開けてエンジンをかけてエアコンをつけ、あてどなく東に向かって走り出しました。しかし、ガソリンはすぐに底をつき、立ち往生。車を捨てて歩き、東京の町田という街の駅前に着いたときでした。海水に浸かった状態から数日を経て異臭を放ち、服装もボロボロだった私に、あわれみの視線が注がれます。
(お願いだから、そんな目で見ないでくれ……。もう無理だ!)
私は、近くにある交番に飛び込んで自首。窃盗の罪で逮捕され、留置所に入ることになったのです。

どん底で芽生えた決意

CL[209]02_留置所

(なぜ俺は、石ころみたいな扱いを受けなきゃいけなくなった? 一体どこで道を間違えた? そもそも、あのリストラさえなければ……)
暗く冷たい留置所で、私は自問しました。当時の私にとって、世間とはあまりに冷たく無慈悲なもののように感じられていました。「どうせ仕事もクビに決まっているし、親からも勘当されるに違いない」と捨て鉢な気持ちを抱えながら、2カ月後の昼下がり、私は刑期を終え、「塀の外」に出てきました。すると――。春の日差しの下、病気で弱っているはずの両親が立っていたのです。
「ま、レンタカー代だ」
父が口にしたのは、たった一言のみ。母も、「お前の会社の社長さん、『行くあてがなければ、続けて働いてくれればありがたいです』っておっしゃってるよ」とだけ言いました。
(父も母も、言いたいことはたくさんあるだろうに。社長にしたって、勝手に仕事に穴を開けたので、普通なら解雇が当然なのに。みんな、こんな俺を待っててくれた!)
私は、思わずその場で崩れ落ちました。人生、やり直してみせる――! 熱いものが、腹の奥底から込み上げてくるのを感じていました。

生涯の師を探し求めて

出所以降、私は、図書館に通って本を読みあさり、生涯を通して教えを請うべき人、「貴人(きじん)」を探し求めていきました。自己啓発、お金の知識、いろいろ手を伸ばしましたが、どこか軽薄な感じや利己的な感じがして、なかなかしっくりきません。そんな折、職場の同僚から幸福の科学の行事に誘われました。
(自分を変えたいとは思っているし、入る、入らないは別にして、一度話を聞いてみよう)
近くで開催された大川総裁の法話の上映会に参加したのです。終了後、信者の人たちとお茶をしていたとき、「あなたの人生のヒントになるかもしれない映画があるので、私たちの支部まで来られませんか?」と言われました。興味をそそられ、向かった幸福の科学の支部で観たのは、映画「太陽の法」※でした。2時間後、私は号泣していました。
「神は、あの太陽のように、決して休むことなく愛を与え続け、何も見返りを求めることがない。神の子である人間もまた、あの太陽のように愛を与え続けて生きていくことだ」
映画のなかで語られていた、「見返りを求めずに与え続ける、無償の愛」という考え。それは、「真人間」に変わろうともがいていた自分にとっての、人生の道標のように感じられました。必ず会えると信じてきた「貴人」の教えが、もしかしたら、ここにあるのかもしれない、そんな思いで、約1カ月後、私は三帰誓願※しました。

※映画「太陽の法」:大川隆法総裁の書籍『太陽の法』を原作とする、幸福の科学のアニメーション映画。2000年に全国で公開された。
※三帰誓願:仏・法・僧の「三宝」に帰依して、修行を続けることを誓うこと。

過去の自分との対決

(でも、知り合いに「自分が幸福の科学の信者だ」と知られるのも嫌だし、できる範囲で、「愛」を与えていけばいいだろう)
そう思った私は、誰に会わずともできる布教誌配布のボランティアや、大川総裁の書籍を刑務所に郵送で献本する活動を始めました。しかし、長年染み付いた自分の悪癖は、一朝一夕に断つことができませんでした。父が亡くなって精神的な後ろ盾がなくなると、「自分を守ってくれる人がもういない」と、パチンコ店に駆け込む日が増え、借金額も徐々に大きくなってきました。
(なぜ俺は、まっとうに生きられないんだろう。このままでは、また元に戻ってしまう)
自分を過去に引き戻す、重力のような力を感じていました。
「どうしても弱い心が治りません。でも、本気で変わりたいんです!」
恥をしのんで、私は幸福の科学の講師に打ち明けました。すると、大川総裁の書籍『不動心』を勧められました。
「今までおつらかったでしょうね。でも、幸福の科学の教えには、人生の逆境に立ち向かう心構えも説かれているんですよ」
「これが最後のチャンスかもしれない」と感じた私は、時間を見つけては、その本を何度も読み返しました。30回目を読み終えたときだったでしょうか。ある一節が、急に、自分の心に迫ってきました。
「『立ち向かう人の心は鏡なり』という言葉があるように、自分の心が変わっていけば、相手も自然に変わっていくのです」
(自分の心に、すべての原因があるということか? とすれば、自分のなかにある「原因」とは、何だったんだろう)
その答えを求め、私は、パチンコ店のある場所をできるだけ迂回するなどして賭けごとを控え、お金を貯めては精舎に行き、研修への参加を重ねていきました。

思い浮かんだ「愛」と「恩」

CL[209]03_泣く男性

転機は、「八正道」をテーマにした研修を受けたときに訪れました。1泊2日の日程で、自分の歩みを静かに振り返っていくうちに、不意に、いくつかの場面が胸に浮かんできました。それは、高校卒業後に勤めた鉄道関係の会社での記憶の断片でした。
「君は字がキレイだから、今回はリストラの対象から外そう。これからは、心を入れ替えてやってほしい。期待してるよ」
思い返せば、リストラの1年ほど前にも、私は人員整理の候補になっていたところを、社長から直々に救われていました。「お前はもっと、人の話を聞く耳を持たないと、伸びんぞ」と、会社の同僚たちも、仕事より地域のお祭りの運営を優先する私を心配し、部署の垣根を越えて、忠告してくれていました。私に解雇を通知した上司も、「彼がクビになるのは、おかしい!」と、裏では抗議を続けてくれていました。考えてみれば、リストラを回避するのに、字のきれいさなど何の理由にもなりません。それでも社長は、自分にチャンスをくれました。同僚たちも、自分自身がリストラ対象者になるかもしれない不安のなか、私にロープを投げてくれていました。また、上司も、上にたてつけば、自らの身にも危険が及ぶ可能性があったにも関わらず、それでも私を守ってくれようとしていました。そんな人たちの恩を、私はこれまで忘れ、逆に恨んですらいたのです。
(これだけの人から私はこれまで救いの手を差し伸べられていて、それを自分で振りほどいたのに。本当に俺は、バカ野郎だ……!)
「恩知らず」の一語が胸に迫り、両手が自然と胸の前で合わさります。頬を伝った涙は、止まることがありませんでした。
主エル・カンターレ※、恩知らずだった私に、「愛」を思い出させてくれて、本当にありがとうございました! そして、本当に申し訳ありませんでした)
研修の帰り道に見上げた青空は、ひどく鮮やかに見えました。

※エル・カンターレ:幸福の科学の信仰の対象であり、イエスが父と呼び、ムハンマドがアッラーと呼んだ存在。

恩返しがしたい

それ以降、人生のやり直しを期した、私の毎日がスタートしました。
「私は、かつて、自分で死のうとした経験がありますので、お気持ちは分かるつもりです。もし、あなたが苦しく、つらい思いを抱えているなら、ぜひ、私にお気持ちを聞かせてください」
かつては、「宗教に入ったことがばれてしまう」と避けていた「自殺を減らそうキャンペーン」。今では、その活動に努めて参加し、地元の街頭で啓発活動を続けています。その途中、ふとした折に道行く人からいただく「ありがとう」の一言が、私の背中を後押ししてくれます。大川総裁の書籍を刑務所に郵送する際に添える、自分の体験を明かした手紙を書く際にも、自然と熱がこもります。
(世間、そして神仏からいただいたものを、少しずつでも世の中に恩返しする。これが、自分の生きる道だ!)
こういった決意が、少々のことで動じない、自分の「重し」になっていったのでしょうか。かつてはストレスを感じるとすぐにパチンコに走っていましたが、今は一切やらず、膨らんだ借金もなくなりました。最近では職場でも、「警備員という今の自分の立場で、何が改善できるか」を考えられる強さが生まれ、「警備員として誇りを持てる仕事をしよう」という気概が芽生えています。気づけば、今年で勤続15年目。これまでの職歴のなかで、最も長く勤めていることになります。

「やり直せない人生など、絶対にない!」

リストラ、借金、自殺未遂と、かつて私は、ある意味でのどん底を経験しました。ですがそんな私でも、今は、自分を信じ、他人に感謝し、神仏を信じて、心穏やかに生きています。自分の半生からお伝えできるものがあるとすれば、「やり直せない人生など、絶対にない」ということです。生きていれば、つらいこと、苦しいこと、みじめになるようなことは、たくさんあります。その一方で、私たちに愛を与えてくれる人、心配してくれる人、寄り添ってくれる人も、必ずいるはずです。過去の苦しみを握りしめて生きるか。それとも、人さまからの恩を見つけ、感謝を捧げられるか。どちらを選ぶかで、人生の幸・不幸も変わってくるのでしょう。それを教えてくれたのは、幸福の科学、主エル・カンターレでした。
(大川隆法総裁こそ、自分にとっての「貴人」だったんだ)
信者になって以来、そう確信する日々です。立ち直らせてもらった人生。人にはない体験をしたからこそ、分かる気持ちもあると思います。一人でも多くの方の心に刺さるトゲや傷を癒してさしあげたい。今後はそんな生涯を歩み、恩返しとさせていただければと思っています。

書籍で学ぶ与えられているもののなかで最善の生き方をしよう

『アイム・ファイン』(大川隆法 著/幸福の科学出版)より抜粋したメッセージ

「そのあなた」を、仏は肯定している

『アイム・ファイン』(大川隆法著/幸福の科学出版)

男女の性別、年齢、頭のよし悪し、体の大小など、他人との違いは、いろいろあるでしょう。性格にも、外向的な性格と内気な性格がありますし、仕事でも、向き不向きなど、いろいろあるでしょう。しかし、それであってこその個性です。
他の人々の存在を肯定するなら、自分自身の存在をも肯定しなさい。「そのあなたでよいのですよ」と言って、仏は許しているのです。「そのあなたでよいのです。他の人でなくてよいのです。その名前を持ったあなたでよいのです」と、今世の魂修行を許可されたのですから、あなたは、あなたの生き方をしていけばよいのです。
いま与えられているもののなかで、自分として最善の生き方をしていくことです。

「人生の問題集」を見つけ、解決しませんか?

人生相談を行っています

幸福の科学では悩み解決や人生の好転をサポートしています。悩みや相談ごとのある方はぜひ支部にお越しください。幸福の科学で修行を積んだ実績ある支部長・講師がお話をうかがいます。プライベート・秘密はお守りしますので、安心してお話しください。

心の力を、あなたも使おう心の力を使おう

あなたも心の力を学び、運命を逆転させてみませんか?

書籍本を読む

法話法話を直接聴く
お近くの幸福の科学の精舎や支部で開示中です。

ラジオラジオを聴く

1991年の放送開始以来、多くのリスナーに愛され続けているラジオ番組「天使のモーニングコール」

関連リンク

ハピママしあわせ相談室
幸福Cafe(ハッピーカフェ)
ラジオ番組「天使のモーニングコール」
大川隆法総裁 公開法話・霊言一覧
幸福の科学出版
幸福の科学の研修施設(精舎)
幸福の科学 機関誌 隔月刊「ザ・伝道」一覧

「伝道」とは、仏法真理を学んで幸せになった方が、自らも教えを弘(ひろ)め、幸福な人を増やそうとする愛の行為です。今回は、ご近所づきあいを通して伝道された女性の体験を紹介します。
H・Hさん(兵庫県)
月刊「幸福の科学」374号より転載・編集)

体験談人生変わった!私が伝道された理由(わけ)

今から15年前、私はうつ病を患(わず)らい、肉親を頼って兵庫県に越してきました。そこで、ご近所に挨拶に伺った際にKさんご夫妻と知り合い、言葉を交わすうち、お2人が幸福の科学の信者で、教えを勉強していると聞いたのです。

しかし、「私には関係ない」と思いました。というのも、私は他宗の信者の家に生まれ、うつ病になるまで数十年間、そこの信者としてバリバリ活動していたからです。

「私は、他の宗教を信じとるから」
そう告げた後も、お2人は私の病気を気遣(づか)って、毎週、わが家を訪ねてくれました。他愛のない世間話をするだけでしたが、兵庫県にあまり知り合いのいない私にとって、それはとても楽しく、元気をもらえるひとときでした。

そうして1年が経ったころ。ある日、ご主人のKさんが、「幸福の科学の支部に行ってみないか」と誘ってきたのです。

間違いを指摘するつもりが…

私は気が進まなかったのですが、実は内心、「いつか幸福の科学の教えの間違いを見つけて『ここがおかしい!』と指摘し、Kさんに”ギャフン”と言わせたい」と思っていたのです。

そこで、Kさんと一緒に支部に行き、『仏陀再誕』という本を入手。自宅に帰って読んでみました。すると……。

「諸々(もろもろ)の比丘(びく)、比丘尼(びくに)たちよ。私の声を憶(おぼ)えているか―」

読み始めると、思いがけず涙があふれてきたのです。間違いを指摘するつもりだった私は、逆に心を惹(ひ)きつけられてしまい、他の本も読んでみることにしました。また、時々、支部に顔を出すようになりました。

「反省」の教えで自己変革

大川隆法総裁の本で、私は「反省」の教えを知りました。反省とは、自分の思いや行いを振り返って、間違っていたら素直に改めていくことです。

私が信仰していた宗教には反省の教えがなく、私は人の欠点をズバズバと指摘する癖があったのです。相手と口論になることもしばしばでした。

(私は言葉で人を傷つけてきたんだ。申し訳なかった……)

それに気づいてから、毎晩、その日自分が発した言葉を点検して、「言い過ぎたな」と思ったら、その人に電話をかけて謝るようにしました。また、悩みが解けないときは、いつもKさんご夫妻が相談に乗ってくれて、私を励(はげ)ましてくれました。

そうするうちに、私は気持ちが安らいでくるのを感じました。キツイ言葉が減り、周囲の方から「優しくなった」と褒(ほ)められることも。そして、気がつくと、うつ病の症状もすっかり治っていたのです。

私を幸福の科学に導いてくれたKさんご夫妻に、心から感謝しています。

Hさんが笑顔になって、ホッとしています

お会いした当初、Hさんは他宗の信仰を持っておられたので、いきなり幸福の科学の教えを伝えるよりも、「まずは、信頼関係を深めよう」と思いました。そして、Hさんが幸福の科学に少し興味を持たれたころに、教えを伝えていったんです。今、Hさんはすっかり元気になり、支部で皆を迎えてくれる”お母ちゃん”的存在です。
(伝道した人、Kさん)

書籍で学ぶ信じられる世界へ

『伝道の法』(大川隆法 著/幸福の科学出版)第6章 信じられる世界へ/4「信じ切る」という最終点を目指せ

最も尊い愛は「真理を伝える」という愛

確かに、世界には飢えている人がいるでしょう。病気で苦しんでいる人もいれば、さまざまな苦労のなかにいる人もいるわけです。

しかしながら、そうした苦労や苦難、逆境があるから、神がいないということではありません。そのような苦難のなかを、多くの人々が生きているからこそ、神は必要なのです。

そして、神は実在します。どうか、もう一度、初心に戻って、信じるところから始めてください。スタート点は、「信じる」ことです。そして、最終点は、「信じ切る」ことです。信じるところから始まって、信じ切るところが、あなたがたの最終点になります。

あなたがた一人びとりに、光が与えられています。私から受けた光は、あなたがたに必ず点火されているのです。その松明を頼りに、闇夜のなかを、ただひたすらに行進してください。全世界の闇夜を照らし切るまで、あなたがたの仕事に終わりは来ないのです。

この日、このとき、この夜に聴いた言葉を、どうか忘れないでください。私は、今しばらく、あなたがたと共に、この地上にあり、この地上を照らし、法輪を転ぜんとする者でありますが、わが説く法は、五百年たっても、千年たっても、二千年たっても、三千年たっても、滅びてはならない「永遠の法」であるのです。

どうか、この「永遠の法」を聴いた者として、その誇りを胸に刻み、日々の生活を切り拓いていってほしいと思います。そして、みなさんが理解した真理を、どうか周りにいる人たちへ、手の届く人たちへ、声の届く人たちへ伝えてください。伝え切ってください。それが、「愛」なのです。

人々に対する愛として、いちばん尊いものは、「真理を伝える」という愛です。真理を伝えることが、最も尊い愛であるのです。

「人生の問題集」を見つけ、解決しませんか?

心の力を、あなたも使おう心の力を使おう

あなたも心の力を学び、運命を逆転させてみませんか?

書籍本を読む

法話法話を直接聴く

お近くの幸福の科学の精舎や支部で開示中です。

ラジオラジオを聴く

1991年の放送開始以来、多くのリスナーに愛され続けているラジオ番組「天使のモーニングコール」

関連リンク

信者体験談一覧
ラジオ番組「天使のモーニングコール」
大川隆法総裁 公開法話・霊言一覧
幸福の科学出版
幸福の科学の研修施設(精舎)
幸福の科学 機関誌 隔月刊「ザ・伝道」一覧

カテゴリー
QRコード
携帯QRコード
幸福の科学リンクバナー

幸福実現党公式ホームページ

幸福の科学学園

精舎サイト「精舎へ行こう」ポータルサイトへ

幸福の科学出版

幸福の科学のラジオ番組 天使のモーニングコール

WITH YOU