高橋昌一郎氏(國學院大学)・週刊新潮はご都合主義を反省し、真理に対する謙虚さを取り戻すべきだ
週刊新潮7月23日号にて、科学哲学者の高橋昌一郎氏(國學院大学)が霊言への誹謗を行っている。しかし当方が提示した反論に一切答えず、ご都合主義的な引用に満ちた持論を繰り返す同氏の姿勢には誠実さが感じられない。同氏と週刊新潮は、信仰への中傷をやめ、仏神の前に謙虚になるべきだ。
小保方博士の過去世をキュリー夫人と“断定”する高橋氏
今回のコラムで高橋氏は、小保方博士の過去世の一つがキュリー夫人であると“断定”したうえで、夫人が「科学者の鏡」と呼ばれていることを引き合いに出し、不正研究の中心人物として糾弾されている小保方博士との間に共通点がないことを疑問視している。
しかし、書籍では小保方博士の守護霊について、「おそらくキュリー夫人的な方かと思われる」と推測しているだけで、認定してはいない。過去世判定は容易ではなく、霊人自身が偽って語る場合も無きにしもあらずである。そのため認定にあたっては複数霊人から意見を聞く“三角測量”を行い、誠実さと知的正直さを大切にしながら客観的実証性を担保する努力を続けているのである。
自説に都合のいい引用しかしない高橋氏
一方、高橋氏の文章には、こうした誠実さが見られないのはなぜだろうか。今回同氏は、貧困な家庭に育ったキュリー夫人がノーベル賞の賞金を全額寄付するなど清廉潔白を貫き通した美談を列挙したうえで、「キュリー夫人と小保方氏を同列に扱うような見方に対しては、世界中から囂々たる非難が巻き起こるに違いない」と霊言を批判している。
しかし、キュリー夫人が心ないマスコミやアカデミズムからスキャンダル等で糾弾され、群集に取り囲まれて投石までされたのは事実である。つまり、夫人はマスコミから「悪女」扱いされていたのだ。この苦境に耐えかねて、キュリー夫人は子供たちを連れて自宅を脱出し友人宅に匿まわれたが、まさに小保方博士の現況とそっくりではないか。
霊言とは、その人物の魂の素性・傾向性を見分け、その「筋」を判定するものである。キュリー夫人は時代を一変させる科学的真理の追究に邁進するあまり、周囲の嫉妬を買った。にもかかわらず高橋氏は、キュリー夫人の生涯のうち清廉潔白で不正を嫌う部分だけを取り上げて持論の正当化を図る一方、夫人の「あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やしてしまう」という明らかな傾向性に目を向けないのである。これがご都合主義でなくて何であろうか。
ヒポクラテスを無神論者のごとく描写する高橋氏
こうした同氏のご都合主義は、「医学の父」ヒポクラテスを取り上げた前回コラム(7月16日号)でも顕著だった。
「なぜ、荒唐無稽な話を妄信するのか」と題したこのコラムのなかで、高橋氏は、人間は幼児期に聞いた話を何でもすべて信じ込み神様の仕業などにしてしまうものだとしたうえで、「このような発想を徹底的に批判した」人物としてヒポクラテスを取り上げた。
そして、ヒポクラテスが病気とは自然に発生するものであって迷信、呪術、神々の仕業ではないと考えたことだけを強調し、小保方博士の過去世として相応しくないと批判したのだ。
しかしヒポクラテスは神の存在そのものを否定したわけではない。コラムの最後で高橋氏は、医学部の卒業式で今も唱えられる「ヒポクラテスの誓詞」を取り上げ、その実証主義精神を賞賛してコラムを締めくくっているが、何よりもこの「ヒポクラテスの誓い」そのものが、「医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う」という神々への誓いから始まっているのである。なのに高橋氏は、わざわざこの神への誓いが省略された世界医師会のジュネーブ宣言の方を引用し、あたかもヒポクラテスが医学的な唯物主義者だったかのように登場させているのである。自分に都合の良い形に捻じ曲げた引用を良しとする高橋氏には、「純潔と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う」(「ヒポクラテスの誓い」第5条より)という精神は存在しないのだろうか。
さらに言えばヒポクラテスは、優れた医術の技で死者すら蘇らせ、後に神の座についたとされる医神アスクレピオスの子孫だとされているが、自身の発見や智慧を医神からの賜りものと考えた謙虚な姿勢がそのような伝説を生んだのだろう。霊言で「神様の創造・造化作用を認めたうえで科学が成り立つか」という最終的な戦いに挑んでいると語った小保方博士の守護霊の“神の技”に迫る姿勢と実に重なるではないか。
ちなみに、医神アスクレピオスが持つヘビの巻きついた杖(蛇杖)は、医の象徴として現在も世界的に用いられている。これは、現代医学も医神の指導の下にあると人々が無意識のうちに信じていることの表れであり、医療の現場で仏神の助力が働いており、たびたび奇跡を起こして人々の“目に見えない力”に対する畏敬の念を高めていることの証である。
高橋氏・週刊新潮は謙虚さを取り戻せ
結局、高橋氏は霊言などの神秘現象を論ずるに足る宗教的素養を持ち合わせず、週刊新潮編集部の言いなりになって、幸福の科学への“いいかがり”を繰り返しているとしか言いようがない。的外れな持論を繰り返す同氏には研究者としての矜持があるとは思えない。
高橋氏が科学哲学者を名乗るのであれば、堂々と科学哲学論を展開してみてはどうか。一向にその気配がないのは、やはり週刊新潮と高橋氏の考え方に限界があるからだろう。人間の持つ無限の可能性の扉を開くのは、霊言を始めとする宗教的真理である。両者は、真理を前にして今一度謙虚さと誠実さを取り戻すべきだ。
※なお、週刊新潮に関しましては、『「週刊新潮」に巣くう悪魔の研究』『「週刊新潮」編集長・悪魔の放射汚染』『人間失格 新潮社 佐藤隆信社長・破滅への暴走』『「仏説・降魔経」現象編―「新潮の悪魔」をパトリオットする』(幸福の科学出版刊)が発刊されております。
幸福の科学グループ広報局 部長 高間 智生