Archive for the ‘逆境・スランプ’ Category

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第149号より転載し、編集を加えたものです。

Hさん(70代・男性)

勤務先の倒産

「今月で店をたたむことになった。Hさんにも辞めてもらわないと・・・」

10年以上前のことです。勤めていた老舗(しにせ)和菓子屋が倒産しました。

「またか・・・」。実は、以前勤めていた店も経営不振で廃業しており、私にとっては2度目の経験だったのです。その時私は61歳。普通に考えたら、再就職は非常に難しい状況です。

しかし、私は信じていました。「あきらめなければ、必ず道は開ける」と。その強い思いを支えてくれたのが、幸福の科学の信仰でした。

15歳で和菓子の道へ

今でこそ、「和菓子作りが天職」と信じる私ですが、職人の道に入ったのは自分の意志ではありませんでした。

私が生まれたのは、第二次世界大戦が始まる2年前の1937年。生後2カ月で母を亡くし、父と祖母の3人で東京の本郷に暮らしていました。祖母といっても、祖父の後妻に入った人で、血のつながりはありません。私はいつも、母のいない寂しさを抱えていました。

小学2年生になる時、群馬の叔父の家に移り、ほどなくして終戦。同じ頃、祖母は他界し、父は東京に働きに出て、私は一人、居候として肩身の狭い生活を余儀なくされたのです。

一日も早く独立したいと思った私は、中学卒業後、銀座の和菓子屋で住み込みの仕事に就きました。屋根裏部屋で寝起きし、早朝から深夜まで、雑用や力仕事をこなす日々。銀座という土地柄、深夜に料亭から注文が入ることも多く、12時過ぎに配達に出ることも珍しくありませんでした。

孤独な職人時代

20歳になる頃、ようやく仕事場に入ることを許されました。といっても、まずは洗い場です。上下関係がはっきり分かれている厳しい世界でした。

道具が汚れていると、げんこつが飛んできたり、餡(あん)のでき栄えが悪いと、容赦なく投げ捨てられたりもしました。

職人の技も、当時は盗んで覚えるのが当たり前。残った餡で、夜中に丸めたり包んだりする練習をしたものです。

そうして、10年20年と腕を磨いていった私ですが、心はいつも孤独でした。生い立ちへの引け目から、自分に自信が持てず、修業に打ち込むほどに、他人に心を閉ざすようになっていったのです。

28歳の時に結婚しましたが、数年で離婚。母の記憶がない分、お嫁さんを大事にしようと決めていたのですが、現実は思うようにはいかないものです。その挫折体験が、人間不信に拍車をかけました。

53歳にして人生観が転換

そんなある日のこと、一つの新聞広告が目に留まりました。大川隆法総裁の講演会の広告でした。心惹かれるものを感じ、当日、一人で会場へと向かいました。

「これは本物だ・・・」。説法の力強い言魂に心打たれた私は、ほどなくして入会支部の皆さんと一緒に、本格的に教えを学び始めたのです。

とくに感銘を受けたのは、「人間は永遠の生命を持って転生輪廻している存在であり、人生には目的と使命がある」という霊的人生観です。

53歳にして、人生観が180度転換しました。

亡き母への思い

心の修行を深めたいと思った私は、家庭御本尊を自宅にご安置して、朝晩、経文を読誦(どくじゅ)するようになりました。

御本尊をいただいて1年くらい経ったある日のこと。いつものようにお祈りをしていたところ、ふと、亡き母のことが思い出されました。

「十分に面倒をみてやれなくて、すまなかったね」。そんな母の思いが、心の中に流れ込んできたのです。まるで黄金色の光に包まれているような感覚でした。

「自分は母に愛されたことがないと苦しんできたが、母は、自分を宝だと思って生んでくれたのだ。自分は愛されて生まれてきたのだ・・・」と、涙があふれて止まりませんでした。

子供の頃からずっと、心のどこかに引っかかっていた、「自分は価値のない人間だ」という思いが消えた瞬間でした。

「母が私を愛してくれているように、仏はすべての者を愛してくださっている。この世に価値のない人間なんていないのだ—」

仏への感謝、そして今まで出会ったすべての人への感謝でいっぱいになりました。

天命の発見

自ずと、仕事に対する姿勢も変わっていきました。以前は、ただ見栄えよく作ればいいと思っていたのが、「買ってくださる方が、このお菓子で、少しでも幸せになりますように」と、一つ一つ心を込めて作るようになりました。

「和菓子を通して世の中に幸福を広めることが、自分の天命だ—」

仕事仲間への接し方も変わりました。以前は、後輩の指導でも、相手を突き放し、失敗すると分かっていても、わざと教えないこともありました。

しかし、相手も仏の子であると思うと、相手を思いやる気持ちが湧いてきます。 「餡の量を減らしたほうがいい」「こっちの材料を使ったほうがいい」など、丁寧に教えるようになりました。

また、若い人やパートさんのアイデアも、頭ごなしに否定せず、よいと思ったことは、積極的にほめるようにしたのです。

いつしか、孤独な職人は姿を消し、「分からないことがあったら、Hさんに聞けばいいよ」と、皆さんに頼っていただけるようになっていました。

会社再建—副工場長へ

何より和菓子が好きな私は、定年後も嘱託社員として働きつづける道を選びました。しかし、その矢先に店が倒産—。

年齢を考えると、そのまま引退することもできましたが、私は、「必ず道は開ける」という心の声を信じつづけました。

そして数カ月後。店の再建の知らせが入ったのです。新社長の面接を受け、私はなんと副工場長として再雇用されることになりました。

製菓から箱詰め、発送作業と、連日深夜までフル稼働する生活は、六十過ぎの体にはこたえましたが、苦労のかいあって、年々経営は安定していきました。しかし、私にはさらなる試練が待っていたのです。

お返しの人生

「Hさん、おかげで店も安定して新しい人も増えてきた。そろそろ、副工場長を若い人に譲って、嘱託に戻ってくれないか」

65歳の時のことです。いままで指示を出していた自分が、一転、一番下で指示を受ける立場に。そのギャップに戸惑い、「いっそ引退しようか・・・」という思いが何度も心をよぎりました。

その迷いを断ち切るきっかけとなったのは、その頃、支部で聴いた大川隆法総裁の法話でした。

「65歳が一つのラインです。若い人にも力があることを認め、若い人を立てる考え方をすることです。引き際の美学というものを知らなければいけません」(「『ティータイム』入門」より)

この言葉が決め手となり、私はプライドを捨て、恩返しの気持ちで、後進の指導に当たる決心がついたのです。

店にテレビの取材がきた時には、「職人代表」の立場で、インタビューを受ける機会もいただき、そのお役も無事に務めることができました。

心の発展は無限

人間はいくつになっても、どれだけ心を高めることができるかという、心の発展は無限だと思うのです。

来世、来々世と、無限の未来が待っていると思えば、何歳からでも夢を描き、努力を始めることができます。

私自身、「生涯、努力精進」の気持ちを忘れず、体の動く限り、多くの人を幸せにする和菓子を作りつづけていきたいと思います。

関連記事

経営難、障害、すべての苦難が光に変わった!【体験談】

経営難、障害、すべての苦難が光に変わった!【体験談】

突然の父親の死により、経営難の会社を継ぐことになったSさん。全盲の妻と幼い息子との暮らしを支えるために、苦しみながらも奔走していたSさんを救ったのは、書店で偶然手にした一冊の書籍との出合いでした。
S.Yさん(東京都)
月刊「幸福の科学」367号より転載・編集
> 続きを読む

仕事で成功する【体験談】

仕事で成功する【体験談】

自社中心主義の会社の経営方針に疑問を持ち、改革を志すも失敗、退社。やがてコンビニのオーナーとして再出発し、20店舗を経営するまでになりました。挑戦に挑戦を重ね、繁盛のコツをつかんだ体験をご紹介します。
(T.Iさん/男性/愛媛県/月刊「幸福の科学」No.314より転載・編集)
> 続きを読む

生涯現役【体験談】

生涯現役【体験談】

幸福の科学には「相談員」として活躍する有志の信者がいます。地域で8年間お悩み解決のサポートを続け、350人近くの方の悩み相談に応えてきたSさんの体験談を紹介します。
(S.Sさん/男性/千葉県/月刊「幸福の科学」第319号より転載・編集)
> 続きを読む

関連リンク

幸福の科学 信仰体験 一覧
ネット入会のご案内

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第125号より転載し、編集を加えたものです。

見えることのない目

私は、生まれた時から目が見えません。

生まれつき目に障害があって、右目にわずかな光を感じるだけで、左目は何も見えません。

出産当日、私は予定より2週間も遅れて生まれてきました。泣き声をあげず、体温も低い状態でしたが、医師からは「特に問題はありません」と言われたそうです。

しかし、4カ月が過ぎた頃。同じ時期に生まれた赤ちゃんと一緒に検診を受けた時、母は私の様子がおかしいことに気づきました。

よその子が、まわりの様子を見て瞳をキョロキョロさせるのに比べて、私の視線があまりにも無反応であったからです。

総合病院を紹介されて検査を受けると、「網膜形成不全」「小眼球」と診断されました。

「胎児の時に、へその緒が首や身体に巻きついて、圧迫されていたのが原因かもしれません」

医師はそう説明しましたが、はっきりした原因は分からないようでした。

ただ、一つだけ明らかなことがありました。それは私の目が見えるようになる可能性はほとんどないということでした。

バイオリン

4歳ぐらいになると、私は自分の状況が少しずつ分かってきました。

「ねぇ、お母さん。私ってなんで見えないの?」

何度も同じような質問をする私。自分の障害について、だんだん気にするようになっていきました。

ある日、母が言いました。

「Aちゃん、音楽が好きだよね。バイオリンをやってみない?」

母に勧められて、バイオリンのレッスンを受け始めることに。自分で自由に音が出せることがうれしくて、私は夢中になりました。そのせいか、目に対する不満を口にすることも少なくなりました。

そして、小学校に入学する時—。

私の状況からすれば、当然、盲学校に入学するところでした。

「Aちゃんが、ふつうの小学校に通いたいのなら、応援するよ」

「うん。みんなと同じがいい」

母は教育委員会と交渉して、地元の小学校で学べるようにしてくれました。

私は、週に2回、小学校に通い、残りの日は自宅で訪問教育を受けることになったのです。

現実の壁

私は、視覚障害に加えて、生まれた時から股関節がはずれている病気(先天性股関節脱臼)でもありました。治療して治りましたが、その後遺症で足が弱く、運動も苦手だったのです。

バイオリンのレッスン中にも、痛みで立っているのがつらくなり、その場に座り込んでしまうことがありました。

バイオリンは立って弾く楽器であり、レッスン中は1時間近くも立っていなければなりません。

「こんなんじゃ、とても続けられない」

途中であきらめざるを得ませんでした。

小学校のほうも、週2回では授業についていくのが困難でした。

結局、5年生からは盲学校に通うことになりました。

「なんで、みんなと同じようにできないの! こんなの嫌だよ!」

私は泣きながら母に訴えました。

「Aちゃんが見えるようになるなら、すぐにでも、お母さんの目をあげてもいいのに・・・」

母のすすり泣く声が聞こえてきました。余計に悲しくなって、大泣きする私・・・。

やがて、父が言いました。

「A、目が見えなくても、耳は聞こえるじゃないか。みんなと話だってできるじゃないか。お父さん、Aにはできることがたくさんあると思う。それを一緒に探してみようよ」

いつもやさしい父—。

幼い頃、私が「水車ってなあに?」と尋ねると、何日もかけて水車の模型を作って説明してくれたこともありました。

両親の気持ちが伝わってきて、もう一度、がんばってみようと思いました。ほどなくして、私は自宅を出て、盲学校の寮に入ることになりました。

心に響く教え

盲学校は、環境も整っていて、思っていた以上に生活のしやすいところでした。そのおかげで勉強にも集中でき、順調に学年を重ねていきました。

中学2年生の時のことです。夜、宿題をしていると、ふと誰かに話しかけられたような気がしました。

(あれ、誰だろう? お母さん?)

不思議に思った私は、実家に帰った時、そのことを母に伝えました。すると、母は少し驚いた様子で言いました。

「ちょうど、その日、その時間ぐらいに、お母さん、お祈りをしていたの。その思いが、Aちゃんに届いたのかもしれないね」

母は、最近、幸福の科学入会したこと、そして『正心法語』という経典でお祈りをしていたことを教えてくれました。

私が、幸福の科学について興味を示すと、母は「仏陀再誕」という講演会のカセットテープを貸してくれました。さっそく、私は自分の部屋で聴いてみました。

「この世において、さまざまなる出会いが、あなた方を待っているであろう。しかし、真理との出会いは最も尊いものであり、人間として生まれて現成の仏陀の声を聴くは、奇蹟以外の何ものでもないことを知らねばならない」(『悟りの極致とは何か』第3章所収)

一言一言が、直接心に響いてくるようで、激しく心を揺さぶられました。

(・・・仏陀って、お釈迦様のこと? 再誕って、また生まれてきているということだよね?)

びっくりしましたが、その確信に満ちた力強い言葉に、「ほんとうに違いない」と思いました。胸のあたりが熱くなりました。こんなことは生まれて初めてのことでした。

語り明かした夜

「お母さん、これってすごい!」

テープを聴き終わると、私は興奮して真っ先に母のところに行きました。

次から次へと質問をあびせる私。

母は、人間が永遠の生命を持っていることや、魂修行のために何度も生まれ変わっていることなど、幸福の科学で学んでいることを教えてくれました。

「Aちゃん、“人生は一冊の問題集”なんだって。今回のAちゃんの人生は目が見えないという厳しい状況だけど・・・でも、それはAちゃんの魂が、大きく成長するために、仏が与えてくれた問題集だと思う」

母の言葉にはっとしました。

「・・・私、何不自由なく学校に通っている人たちと比べて、ずっと不公平だと思ってた。なんで私ばっかり、こんな苦労しないといけないのって・・・。でも、そうじゃないんだね。・・・よかった」

涙があふれました。

すっかり夜がふけていましたが、私はうれしくて眠る気になれず、母と一晩中語り合いました。

進学

高校生になってから、私も幸福の科学入会しました。テープを聴いたり、母に仏法真理の書籍を読んでもらったりして少しずつ学びを深めていきました。

ある日、母が「ヘレン・ケラーの霊言」を読んでくれました。

「私はこちらの世界へ来て、目も見えますし、耳も聞こえます。口も利けます。本来、人間は自由です。ただ、三次元のなかにおいて、あのような厳しい環境に置かれたということです。ですから、私が世の人々に言いたいのは、『環境をよくするために奔走するよりも、環境のなかでみずからを輝かす、そのような努力をしていただきたい』ということです」(『大川隆法霊言全集第14巻』第4章所収)

私よりも重いハンディを背負いながら、多くの人々に生きる勇気と希望を与えたヘレン・ケラー。

その言葉は、まるで自分の苦しみをすべて分かってくれているようで、心に深くしみわたりました。

「私も輝いてみたい。私にできることっていったい何だろう?」

高校2年の3学期—。私は自分の願いを両親に伝えました。

「私、進学したい。そして福祉について学んでみたい」

同級生は、鍼灸や按摩などの資格を取って就職する人がほとんどでしたが、私は「もっと勉強したい」という気持ちが強くあったのです。両親は賛成してくれました。

しかし、現実の受験は厳しいものでした。現役では受からず、1年間、受験指導を行っている盲学校で勉強。翌年は何とか地元の短大に合格することができました。

「私でも、やればできるんだ!」。苦労はしましたが、私にとって受験の経験は小さな自信になりました。

手足のしびれ

短大の寮に入って、学生生活を送るには、ある程度、一人で何でもできる必要がありました。

今の自分では無理かもしれないと感じた私は、いったん短大を休学して、生活訓練や歩行訓練を受けることにしました。

訓練のおかげで、視覚障害というハンディを負いながらも、何とかふつうの学生と一緒に学ぶことができるようになりました。

しかし、無理を重ねたせいかもしれません。その頃から、時々、体調を崩すことがありました。そのうえ、以前から感じていた右の手足のしびれがひどくなっていきました。

「いったい、どうしたんだろう・・・」。病院で検査をすると、軽い脳性麻痺であることが分かりました。

がんばろうとはするものの、思い通りにならない現実・・・。

その後、短大は卒業できましたが、体調が思わしくなく、進路を決めることができませんでした。これからどうすればいいのだろうと、不安な気持ちでいっぱいになりました。

ボランティア

「Aちゃん、一緒に支部に行こうよ」

短大卒業後、特にやることもなく、家のなかにこもりがちの私を心配して、母は幸福の科学支部に誘ってくれました。

支部に行くと、みなさん、まるで家族のように親しくしてくれました。

法話のビデオを拝聴したり、お茶を飲みながら歓談したり—みなさんと触れ合ううちに暗い気持ちが晴れていくのを感じました。

私は、頻繁に支部に顔を出すようになりました。

「私も何か手伝いましょうか? 電話番ぐらいならできますので」

「それは助かります。ありがとう」

支部で簡単なボランティアをするようになった私。

地域の方々にお配りする布教誌にチラシを挟んだりもしました。

そんな私の姿を見ていた知り合いの方が話しかけてきました。

「Aちゃんも、一緒に配らない?」

「ちゃんとできるかな・・・」。思いがけない誘いにびっくりしましたが、母からも勧められて、参加してみることに。

最初は緊張しましたが、母や支部の方に助けられながら、一軒一軒心を込めてポスティングをすると、とてもさわやかな気持ちになりました。

(どんな人が読んでくれるかな? 喜んでくれるといいなあ)。想像するのが楽しくて、私は、布教誌の配布が大好きになりました。

私、愛されてる

支部でのボランティアや、布教誌の配布を通して、私は自分が明るく前向きになっていくのを感じました。

「人のために何かをすることって、とても気持ちがいいなあ」

幸福の科学で、「与える愛」の大切さについて学んでいましたが、そのことが少し実感できたような気がしました。

そんなある日、母と一緒に総本山・正心館に参拝しました。

「障害に負けず、人生を輝かせたい」

そんな願いを込めて、私は「起死回生の秘法」という特別な祈願を受けることにしたのです。

祈願室に足を一歩踏み入れると、何とも言えないあたたかい光に包まれるのを感じました。

目の前に大きな仏がおられるような気がしました。

—がんばるんだよ。

そう、仏がやさしく声をかけてくれた気がして、涙が止まりませんでした。

終了後、いつになく心がとても軽くなっているのを感じました。

「仏は、いつどんな時も見守ってくださっているんだ・・・。私って、仏からも、家族からも、幸福の科学のみなさんからも、ほんとうにたくさん愛されてる。いまの自分が生きていられるのは、その愛のおかげだ。それなのに、進路が決まらなくて、なんで自分ばっかりこんなに苦労しないといけないのって嘆いてた。もう、そんな思いを捨てよう。自分の人生としっかり向き合ってがんばってみよう」

感謝の気持ちに満たされながら、私は心に決めました。

希望への一歩

幸福の科学支部精舎のおかげで、私はやる気を取り戻していきました。その結果、体調もよくなり、地元の視覚障害者協会でボランティアを始めることができました。

そこでの私の仕事は、様々な原稿を読みあげること。視覚障害者向けに音声を録音する仕事です。

「Aさんの声は、とてもはっきりしていて、聞きやすいですね」

ある時、広報担当の責任者の方が話しかけてきました。

「—私は、中途失明してから、30年近くこの仕事をしてきたけど、後を継いでくれそうな人が出てきてよかったよ」

「ありがとうございます。私、がんばります」

期待されて、うれしくなりました。

その後、内容や編集も任されるようになり、私はますますやりがいを感じるようになりました。

さらに、思いがけないことが起きました。ある大学から、「非常勤講師をしてくれないか」と依頼されたのです。

内容は、福祉を学んでいる学生に点字を教えるというもの。

(私にできるかな・・・でも、こんなチャンスはめったにない。やってみよう)

私は、年に7回、学生たちに点字の読み書きなど、具体的な実践について教えるようになりました。自分が苦労して学んだことや体験したことを、人のために生かせることに喜びを感じています。

自分の人生と向き合い、努力することの喜び

私は、目が見えない現実に何度も押し潰されそうになりました。

しかし、仏法真理との出会いが、自分の人生と向き合い、努力することの喜びを教えてくれたのです。

いま私は、与えられた環境のなかで、自分にできることを精一杯やっていきたいと思っています。

暗く手探り状態だった私の人生に、希望の灯をともしてくれた仏に心から感謝します。

関連記事

体の障害(中途失明)を乗り越える【体験談】

体の障害(中途失明)を乗り越える【体験談】

高校生の頃に視力を失ってしまったSさん。それまでの夢がついえるも、盲学校での新しい生活をスタートさせました。幸福の科学との不思議な縁に支えられながら、前向きな努力によって明るい人生を開いていったSさんの軌跡をお伝えします。
> 続きを読む

ダウン症という体で一生懸命に生きたあなたと【体験談】

ダウン症という体で一生懸命に生きたあなたと【体験談】

ダウン症の障害があり、20歳で亡くなったわが子。その生涯は、優しさとは何か、人として大切なことは何かを教えてくれました。ある女性の体験とともに、人生のヒントをお届けします。
> 続きを読む

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

ふとしたときに気づいた右胸の違和感。内科を受診した私に告げられた診断結果は、ステージ4の末期の乳がんでした。
> 続きを読む

関連リンク

幸福の科学 信仰体験 一覧
ネット入会のご案内

QRコード
携帯QRコード
幸福の科学リンクバナー

幸福実現党公式ホームページ

幸福の科学学園

精舎サイト「精舎へ行こう」ポータルサイトへ

幸福の科学出版

幸福の科学のラジオ番組 天使のモーニングコール

WITH YOU