重度の障害を持つ息子と過ごした20年【幸福の科学 信仰体験】
この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第175号より転載し、編集を加えたものです。
Nさん(50代・女性)
Tが居た場所
豊かな自然が広がる埼玉県某市の閑静(かんせい)な住宅街に、我が家はあります。
そのリビングルームのテレビの前が、長男Tの“定位置”でした。
そこに布団を敷いて、重度の障害で寝たきりだった彼は、いつも横になっていました。
食事を摂るのも、オムツを換えるのも、眠るのも、いつもその場所。
夕食をすませた家族は、自然と彼の布団の周りに集まって、テレビを見ていました。
夏には自然のさわやかな風が吹き抜け、冬には、暖かいこたつとストーブの火。
我が家のリビングには、いつも彼を中心に、家族の笑い声と笑顔がありました。
けれど、今はもう、そこに彼の布団はありません。
5年前のお正月、長男は天国へと召されていったからです。
心臓手術
Tが生まれたのは1988年1月22日。
よく晴れた寒い朝でした。
結婚4年目でようやく授かった我が子に、私たち夫婦はとても喜びました。
しかし、その喜びもつかの間。
3カ月検診で“心雑音(しんざつおん)”が認められ、病院で検査を受けた結果、心臓内部の壁に先天的に穴が開いている「心房心室中隔欠損(しんぼうしんしつちゅうかくけっそん)」と診断されたのです。
すぐに入院するように言われ、荷物を取りに家に戻った主人と私は、二人で大声をあげて泣いてしまいました。
その年の6月、Tは心臓の手術をするために、他の病院へ転院しました。
手術は、8時間にもおよぶ大手術となりました。
そして、24時間後に麻酔から醒(さ)めた彼は、心停止を起こしてしまったのです。
医師や看護師たちが、あわただしく動き始めました。
電気ショック、心臓マッサージ・・・。
奇跡的に心臓の鼓動は戻り、彼は何とかその幼い生命をつなぎとめることができたのです。
神様、どうか・・・
しかし、退院後もTは、ミルクを詰まらせて肺炎を起こすなどして入退院を繰り返し、クリスマスもお正月も、1歳の誕生日も、病院で過ごしました。
それでも、だんだん食事も摂れるようになり、4月には退院。
6月には、長女が生まれました。
その3週間後。
彼の呼吸状態が悪くなり、すぐに救急車を呼びました。
病院に着くと、彼はまたも心停止を起こし、意識を失ってしまったのです。
主人と私は、本当は家族も入室できない集中治療室に入れてほしいと頼み込み、医師たちが懸命に心臓マッサージを施すかたわらで、必死に祈りました。
「私の命をこの子にあげてもいい。だから神様、どうか、この子の命をお助けください!」
主人はそう祈った、と話してくれました。
講演会での質問
心臓は動き始めましたが、昏睡状態(こんすいじょうたい)は続き、Tは病院の集中治療室で眠り続けました。
ちょうどそのころ、幸福の科学の大川隆法総裁の講演会が埼玉県・大宮市で開催されました。
私は、すでに幸福の科学の会員となっていた主人に誘われて、初めて大川隆法総裁の講演会に参加することにしたのです。
「どうして何の罪もない幼い彼が、こんな試練に遭わなければならないのだろうか・・・。主人が信じている大川総裁なら、その答えを教えてくださるかもしれない」
そんな期待がありました。
そして、講演会の質疑応答で、主人はたくさんのなかから当てていただき、なんと、直接、大川総裁に質問することができたのです。
「先天的に障害がある子供を持った場合の、親としての心構えをお教えください」
大川総裁の答えは、力強いものでした。
「親としても重荷を負うことは事実でしょう。けれども、人は皆、あの世で人生の計画を立てて生まれてきます。そして、その人に背負えない重荷は計画してきません。また、障害を抱えての人生は、通常の人生の数百年・数千年分にも匹敵するほど尊い魂修行になります。今世、大きなハンディを持って生きた人ほど、来世で大きく伸びていきます。それだけ魂が輝くのです。どうか、愚痴の人生、他人の同情を受けるだけの人生で終わらせることなく、ハンディに負けずに、明るく建設的な生き方ができるよう励ましてあげてください」
私は、愛と確信に満ちた大川総裁の言葉に圧倒されました。
ただ、大川総裁の答えの本当の意味を理解するまでには、まだ、しばらくの時間が必要だったのです。
やっと目が開いたけれど・・・
病院で、約10日間にわたって眠り続けた、長男の目が開きました。
けれど、以前の彼とは別人のような目でした。
入院前は、1歳半の標準よりは小さいながら、お座りもでき、手を出して「抱っこ」をせがんだり、大きな澄んだ目をキョロキョロさせて、いろんな“芸”も見せてくれていました。
「あのTちゃんは、いったい、どこへいっちゃったの・・・?」
戸惑う私に、医師は言いました。
「脳に重い障害が残り、これ以上良くなることはありません。もう何も治療することはないので、一般病棟に移ります」
私には、その意味がよく分かりませんでした。
というより、このときの私には、まだ受け入れることができなかったのだと思います。
彼がもう二度と自分の足で歩くことができないこと、可愛らしい小さな手にスプーンを持って大好きないちごのケーキを食べることもできないこと、そして、もう二度と、愛くるしい笑顔で笑うこともないことを—。
ボーッとしたままバスに乗って帰宅し、長女をみてくれていた母に、医師の言葉を伝えていると、急にポロポロと涙がこぼれました。
心臓の手術をしたときには、「体が弱くても、勉強でがんばれば大丈夫よね」と、母と励まし合い、彼の将来に夢を抱いていました。
やるせない思いで、いっぱいになりました。
人生は一冊の問題集
Tの入院中、私はベッドの横で、幸福の科学の書籍を10冊読み、入会願書を提出して、会員となりました。
※当時は、経典を10冊以上読み、願書を提出する「入会願書制度」があり、合格は約4割であった。
書籍のなかの、「人生は一冊の問題集」という言葉が、私の胸に深く響きました。
人間は幾度も転生輪廻を繰り返していて、毎回、違う人生を自ら計画し、自分なりの問題集を選んで生まれてくる。その問題を自分の力で解くことが魂の向上につながる—。
そのようなことが書かれていました。
「これも、私の人生の問題集? Tも、自分で人生を計画してきたのだろうか・・・。だとしたら、問題から逃げずに、前向きに彼を育てていくことが、大宮の講演会で大川総裁が言われたことの意味なのかしら・・・」
笑顔も消えて
約5カ月間の入院ののち、長男が退院したのは、すでに秋風が吹くころでした。
ミルクも飲めない鼻には、経管(けいかん)栄養のためのチューブが挿入され、
あんなによく笑っていた顔からは、すっかり笑顔が消えていました。
そして、週1回のリハビリと内科の診察を受けるため、手足の動かない彼をベビーカーに乗せ、1歳にもならない長女を背中におぶって、病院通いが始まったのです。
長女はとても活発な子で、8カ月で歩き始め、「オムツ持ってきて」と言うと、彼の分まで持ってきてくれました。
微笑ましい長女の姿を見るにつけ、五体満足で健康であることがいかにありがたいことかと、あらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました。
通園施設での経験
そんなある日、我が家の近くに肢体不自由児を受け入れてくれる通園施設があることを知り、主人と下見に行きました。
その施設で、最初に言われたことは、「お母さん、ふつうの2歳児が体験することを、Tくんにもさせてあげていますか?」ということでした。
言われてみれば、自宅と病院との往復だけで精一杯で、彼を遊ばせることなど考える余裕すらなかったのです。
ここでは、先生方が、子供たちを抱きかかえてブランコに乗せるなど、全身にさまざまな刺激を与えてくれます。
それがとても心地良いらしく、彼の顔に、少しずつ笑顔が戻ってきたのです。
はじめは週1回だけの通園でしたが、4月には、正式に入園することになりました。
本来ならば嬉しいはずの入園式の最中、急に悲しみがこみあげてきました。
「なぜ私はここにいるの? ここは障害を持つ子の施設。幼稚園じゃない!」
けれども、この日私は、自分が「障害児の母になった」という現実に、初めて正面から向き合い、そして、受け入れることができたのだと思います。
自分に与えられた「人生の問題集」から逃げない。
そして、何があっても、自分の手で、前向きにTを育てていく—。
そう心に誓ったのです。
通園施設に通い始めてから、何とか口から食べられるようにと、根気強くリハビリを続けました。
そのかいあって、彼が4歳になるころには、ペースト状にすれば何でも食べられるようになりました。
鼻のチューブも外すことができ、好きなものを食べると、嬉しそうに笑顔を見せるようになったのです。
長男の障害は、施設に通う子供たちのなかでも最も重度でしたが、食べるのが苦痛で泣きながら食べている子や、思うように飲み込めない子も多いなか、彼が食べることを楽しみにしてくれるようになったことは、私にとっても、大きな救いとなりました。
たとえ障害があっても
1991年から95年まで、年2回、東京ドームで、5万人が集う大川隆法総裁の講演会が開催されていました。
私は、Tに大川隆法総裁のお話を聞かせてあげたい一心で、東京ドームでの講演会のすべてに彼を連れて参加しました。
当時は、「障害児は家に隠しておくもの」という暗黙の認識がありました。
外に出すと、多くの人から興味本位の視線が浴びせられます。
それは、耐え難いものでした。Tにとってもきっと同じだったでしょう。
けれども私は、あの埼玉の講演会で大川隆法総裁が言われた、「障害を持っていても明るく建設的に生きる」ということに少しでもつながるようにと、可能な限り、彼を外に連れ出しました。
通園施設でも、運動会、遠足、芋掘(いもほ)り、お遊戯会、お泊り会・・・。
ほとんどすべての行事に参加しました。
もちろん、車椅子での参加でしたが、光や高い音には敏感に反応していたTは、とびきりの笑顔で喜びを表現してくれたのです。
戦争のような日々
通園施設を卒園したTは、養護学校に通い始めました。
そして、彼が養護学校の1年生(小学校1年生)のときに、次男が生まれると、Tの介護と家事・育児で、私の忙しさはさらに加速していきました。
三度の食事にも気を遣います。
Tの食事はすべてハンドミキサーにかけて、ていねいに裏ごしし、スプーンで一さじ一さじ口に運んであげます。
少しでも粒が残っていると、のどに詰まらせたり、気管に入って肺炎を起こしてしまうので、細心の注意が必要です。
オムツ交換は、1日に、7~8回。
失敗すると、下着からズボン、寝具まで総とっかえです。
何回も洗濯機を回さねばなりません。
また、Tが眠ると、ほとんど毎晩のように、夜中に痰(たん)がからんでゼコゼコと苦しみ始めるため、私はすぐに起き出して、痰を吸引しなくてはなりません。
放っておいたら痰を詰まらせ、窒息しかねないのでこちらも必死です。
そのため、私はいつも寝不足でした。
やがて妹や弟たちも成長し、塾に通うようになると、養護学校の往復や塾の送り迎えで、車での走行距離は、計算すると1日約100キロメートルにもなっていました。
飴(あめ)をなめ、歌を歌いながら眠気と戦う日々—。
毎日が必死でした。
落ち込んでいる暇さえありません。
「一番大変なのはTちゃんなんだから・・・」
不自由な体に宿りながら、懸命に生きる長男。
そんな彼を思えばこそ、重度障害児は施設に預ける人も多いなか、私は「Tを自宅で育てる」という信念を貫き通したのです。
ともに励まし合う仲間たち
「Tちゃんは、天使と話しているんだね。きっと、あの世とこの世を自由に行き来できるんだね」
時々、天井のほうを向いてニコニコ笑っている彼を見て、主人が言いました。
幸福の科学では、「脳に障害があって、感じたことや思ったことを体で表現できなくても、魂は健全で、考える力や感じる力、意志を持っている」と説かれています。
きっと彼も、私たちが見えないものを見、感じられないものを感じていたにちがいありません。
また、「体が不自由なのは、この世での数十年の間だけ。あの世に還ったら、どんな障害も元に戻る」という教えには、本当に心癒されました。
通園施設や養護学校で知り合ったお母さん方とは、定期的に会い、励まし合っていました。
「○○ちゃんが入院した」「○○ちゃんが亡くなった」—。
悲しい知らせが舞い込むたびに、障害を持つ子たちは、本当に毎日が死と隣り合わせなのだと思い知らされます。
まだ子供たちが小さいころから、ずっと苦楽をともにしてきたお母さんたち。
「障害も、私たちの『人生の問題集』なのよ。解けない問題は来ないんだって。だから自分のことも、子供のことも、“かわいそう”って、思わないで、がんばっていこうね」
折にふれ、私は信仰によってつかんだ光を、お母さん方にお話ししました。
天使の笑顔
中学・高校と、新設の養護学校に通ったTは、卒業後、昼間の数時間だけ、自宅近くの施設で過ごすことになりました。
体が大きくなると、抱えるのも一苦労。
Tが大好きなお風呂も、私一人では無理なので、男性のヘルパーさんに入浴のサポートをお願いしました。
18歳のころ、Tは福祉を紹介するテレビ番組で、障害者のモデルに“抜擢(ばってき)”されました。
ヘルパーさんがTを入浴させるシーンを、自宅で撮影したときのこと。
彼は終始、笑顔でカメラに収まり、撮影もスムーズに終了。
スタッフの方々を玄関まで見送り、ふと、リビングの彼を見ると—。
ぐったりとして、眠りこけていました。
「Tちゃん、サービス精神旺盛だからカメラが回っている間中、笑顔をふりまいて疲れちゃったんだね。いつも、感謝や喜びの気持ちを笑顔で表わしてくれているんだね」
彼の天使のような笑顔は、神様からの最大のご褒美でした。
その日は突然に
やがて、Tも19歳になりました。
相変わらず、食事を詰まらせたり、痰がひっかかったりするので、気を抜くことはできません。
それでも、幼いころのように入退院を繰り返すこともなくなり、このまま、無事、成人式を迎えられると思っていました。
けれども、その日は突然やってきたのです。
2007年12月16日。
夕食後、お風呂から出た彼の息が、とても苦しそうです。
「救急車呼んで!」
病院に着くと、すぐに人工呼吸器がつけられました。
「肺気胸(はいききょう)です。健常児なら、さほど心配はいりませんが・・・。こういう障害を持つお子さんにとっては、厳しい状態です。覚悟しておいてください」
そう医師に告げられ、私は、誰もいない薄暗い病院の廊下の椅子に崩れ落ち、独りで泣きながら祈りました。
静かに迎えた最期のとき
その後、麻酔で眠っていたTの容態は安定しているように見えました。
けれども、年が明けて2008年1月2日のお昼すぎ。
彼は病室で、静かに息を引き取りました。
あと、ほんの少しで20歳でした。
もう大人の年齢ですが、身長は約140センチメートル。
長年の寝たきり生活で体は湾曲し、床ずれの跡が痛々しく残っていました。
生後半年で受けた心臓手術後の、心臓マッサージのせいで肋骨がずれてしまい、手術の傷跡まで痛々しくずれています。
20年にわたる、闘いの跡でした。
「Tちゃん、よくがんばったね・・・」
彼の顔は、とても安らかでした。
家に戻ってきた亡骸(なきがら)に、私たちは成人式に着せる予定だったスーツを着せて、紫色のネクタイをしてあげました。
主人は、「あの世」に還ったTが、すぐに仏法真理(ぶっぽうしんり)を学べるようにと、大川隆法総裁の法話CDをたくさん棺に納めました。
帰天式
Tの帰天式は、幸福の科学の支部精舎で行われ、300名を超える方々が参列してくださいました。
「Tくん。あなたは、今、肉体という衣を脱ぎ捨て、魂となってあの世へと旅立ちます。19歳と11カ月の今世の命でした。障害を持つ体で、さぞ大変だったことでしょう。でも、今、あなたは自由自在の霊となって、大空へ羽ばたいていきます。障害があっても笑顔で生き切ったTくん。皆様も、Tくんが遺してくれた宝物を大切にして、素晴らしい人生を生き切ってください」
支部長の法話は、参列していた養護学校の先生方やヘルパーのみなさん、そして、ずっと支え合ってきたお母さん方の心にも、深く深く沁みわたっていきました。
「ありがとう」と伝えたい
帰天式のあと、Tのお骨が自宅に戻ってきた夜のことです。
主人は彼といっしょに、やすむことになりました。
私は彼と長年を過ごしたリビングで眠りにつきました。
翌朝、起き出してきた主人が、静かに話し出しました。
「Tと話をしたよ」
「え・・・?」
「夢のなかに出てきた。あのときのスーツを着て、元気に歩いてた。『お母さんを起こしに行ったけど、お母さんは寝ていたから、お父さんのところに来たよ』って」
「Tちゃん、何て・・・?」
「『どうして、20年で逝っちゃったの?』ってきいたら、『20年というのは、僕の人生の計画だった』って・・・。
そして、『主エル・カンターレに、よくがんばったねって、頭をなでてもらったよ』って」
「・・・」
「『そっちの世界で自由な体になって、Tは何がしたい?』ってきいたら、『お母さんにありがとうって言いに行きたい』って・・・」
そこまで話して、主人は声を詰まらせました。そして、2人で涙が枯れるまで泣きました。
20年間、Tも家族も、ただただ無我夢中で生きてきました。
でも、彼は、自分自身で計画した人生を立派に全うしたのです。
たとえ障害があっても、Tは、決して「かわいそうな子」ではなかった。
多くの人に勇気を与えるために、自ら厳しい人生を選び、しっかりと、その使命を果たしたのです。
「お父さん、これでよかったんだよね? 大川隆法総裁があの講演会で教えてくださったとおりに、私たち、がんばれたよね?」
そう問う私に、主人もうなずいてくれました。
T、お母さんは、あなたのお母さんになれて、本当に幸せでした。
ほんとうにありがとう。
たくさんの笑顔をありがとう。
お母さんも、力強く、自分の使命を果たしていきます。
胸を張って天国に還って、もう一度あなたに会えるその日まで—。
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