Archive for the ‘親子関係’ Category

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第122号より転載し、編集を加えたものです。

私は、自分が小さい頃に養女に出されたことを、不幸だと思っていました。しかし、幸福の科学との出会いを通して、自分自身の境遇に対する見方が全く変わり、心から感謝できるようになりました。
きょうは、私のたどった心の軌跡をお話しします。Hさん(40代・女性)

夫の浮気、離婚・・・

いまから十数年前、私は離婚しました。長年、前夫の浪費癖や夜遊びなどに悩まされてきましたが、3人の子供のためを思って、ひたすら耐えていました。

しかし、そのなかで夫の浮気が発覚。さらに長男が成長するにつれて、「おまえなんか!」と父親に反抗するようになったのを見て、「もう限界だ」と別れる覚悟を決めたのです。

私は子供たちを連れて実家に戻りました。長男は中学に入ったばかり、下の娘はまだ幼稚園でした。

愛を裏切られて・・・

前夫と出会ったのは20歳の頃。彼は遊び仲間のグループの一人でした。彼はとてもマメな人で、「体調が悪い」と言えば薬を買って車で届けてくれるし、よく高価な宝石を私にプレゼントしてくれました。スキーで捻挫したときは、毎日、会社まで車で迎えにきてくれました。

そんな彼の強烈なアプローチに押されたカタチで結婚。

ところが、塗装工をしていた夫はバブル崩壊のあおりで仕事が激減しました。極端に少ない額のお給料では足りず、私たち家族は一日1000円に満たない倹約生活でした。

彼はアルバイトもしましたが、そのお金を生活費に回してくれず、ブランド物を身につけ、夜も遊び回って帰ってこなくなりました。そして浮気—。

「こんなはずじゃなかった・・・」

幼い頃から人一倍、愛を求めていた私。実は生後すぐに養女に出されてしまい、心に寂しさを抱えていたのです。「こんなに強く私を愛してくれる人なら大丈夫だろう」という夫への期待は、見事に裏切られました。

養女と知った日

私が初めて、自分が養女だと知ったのは、小学校3、4年生ぐらいの夏だったと思います。東京の下町で育った私は、毎年夏になると、栃木にある母の田舎に遊びにいきました。

一人娘の私にとって、大勢のいとこたちと一緒に自然豊かな山や川で遊び回る日々は、とても楽しみでした。

ある日、一緒に遊んでいた3歳年下のいとこが、思い出したように言いました。

「ねぇ・・・ほんとうは、Hちゃんってさ、私のお姉ちゃんなんだって」

突然の言葉にびっくりしましたが、幼いなりにも、それがどういうことか、なんとなくのみこめました。

「いとこが私の妹・・・じゃあ、田舎のおばさんが私のお母さんってこと?」

口数の少ないおばさん。私から話しかけたりすることもあまりなく、なんだか自分の母親という実感がわきません。おじさんはすでに亡くなっていました。

私はいらない子

「私はお母さんのほんとの子供じゃないんだ。もらいっ子なんだ」

頭のなかで「もらいっ子、もらいっ子」という言葉がぐるぐる回り、ほんとうにショックでした。

ちょうどテレビでは、山口百恵が養女役のつらい境遇を演じる連続ドラマを放映していました。養女というイメージは私の心に暗い影を落としました。

「田舎は4人もきょうだいがいるのに、なんで私だけ養女に出されたの?私はいらない子だったの?」

「私はいらない子」という独り言を、何度つぶやいてきたことでしょう。

養女の事実に気づいて以来、心の底に「私は親から必要とされていなかった存在」という孤独感がありました。そんな私の心を満たしてくれるような、ほんとうに愛してくれる人を求めて、前夫と結婚したのです。

結婚前、私を追いかけ回していた彼。それを私は、自分だけに対する特別な愛情の証と信じ込んでしまったのでした。

「いらっしゃいませ」

離婚後、子供を連れて戻った私を、養父母は黙って迎えてくれました。何のあてがあるわけでもありません。

ただ、失意のなかにも、一条の希望のようなものが胸の内に宿っていました。その一条の希望—私の心の拠りどころとの出会いは、離婚の2年前、偶然とも言えるきっかけからでした。

ある日、いきつけの美容室に行ったところ、お店が閉まっていました。

「あー休業日かあ。どうしよう。また出直すのも大変だな。うちの子が待ってるし、次いつ来られるかわからないし・・・」

CLOSEDの札を眺めながら、しばらく店の前で思案していると、前に見かけた美容室をふと思い出し、そのお店に行ってみることにしました。

「—いらっしゃいませ。こちらは初めてですか?」

雰囲気のよい店内。店長さんらしき男性が迎えてくれました。初めての店だと、なかなか思うような髪型にしてもらえないことも多いので、ちょっと不安でしたが、私の要望をよく聞いてくれ、素敵にカットしてもらえました。思いきって来てみて正解です。

すっかり気に入った私はリピーターになり、店長さんとも顔なじみになりました。

けれども、これがのちのち私の人生を大きく変えていく出会いであったとは、この時点ではまだわかりませんでした。

運命のトビラを開いて

ある日、店長さんに髪を切ってもらいながら世間話をしているうちに、いつのまにか家庭の悩みを口にしていました。

「実は夫とうまくいかなくて・・・」
「そうなんですか。それは大変ですね」

店長さんは鏡ごしに心配そうな表情を向けました。

「—あ、そうだ。そういうことなら、いい本がありますよ。よかったら読んでみますか?きっと何かしら参考になることがあると思いますよ」
「えっ、本ですか?私はちょっと・・・」

子供の世話で、毎日てんてこ舞い。ぜんぜん本を読む余裕などなさそうでした。でも、美容室から出たあとも、店長さんの言葉が気になってしかたありません。

結局、それから何日かたって、やっぱり貸してもらうことにしました。本を適当にパラパラと開いてみるうち、いつのまにかひきこまれていきました。

「夫の愛情不足を嘆く人は、あちらにもこちらにもいます。・・・女性はどうやら愛情に飢えている動物であり、愛情が与えられないと、“飢え死に”をしてしまうもののようです」『「幸福になれない」症候群』第3章

自分に語りかけてこられるような感じがして、不思議なくらい早く読み終えることができました。店長さんにお礼をいって、本を返しました。

「おもしろかったですか?まだほかにもいろいろ本があるから、貸しましょうか」

こうして私は大川隆法総裁の本を読むようになったのです。

大川総裁の話のなかには、愛についての話がたくさんあり、気になります。「与える愛」とか「奪う愛」とか、まだよくわからないながらも、ここに自分の求めているものがあるような気がします。

私は未来への期待感を抱いて、幸福の科学に入信しました。

その後、離婚など、つらい出来事もありましたが、幸福の科学と出会っていたことが、そうした日々のなかで私の心の支えとなったのです。

心のなかの変化

ある日、玄関チャイムの音がしました。

「こんにちは。私、幸福の科学の者ですが・・・」

幸福の科学に入ってしばらくして、近所の信者さんが訪ねてきてくださいました。近くで集いを開いているそうです。新たな人たちとのご縁は、私にとって、とても新鮮でした。

幸福の科学の人と出会って、私のこれまでのお付き合いとは違うと思ったのは、心を開いて何でも話し合える雰囲気があることでした。

私もみなさんと一緒に集いに参加したり、支部の活動に出たりしているうちに、だんだん新しい生活のリズムができ、気持ちにも余裕が出てきました。

ある日、支部で、ある方から、「一度、これまでの人生で、自分が人に与えた愛と、人から与えられた愛を、全部書き出して比べてみるといいですよ」とすすめられました。

私は、そのやり方をヒントに、心に引っかかっていた前夫について考えてみることにしました。彼と出会った頃からの出来事をいろいろと思い出していくうち、(彼にはけっこうお世話になってたなあ)と、あらためて思いました。

そのわりには、「してもらって当然」という思いで、ぜんぜん感謝してなかった私がいました。なぜそんな態度になってしまったのかを、さらに考えていくうち、恐ろしいことに気がつきました。

「あなたが追いかけまわしたから、私は結婚してあげたのよ」

心の底に、常にそんな思いが潜んでいたことに気づき、ゾッとしました。自分が夫に愛されることばかり考え、思い通りにならなくて苦しんでいましたが、自分から夫に何かしてあげようとは思っていませんでした。

こういうのが「愛を奪っている」ということなんだと気づき、このままではいけないと思いました。

私はさらに反省していきました。もしかしたら、前夫だけではなく、他の人にも知らないうちに「奪う愛」になっていたかもしれない—。

これからは、私も愛を与えられるような人になりたいと思いました。

新しい生活のなかで

その日以来、私は他の人の幸せを意識するようになりました。でも、思いを切り替えるというのは難しいものです。

泉からあふれ出る水のように、愛を与えられる人—そんな理想のイメージにはほど遠く、「私のことをわかってほしい」という思いが先に立ってしまいます。つい人の目を気にする自分がいました。

私は幸福の科学の活動をしたり、仲間にアドバイスをもらったりしながら、少しずつ自分を変えようと努力しました。

仲間のなかでも特にお世話になっていたのが、私に幸福の科学のことを教えてくれた美容室の店長、Sさんでした。

Sさんは私に困ったことがあると、よく相談に乗ってくれました。何より、同じ信仰を持っていることで、互いに気持ちが通じ合えるのです。子供たちもSさんと親しくなりました。

私も彼の誠実な人柄にひかれるようになり、離婚から3年後、再婚することになったのです。

その後は、初めから家族だったように自然で、みんなで車に乗ってスキーに行ったり、テーマパークで楽しんだり、温泉を巡ったり・・・わが家のアルバムに楽しい思い出が追加されるたびに、私は「幸福の科学に出会ってから、ほんとうに幸せなことが増えたなあ」という実感をかみしめました。

また、可能なかぎり幸福の科学の精舎研修にも、主人と2人で参加していきました。

前夫への反省を通してはっきりしてきたのは、私の「愛されたい」欲求は根深く、それはやはり養女という生い立ちからきているということでした。

自分の過去をしっかり見つめたい—。私は、精舎で開催されていた「両親に対する反省と感謝」研修を受けにいくことにしました。

父母の本心

養女と知った当時、私は子供心に「聞いてはいけないんだ」という気持ちがして一人で抱え込んでしまいました。それが自分の正直な気持ちにフタをしてしまった最初だったと思います。

以来、私も親類も正面からその話題を出さないながらも、話の端々にチラチラにおわせることで、いつしか暗黙の了解のようになっていったのです。こうして親類のような親きょうだいのような、微妙な感じが続いていました。

でも、私の心の影は置き去りにされたまま・・・。

研修中、「大悲(だいひ)父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」を唱え、心を鎮めて瞑想していると、突然、心のなかにある光景が浮かんできました。田舎の家の広い座敷に寝かされている赤ちゃん—それは私でした。実の両親が私をのぞき込んでいます。

両親は顔を見合わせて、ため息をつきました。しだいに私を渡す日が近づき、どんどん無言になっていく両親。もうしばらくすると娘を手放さなければならない・・・。

寂しく悲しい気持ちになっている2人の心の内が、手にとるように感じられます。

「私のこと、いらなかったんじゃなくて、あげたくなかったんだ」

私は涙があふれ出し、嗚咽が止まらなくなりました。以前、上の姉が何気なく言っていた話の断片を急に思い出しました。

「父ちゃん、Hをあげたあと、心配でそっと東京まで見にいったんだよ。そしたらKおばさんが、Hを背負って鼻歌うたいながらおむつを洗濯していたから、安心したって」
「でもね、Hをあげたあと、父ちゃんと母ちゃんは寂しくて悲しくて、結局もう一人産んだんだよ。生まれた妹を抱いてね、『かわいかんべぇ。東京に行ったHに似てるべ』って、近所を歩いて回ってたんだよ」

早くに亡くなってしまった実父。写真でしか知らない人が、まぎれもなく私の父親であるということが、このとき初めて実感として迫ってきました。

そして実母。4人目の私を妊娠したとき、農家の嫁として朝から晩まで働きづめだっただけに、ずいぶん悩んだようです。

ある日、畑から戻った母は慌てました。高い縁側のふちで、3歳児だった長女が生まれて間もない次女を必死でつかんでいたのです。一人で床を這い出した次女が落ちかかっていたそうです。

「仕事が忙しくて、子供たちの面倒もろくにみてやれない。こんな状態で産んでもかわいそうだ。・・・いっそ子供のいない妹夫婦に預けたほうが、ずっと大切にしてくれるんじゃないか」

私を養女に出したのは、苦悩の末の決断でした。

田舎に行くと、いつも田や畑に出ていた実母。野良仕事から帰ってくると、「来たかぁ。ほら、とうもろこし茹でたぞ。食べろ」とすすめてくれました。

無口で、いつもニコニコ微笑んでいる人。親子の会話は少なかったけれど、やりとりの一つ一つがあたたかい・・・。あの母が苦しんで苦しんで、ほんとうに私のためを思って養女に出した気持ちを思うと、泣けてしかたありませんでした。

そして考えてみると、養父母も優しい人で、私を大切に育ててくれました。小さい頃、私の洋服は全部、養母のお手製でした。大好きだったキリンや馬のぬいぐるみまで作ってくれていたのです。

私は気づきました。「私は恵まれていた! 私には母が2人もいて、他の人より2倍も愛されていた」—そう思ったとき、長年ひきずっていた心のなかの影は消え、あたたかい気持ちで満たされたのです。

研修のなかで、私は実母に手紙を書きました。「お母さん」と呼ぶのは初めてです。

「お母さん、私を宿し、10カ月大切に育て、無事産んでくれてありがとう。私の幸福を願い、信じ、東京に養女に出してくれてありがとう。お母さんが私の幸せを心から願いつづけてくださったお蔭様で、今の私があります。心から感謝しています。ありがとう。—あなたの娘・Hより」

実母は80歳。帰省時には、いとおしむように2人のときを過ごしています。またこの体験を通じて、私を慈しんで育ててくれた養父母への感謝もいっそう深まりました。

魂の絆をかみしめて

再婚後、わが家はもう1人、男の子に恵まれ、4人の子供になりました。その子もいま、小学校2年生。明るく活発で、わが家のアイドル的存在です。

ほかの子供たちも主人とほんとうの親子のように暮らしているのを見ると、血の繋がりを超えた深い絆を感じるのです。

幸福の科学では、親子の魂は天上界で約束して生まれ合わせてくると学んでいます。肉体的な血縁があってもなくても、確かに魂の深い縁で結ばれている人たちがいるのだと実感しています。

最後に、幸福の科学と出会えた幸福に対し、天上界に心から感謝申し上げます。

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以前の私は、母のことを、いつも心のなかで責めていました。けれど、信仰と出会い、考え方がまったく変わってしまい、母との関係も変わりました。母と私が歩んできた道のりを、お話ししてみたいと思います。(Hさん・30代女性)

母の怒り

「さっさと、やりんさいや!」

私の実家は広島の郊外にある、大きな古い平屋で、裏手には、家族の食事用の作物をつくる田畑がありました。私は、小学校にあがる前から、いろいろと家の手伝いをさせられました。

掃除、洗たく、風呂焚き、畑から野菜をとってくること・・・。いつも、母から、たくさんの用事を言いつけられます。私には、それが苦痛でした。

「何回ゆうたら、わかるんね。ちゃんと片付けんさい、ゆうたじゃろう」

ささいなことでも、大声で怒られます。口答えや言い訳などしようものなら、もっと怒られます。私は、言い訳したい気持ちをぐっとこらえ、できるだけ早く、母に言われたように動くよう努力しました。

「言ってもわからんのんじゃったら、もう外に出ときんさい!」

ときには、夕食を抜かれたり、家の外に閉め出されることもありました。テストでいい点をとって、母の機嫌をとろうと、一生懸命、勉強しました。両親の仲も悪く、夫婦げんかはしょっちゅう。言い争う声を聞いていると、暗い気持ちになりました。

自由になりたい

小学校4年生のころのこと。よく家に遊びに行くようになった、友だちのお母さんは、とても優しい人でした。家事もお母さんがとりしきっているようです。私の家とは違う・・・ショックでした。

「もう、こんな家にいたくないな。そうだ、伯母さんの家に行こう」

私は、貯金箱から小遣いを取り出し、身の回りのものをリュックにつめました。母が出かけている間に、3歳下の妹をつれて、そっと家を出ました。妹の手を引き、記憶だけをたよりに、かなりの距離を歩き、さらに30分ほどバスに乗って、なんとか伯母の家にたどりつきました。

「どうしたん? あんたら、2人で来たん?」

私たちを見た伯母はびっくり。すぐ、私の家に電話すると、あわてた母が迎えに来ました。母は、なにも言わず、とても怖い顔をしていました。

自由になりたいなあ・・・何度もそう思いました。

憂うつな日々

中学、高校になってからも、やはり、母に振り回されていました。母の気持ちが荒れてくると、私も、父や妹も、母の怒りに巻き込まれるような感じでした。

家族はみんな、それとなく母の様子を気遣いながら、過ごしていました。私にとっては、なんとなく心の晴れない10代でした。

いつしか私は、人の言われるままに生きるようになっていました。「こうしたい」とか「こうなりたい」とか、将来の目標や理想のようなものは、私にはありませんでした。未来が明るいもののようには思えなかったのです。

高校卒業後は、担任の先生の勧めるままに、県内の短大に進みました。就職活動の時期も、自分からは何もせず、様子を見かねた先生が勧めてくれた地元の会社に、ようやく就職を決めました。

私は、会社で事務職として働きはじめました。幸い職場の人間関係はよく、私はまじめに仕事をこなしました。友だちにも恵まれ、それなりに楽しい時間を過ごしていました。

けれど、社会人となり、いろいろな人と接するなかで、私は、自分の気持ちをきちんと伝えることができないことに、しだいに苦しみを感じはじめました。心のなかでは嫌だと思っていても、断ることができません。

相手に不愉快な思いをさせたり、人間関係のトラブルが起きることが心配で、つい「はい」と言ってしまう・・・。そんな自分が嫌いでした。「私は、こんな苦しい感じのままで、ずっと生きていくんかな」と、なんとも言えない空しい感じがしていました。

親子には深い縁がある

ある日、会社の更衣室で帰る準備をしていると、先輩が、なにげなく椅子のうえに置いた本『神霊界入門』(現在『大川隆法霊言全集』第26巻、第27巻に所収。小桜姫の霊言)に目が留まりました。なんとなく、神秘的な感じのする本で、興味をひかれました。

「その本、貸してもらえますか?」

先輩にお願いして、借りて帰りました。自宅でさっそく読みはじめると、すぐに本の内容にひきこまれていきました。あの世の世界や生まれ変わりのことなど、聞いたこともないような話ばかりでした。夢中で読み進めていくと、ある一節で目が留まりました。

「親子の関係というものは非常に縁の深いものです。これは1回や2回の生まれ変わりでできたものではありません」

あの母と深い縁があるなんて、いままで考えたこともありません。考えれば考えるほど不思議な感じがして、「親子の縁」ということが、深く心に残りました。私は一晩で本を読み終わってしまいました。それが、大川隆法先生の本との出会いでした。

心が満たされていく

「この本、ありがとうございました。とても面白かったです。もっと読んでみたいのですが・・・」

「本屋さんに行けば、他にも売っとるよ」

先輩と相談し、互いに違う本を買って、交換して読むことにしました。そして、次つぎと新しい本を読みふけりました。

「苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです」「愛なくして幸福はありません」—。読めば読むほど、心が軽くなっていきました。

大川隆法先生の本には、さまざまなものの見方や考え方が説かれています。私にとって苦しみとしか思えなかったことも、違う見方をすることができるのだとわかり、とても気持ちが楽になりました。

嫌いだと思っている自分自身のことも、変えてゆくことができる。自分の意志で人生も変えてゆくことができる—。そのことを知って、未来が明るく見えてきました。カラカラだった心が、真理の言葉で満たされていくようでした。

片時も大川隆法先生の書籍を離したくなくて、ちょっとした時間にも本を開きました。

先輩といっしょに、職場の他の人たちにも、幸福の科学の本を勧めました。

私は、幸福の科学の機関誌も読むようになりました。あるとき、「情熱からの出発」(『悟りの極致とは何か』第2章に所収)という講演会の内容が載っていました。

「光の力が結集しなければ、とうてい、全人類、全日本人を幸福にするだけのエネルギーには足りないのです」

私も、この教えを広めていくお手伝いがしたい。光の力となって、もっと多くの人を幸福にしていきたい—。そんな気持ちがわいてきて、私は、幸福の科学に入会することにしたのです。

問題集を解かにゃいけん

幸福の科学に出会う前の私は、いつも、母の顔色をうかがいながら過ごしていました。私の人生にとって、母の存在は苦しみの種。心のなかで母のことを責め、できれば逃げ出したいと思っていました。しかし、仏法真理を学ぶうちに、「このままではいけない」という思いが強くなってきました。

仏法真理によれば、人生は一冊の問題集であり、この問題集は、各人が努力して解いていかなければならないのだと言います。そして、悩みの中心こそ、人生の問題集が何であるかを教えてくれているものなのだと言うのです。

私は、いろいろな本のなかから、問題を解くヒントをさがしました。すると、「与える愛」の教えが、私の心にひびいてきました。

「愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。・・・みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です」『太陽の法』第3章

苦しかったのは、私が、お母さんにみかえりを求めていたからかもしれないと思いました。問題集を解いていくには、きっと、愛を与えていくことが大切なんだ—。私は、母に対して、与える愛を実践していこうと決意しました。まずは、感謝の言葉を口に出すことから・・・。

それまでは、母への反発心から、「料理がおいしい」という言葉さえ、ろくに口にしたことがなかった私。ささやかな一言でも、勇気がいりました。

「今日の料理、ほんまにおいしいね」

「・・・してもらって、うれしかったよ。ありがとう」

ちょっとした折に、感謝を口に出します。しかし、頑張っているわりには、母の反応がありません。つれない態度に、「もうやめようか」と思うことも少なくありませんでした。

けれど、そのたびに、「みかえりを求めちゃいけん。私から、与えていくことが大事なんだ」と自分を励まし、努力を続けました。

母の涙

それからしばらくして、私が、いつものように読書をしていると、突然、母が部屋にやってきました。

「そんなに本ばっかり読んじゃいけん!」

そう大きな声で言うなり、すぐ出て行ってしまいました。私はあっけにとられながらも、なぜか、母の目にいっぱいたまっていた涙が、心に焼きついて離れません。母がそんなふうに泣いている姿など、見たことがありません。

「お母さん、私を気遣って、泣いとったんじゃろうか」

気がつけば、すぐ思い浮かぶ母の姿は、怒っている顔や、厳しい表情ばかり。はっとしました。

「私は、かたよった見方をしてきたんじゃないじゃろうか・・・」

子供のころの母の姿が、次つぎと思い浮かんできました。毎日の食事やお弁当づくり。母親参観のとき。運動会。家族旅行・・・。あらためて思い返すと、母にしてもらったことが、たくさんよみがえってきます。涙があふれてきました。

「こんなに愛してもらっとったのに。私が心を閉じて、お母さんの愛情を受け入れんかっただけだったんじゃね。お母さん、ごめんなさい」

あとからあとから涙があふれます。はじめて、心から素直に母に謝りました。それからは、いっそう心を込めて、母への感謝を、言葉や行動で表しました。

ゆっくりと話を聴き、母が興味を持ちそうな幸福の科学の本を勧めました。2、3日すると、母に渡した本が、食卓の私の席に置いてありました。

「これ、もう、読み終わったの?」

「ああ、読んだよ」

何冊も、そんな調子でした。私にはなにも言いませんが、母も考えるところがある様子でした。それから数カ月して、母は自ら幸福の科学に入会したのです。私は、ひとつ母に恩返しできたような気がして、とてもほっとしました。

母との対話のなかで

その後、私は結婚して実家を離れました。なんとなく母のことが気がかりで、しばしば電話しては、話を聴き、なぐさめたり、励ましたり。けれども、母は感情的になると、以前のように、言葉がきつくなってきます。

「仏法真理を学んどるはずなのに」と思うと、責める心が出て、心が揺れました。しかし、仏法真理では、相手を責めるのではなく、理解することが大事だと教わっています。私は、母のことをもっとよく知ろうと思いました。

子供のころのことを尋ねてみると、母は少しずつ話してくれました。母の実家は裕福な家で、祖母は厳格な人だったこと。ある日、家の戸締りをしなかったとひどく叱られ、いらない子のように言われて、とても傷ついたこと・・・。はじめて聴く話ばかりでした。

話を聴くうちに、母にとっての母親とは厳しいものだったのだとわかりました。そして、自分の叱られた経験から、「自分の子供には同じ思いをさせないように、しっかりした子に育てんといけん」と、一生懸命だったのだとわかりました。

私を叱った厳しさのなかに、母なりの愛情が込められていたのです。そのことに気づいてからは、母のきつい言葉も、徐々に心にひっかからなくなっていきました。やがて、私も娘を授かり、子育てをしていくなかで、いっそう母の気持ちを理解できるようになっていきました。

つらかったという気持ちは、もう、水に流そう・・・私の心から、わだかまりが消えていき、母と電話で話すのが楽しみになっていきました。

母の宝物

母も、幸福の科学の教えを学んで、自分を変えようと努力していました。毎日、お祈りや反省の時間をとり、自分を振り返っているようでした。

話していても、感情的にならないよう努力しているのが伝わってきます。母は少しずつ家族や周囲の人に対しても、人あたりのよい、まるい人になっていきました。

こうして、母が幸福の科学に入って、数年が過ぎたころのこと。私は、娘のSといっしょに実家に帰っていました。娘と遊んでいると、不意に、そばにいた母が言いました。

「H、大好きだよ。Hは、私の宝物だよ。ちっちゃいとき、すごい意地悪してごめんね」

とても優しい声でした。胸がいっぱいになりました。

「ありがとう・・・」

そう言うのがやっとです。母の顔を見ることもできません。母も、それ以上、なにも言わずに、静かにそばにいてくれました。私は、娘をあやしながら、母の愛を感じて、幸せな気持ちにひたっていました。このときから、いっそう深いところで、母と心が通いあえるようになりました。

私のいちばんの味方

いま、母は、私のいちばんの味方です。なんでも本音で話すことができ、ときには相談にものってくれる心強い存在です。

実家に帰れば、毎晩遅くまで、母と語りあいます。ほんとうに楽しくて、時を忘れてしまうほど。娘のSも、おばあちゃんが大好き。母も、私たちが帰ってくるのを楽しみにしているようです。

母は、幸福の科学の活動にも熱心に取り組んでいるようです。「多くの人に幸せになってもらいたい」と語る母の姿に、私は、母の愛情深さをあらためて感じます。

お母さんの娘に生まれることができて、本当によかった。しみじみとそう思います。いまでは、父と母、妹、そして子供たちも、幸福の科学の会員となりました。

互いに怒りをぶつけあって、心の休まらない家庭で暮らしていた私たち。それが、いま、こうして同じ仏のほうを向き、信じあい愛しあい、強く結びつきあっている─。あたりまえの家族の風景が、私にとっては、限りなく大切なものに思えます。

もし、幸福の科学にめぐりあうことができなければ、きっと、こんな日は来なかったに違いありません。あらためて、仏法真理の素晴らしさを実感し、仏への感謝があふれてきます。

この幸福をかみしめながら、これからも、大好きな母と、家族とともに、多くの方の幸せのために生きていきたいと思っています。

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同居してすぐは知らなかった義父の酒癖

「やっぱり俺は、親の面倒みなくちゃなんないから、一緒に実家に住んで」

結婚直前になって、主人が切りだしました。

それまで、親とは別居だという話だったのです。正直に言うと、心のなかでは抵抗を感じました。

ただ、小学校2年生のとき父を亡くしていた私は、義理でも“お父さん”ができることを嬉しく感じる気持ちもありました。

結局、主人も長男だということで、私は義父母との同居を受け入れたのです。

気になっていた義父は優しそうな人でした。

口数が少なく、時間があると 好きなテレビをじっと見ています。

そして朝、義母がまだ寝ていると、黙って一人でお湯を沸かして静かにコーヒーを飲んでいます。どうやら義母には頭が上がらない様子でした。

 

結婚後しばらく経ったある日、帰宅した私は玄関を開けたとたん、部屋のなかの異様な空気に驚きました。

昼間なのに、あたり一面、お酒の臭いがプンプンしています。テーブルの上にはお酒の空きビン。義父が真っ赤な顔で、何かわめいていました。

怖くなった私はあわてて、義母の職場に電話しました。

「お義父さんがお酒飲んで騒いでるから、帰ってきて!」

「ああそう。いま帰るから」義母はこともなげに答えます。

まさかこれが日常茶飯事だったとは、私は夢にも思いませんでした。

酒乱の義父に手を焼いた

義父は、仕事が休みの日中、義母がいないときに限ってお酒を飲みます。実は、酒乱のようになる義父は、義母から晩酌を禁じられていたのです。

酔うと怒りっぽくなり、大声を張りあげます。目つきもすっかり変わり、私は義父の豹変ぶりにとまどいました。

「もうやめたらどうですか」とおそるおそる言うと、「俺の金で飲んでる。俺の勝手だ!」

壁をドンドン叩いてわめきます。テーブルをひっくり返したこともありました。その後は必ず外に出て、“はしご酒”のコース。フラフラになっている義父を止めようとしても、私の手を振り払って家を出ていってしまいます。

私はお店を回って義父を探します。

「あっ、いた!お義父さん、帰ろう」

酔っ払っている義父を連れて帰るのに、私はまた一苦労です。

普段はおとなしいのに、どうしてあんなにまでして飲まなければならないのか、私には不思議で仕方ありませんでした。どう見ても、お酒がそんなに強そうでなく、酒好きだから飲んでいるとも思えなかったのです。

私の頼みの綱は主人だけ。しかし、何度詰め寄っても、性格の優しい主人は、自分の親に全然意見を言ってくれません。

義母ともうまくいかぬまま20年以上経過

子供が生まれてからは、毎日てんてこ舞いで息つく間もありません。

私は義母のほうとも、あまりうまくいっていませんでした。

気がつくと日が暮れていて、仕事から帰ってきた義母の声が飛んできます。

「なんでご飯のしたくが遅いんだ。日中、家にいてヒマなんだもの。早くに作っておくもんだ」

こんな感じで10年、20年─。

その間、相変わらず深酒をくり返す義父は、お酒のために何回か入院したこともありました。いろいろなことが積み重なるうちに、私はだんだんまいっていきました。

不眠に悩んでいると、薬局で出会いが

あるとき私は、自分の体の不調に気が付きました。朝起き上がったら、クラクラめまいがして真っ直ぐに歩けません。そのうち吐き気までもよおしてきたのです。夜はいつまでも眠れず、そのまま朝を迎えてしまいました。

さすがにおかしい、と思って病院に行きましたが、お医者さんは首をかしげるばかり。私は自分でいろいろと薬を買って試しはじめました。

そんなある日、愚痴を聞いてもらっていた薬局の店員さんが「この世には、“勉強”するために生まれて来たの。勉強したことは、今度生まれ変わるときにまた持っていくのよ」と教えてくれたのです。

そして、「いまの時期におじいちゃん、おばあちゃんと仲良くなっておかないと、来世にその問題が持ち越しになるわよ。今度生まれてきたら、また同じ問題で苦しむようになるかもしれない」とも。

そんなことってあるんだろうかと半信半疑でしたが、そうは言っても本当にそうなってしまったらイヤだなぁと思いました。

半年くらいその薬局に通っているうち、私は体も気持ちも落ち着いてきました。

あるときその人は、「これ読んでみない?」と、『太陽の法』という本を見せてくれました。このとき私は、幸福の科学という名前を初めて知ったのです。

忙しくて、なかなか一冊読みきれませんでしたが、彼女が私を案じて貸してくれたことはよく分かりました。

ある日、薬局でいつものように話していると、「いま支部からの帰りなの」と、幸福の科学の信者さんが入ってきました。その人はとても幸せそうで、輝いて見えました。

私もこんなふうになりたい、と率直に思い、幸福の科学に入信しました。

支部に通って元気になった私を見て家族が入信

入信以来、家庭のなかがギクシャクしたり、心が波立ったときは、支部の仲間に何度も悩みを聞いてもらいました。

「また、ぶつかっちゃったんだけど・・・」

「なんでもシロクロはっきりさせようとしないほうがいいんじゃないの」

みんな自分のことのように考えてアドバイスしてくれます。

私が生き生きしてきたのを見て、家族も驚いたようでした。

義母に、私が幸福の科学に入った話をしたら、「じゃあ、自分も入る」と言うではありませんか、びっくりしました。

さらにそれからまもなく、義父も幸福の科学入会したのです。

研修で気づいた、義父の寂しさ

それから、数カ月が過ぎたころ、会員の仲間に誘われ、総本山・正心館に行きました。

そのなかで、愛について「子供時代に親に対するいろいろな欲求不満があり、充足されなかった場合があり、大人になっても、それが根っこになって残っている」という内容を学んだとき、お酒のために入院中の義父の姿が浮かびあがってきました。

深酒をすると人が変わってしまう義父の心の内を見たような気がしたのです。とても心細そうな様子でした。

私は以前、主人が話してくれたことを思い出しました。

義父はもの心つく前に父親が亡くなり、母親が再婚して家を出たこと。残された彼は、叔父さんの家に引き取られたこと。成長する過程で、自分の親と信じていた人が実は叔父夫婦だったと知って、ショックを受け、それからはずっと遠慮しながら生きてきたこと──。

「おじいちゃん、寂しかったんだあ」

涙がこぼれてきました。

お酒に走って家族を困らせていたのも、きっと満たされなかった寂しさを抱いていたからに違いありません。

彼には愛情が必要なのに、私は愛を与えるどころか責めてばかりいました。

申しわけない気持ちでいっぱいになり、涙が止まりません。それなのにどういうわけか、心がすーっと晴れていく感じがしました。

帰るときの私は、精舎に来るまでとは、まるで別人のようでした。

帰宅後すぐに、入院中の義父を自宅に引き取ることを、主人に提案しました。

義父母への接し方を反省できた

私の心が変わってからは、自然と優しい言葉が出てくるようになりました。

義父がお酒を飲んでいるときも、感情的に怒ったりせず、「おじいちゃんの気持ち、分かるよ」というふうに、義父の思いに添う言葉を言うようになりました。

食事も義父の好きな物を出したり、心をくだいてお世話をするようにしました。

「おじいちゃん、これ食べて」

もともと優しい人でしたが、前にも増して優しくなり、「ありがとなぁ」と柔らかい言葉を話します。

やがてお酒を飲む回数がだんだん少なくなり、量も減っていきました。

あれだけ家族を困らせていた酒乱もなくなったのです。

これがおじいちゃんの本来の姿だと確信しました。

そして義母への反省もありました。私は義母の言葉にすぐに言い返していたのです。

そこで、不満を言いそうになると、ちょっとこらえて、とりあえずカレンダーの裏にでも書いてみるようにしました。

すると義母に直接ぶつけなくても、気が済んでしまうことが分かったのです。このような日々を過ごすなかで、私と義母との関係も良くなってきました。

こんなにわが家が変わるなんて

振り返れば、義父母にはたくさんのことを教えてもらいました。

私にとって、もう二人は実の親以上の存在です。

元気だった義母もずいぶん年をとりました。とくにクモ膜下出血という大病をしてからは体が弱り、放っておけません。ハイカラさんでオムライスが好きな義母。「ご馳走さんね。あんた料理上手だなぁ」と褒めてくれます。

義父は足の具合が悪くなり、いまは施設にお世話になっていますが、私の訪問を楽しみに待ってくれているようです。私の車を見つけると、「来てくれたかぁ」と、4階の窓からニコニコ手を振って迎えてくれます。

お酒の代わりに、大好きな缶コーヒーを持っていくと、「重たいからいいよ」と思いやってくれる、その気持ちだけで私には十分です。

こんなに家族が変わるなんて、びっくりしています。幸福の科学と出会って、ほんとうによかったです。この喜びを忘れず、これからは悩んでいる人がちょっとでも良くなってもらえるように、教えをお伝えしていきます。

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この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第107号より転載し、編集を加えたものです。

Cさん(女性・40代)

父が決めた進路

「Cには、大学に行くだけの勉強に対する情熱がなか。すぐに働けるように商業高校に行きなさい」

「えっ?」

行きたい高校があり、成績も少しずつ上がってきたときだったので、私は父の言葉にショックを受けました。両親が大学や短大を出ているので、当然、自分も大学に行かせてもらえると思い込んでいました。

「文句があるなら、高校なんて行かんでもよか。中学を出たら働きなさい!」

有無を言わさない父の言葉。私の進路はすべて父が決めました。まるで、父の敷いたレールの上を走らされているようでした。

父への恐怖心

私の父は、中学校の英語教師でしたが、私が小学校3年生の頃に心臓を悪くして、退職することになりました。幸い、母が公務員だったので、なんとか生活は成り立ちましたが、それ以来、「母が働き、父が家にいる」という“夫婦逆転”の生活になりました。

寝たきり生活ではなく、日常生活はできました。ただ、父は家事など一切やらず、母が仕事と家事を両立させていました。昔ながらの家庭で、食事も父が手をつけないとみんな食べられず、お風呂も父が最初と決まっていました。

元教師の父は、その分、私たち子供に対する教育に熱心になっていきました。勉強、立ち振る舞い、箸の上げ下ろしまで口を挟む父。しつけにはうるさく、幼い頃から日本舞踊も習わせられました。特に長女の私に対しては厳しく、手が出ることもたびたびありました。

(まるで、家にも“先生”がいるみたいじゃない。それも恐い先生が・・・)

私は学校が終わって、家に帰るのがほんとうに嫌でした。そのせいか、中学生になると奇妙な行動をしていました。いつも1日分の着替えを持って学校に通っていたのです。

いざというときは、それを持って、近くに住んでいる祖母の家に逃げ込もうと考えていました。しかし、実際に実行する勇気はありませんでした。やはり、何よりも父が恐かったのです。

突然襲った激痛

商業高校を卒業した後、私は地元の会社の経理部に勤めました。ひそかに一人暮らしを期待していましたが、父は私の給料まで管理しはじめ、それも叶いませんでした。

就職しても、給料は自分には入らず、父から貰うお小遣いでの生活―。

しかも、自宅から会社まで片道1時間半もかかるうえ、残業が多く、体力的にきつくなる一方でした。

そのうえ、職場での人間関係もうまくいきませんでした。職場の上司が、必要以上に私にきつくあたるからです。私がトイレに行っている時間も計っていて、なにかにつけて怒られました。

(なんで、私ばっかり、こんな目に遭うの・・・)

後で聞いた話によると、自分の縁故者を入社させたくて、私を辞めさせたがっていたらしいのです。

「痛い・・・」

ある日、下腹部に激痛が走りました。

病院に行くと、尿管結石と診断されました。ふつうは中高年の男性がなるような病気です。「20歳前の女性の尿管結石なんて、はじめて見ました」と、医者も珍しがっていました。

思い当たることがありました。私は、ストレスからか、人の3倍ぐらい食べるようになっていたのです。お昼にお弁当を食べた後、大盛のチャンポンを食べて、さらにピラフをぺろりと平らげる―とにかく、食べても食べても満たされません。私は、今で言う「過食症」に近い状態になっていました。

その後、結石のせいで、お腹がパンパンに腫れ上がり、歩くにも足が上がらないような状態になりました。また、食べるとすぐ吐くので、病院で点滴を打ちながら、会社に行きました。

結局、精神的にもすっかりまいってしまい、私は入社2年足らずで会社を辞めることにしました。

家出

仕事を辞めてからしばらくは、家にいる気にもなれず、療養もかねて埼玉の叔母の家で過ごしました。気分転換にずいぶん旅行もしました。環境が変わったせいか、体調も少しずつ回復していきました。

アルバイトができるようになると、「早く家を出たい」という気持ちが日増しに強くなりました。そして、24歳のある日、私はバッグ1つを持って、何も言わず家を出ました。行き先は、京都。以前旅行したときに、いつか住みたいと思っていました。

「誰にも気を使わずに、大の字になって寝られるような生活がしたい」

それが私の願いでした。

生活が落ち着いた頃、父に知られないように、母親の職場にこっそり電話をしました。

「母さん、私、生きているから大丈夫よ。心配せんでね」

父に連れ戻されないように、固く口止めをしてから居場所を教えました。実家に帰るつもりは、私にはまったくなく、母も私の気持ちを察してか、無理に説得することはしませんでした。

母からの小包

ある日、母から小包が届きました。中には、大川隆法総裁の本が入っていました。

(この前、母さん、すごか本が出ているって言ってたな。これのことかな?)

最近、母は「幸福の科学」に入会したことを私に伝えてきていました。私は、半信半疑にその本を手にとって読み始めました。

その本には、「親子の関係というのは非常に縁の深いもので、1回や2回の生まれ変わりでできたものではない」と書いてありました。

(えーっ! 親子の縁って、あの世で約束してくるの?)

父が恐くて、自分に自信が持てず、不幸を環境のせいにしていた私。こんな人生が嫌でたまらず、「もし神様がいるなら、こんな人生早く終わらせて、天国に帰してほしい」とさえ思っていました。

しかし、この世は魂修行の場であり、親も、環境も、自分で選んで生まれてくることを知って驚きました。

そして、大川隆法総裁の講演会があることを聞いた私は、いてもたってもいられず会場に向かいました。

私は一言も聞き漏らすまいと、真剣に拝聴しました。話を聴いていると、なんともいえない懐かしい気持ちがしてきました。いつも孤独と不安でいっぱいだった私は、感激で最初から最後まで泣きっぱなしでした。

「なんでこんなに胸が熱くなるんだろう? 私も会員になって、もっとこの教えを学びたい」

感動を抑えきれず、その後すぐに、私は幸福の科学に入会しました。

「言うこと聞かんなら、勘当だ!」

「いつまでも、こんな状態じゃいけないな。そろそろ長崎に帰ろう」

幸福の科学の教えを学びはじめてから、「父とも和解しなくてはいけない」という気持ちが芽生えてきていました。

無断で家出をしてから、もう4年が経っていました。久々に実家の門をくぐるのに勇気は要りましたが、なんとか父と顔を合わせ、あいさつをすることができました。

しかし、自宅に住む気持ちにはなれず、市内にアパートを借りて、仕事をすることにしました。その後、職場の友だちの紹介で主人と出会い、結婚することになりました。結婚の報告をするために2人で実家に行くと、父は意外にも喜んでくれました。

「よか人やかね」

父は主人の人柄が気に入り、上機嫌。

ところが、結婚式の話になると、急に態度が一転しました。

「結婚はよかけど、親戚なんか呼んで派手に結婚式をするのはやめてくれ」

「えっ?」

主人と私は唖然としました。

昔から父は親戚づきあいが嫌いでした。だからと言って、「結婚式をするな」というのは、めちゃくちゃな言い分でした。結局、折り合いがつかないまま、「結婚式は絶対やりますから」と言い捨てて、逃げるように帰りました。

その後、突然、父が私のアパートにやってきました。母も一緒でした。ちょうど、主人と結婚式の打ち合わせをしているときでした。

その様子を見た父はカッとなって、いきなり主人の上に乗っかり、殴りつけました。

「結婚式をするなら、結婚もやめろ!」

「お父さん、やめて!」

母が必死になって止めました。

「言うこと聞かんなら、勘当だ!」

そう言い残して、父は怒ったまま帰っていきました。

結婚式当日の事件

結婚式当日。

父は“体調不良”を理由に参加できないということにしていました。式も終盤にさしかかった頃です。

「それでは、新郎新婦から、ご両親に花束の贈呈です」

司会者の言葉に従って、主人が母に花束を渡そうとしたとき、私は驚きました。

なぜか、そこにいるはずの母がいません。代わりに叔母が立っていました。後で聞いた話によると、式の最中に、「結婚式をやめろ!」という、ものすごい剣幕で怒る父からの電話があり、それを止めるため、母は急いで家に帰ったそうです。周囲の人は、私たちが動揺しないように、何事もなかったように隠していました。

新婚旅行から帰ってからも、勘当されている私は、実家に帰って父と会うことはできませんでした。長女、長男が生まれたときも、電話で報告はしましたが、病院へ孫を見に来る父の姿はありませんでした。

子供が“親善大使”に

「―Cちゃん、実家に行ってこんね。お父さん、きっと待っとるよ」

幸福の科学の仲間のMさんは、私が父との関係で悩んでいることを知っていて、なにかと相談に乗ってくれていました。すでに勘当されて6年近く経っていました。それ以来、同じ長崎に住みながら一度も父とは会っていませんでした。

「でも、私、勘当されとるけん・・・」

「大丈夫さぁ。子供を連れていってやらんね。お父さん、絶対喜ぶよ」

Mさんに背中を押され、2歳の長男を連れて実家に行きましたが、とても父と同じ場に居合わせる勇気がありません。

「これから支部の公案を受けるけん、この子を預かってもらってよか?」

私は玄関先で母親に長男を預けると、部屋にも上がらず、そのまま支部へ向かいました。支部の公案が終わり、ドキドキしながら実家に行くと満面の笑みを浮かべて長男と戯れる父の姿がありました。

「よか子になったね」

怒られるかもしれないと思っていた私は、あまりの父の変わりように拍子抜けしてしまいました。

まるで、子供が私と父の“親善大使”になってくれたようでした。それからというもの、子供たちを連れていくと、父が喜ぶので、私は実家に帰れるようになりました。

父との和解

Mさんに誘われて、精舎研修に参加するようになると、私の父に対する気持ちも次第に変わっていきました。

特に、湯布院正心館で研修に参加したとき、今まで充分に見えていなかったものが見えてきました。

それは、幼少の頃から、父に愛されていた自分でした。アルバムのなかにある、小さな私をまるで宝物のように大切に抱いている父の写真を思い出しました。

「そういえば、いつも父はたくさん写真を撮ってくれたな。年代ごとに整理されたアルバムがいくつもある。どういう気持ちで撮ってくれていたんだろう?」

鬼だと思っていた父の厳しいしつけも、実は大人になってから役立つことばかりでした。

また、自宅でよく勉強をしていた父の後ろ姿が思い浮かびました。いろんな本を読んでくれたり、読書の喜びを教えてくれたのも父でした。

進学についても、今考えると、私の実力や性格を充分知ったうえでの正しい選択だったと思いました。父への感謝の気持ちが込み上げ、「お父さん大好き!」と無邪気に思っていた幼少時代の自分を思い出しました。

そして結婚式の事件―。

「母が代わりに働いていて、プライドが傷ついていたんだ。だから、親戚を呼びたくなかったのかもしれない」

父の立場になって考えてみると、もう、水に流そうと思えるようになりました。

その後、私は実家に帰る前に、幼少時代のかわいがられていた写真を思い浮かべながら、「家庭調和の祈り」(※)を唱えるようにしました。心のなかで父と和解するイメージを何度も描いていくうちに、不思議なことに、勘当されたことも忘れるぐらい、お互い仲良く語り合えるようになっていきました。

※「家庭調和の祈り」:幸福の科学の三帰誓願者に授与される『祈願文(2)』に所収の経文。

「おじいちゃんのところに行こうよ」

「もう、自分もそんなに長くないかもしれんね・・・」

あるとき、父がぼそっと口にしました。

確かに、以前よりだいぶ痩せて、体調もよくなさそうでした。それでも子供たちが来ると、明るく元気に振舞い、孫2人を馬乗りさせながら喜んでいる父の姿がありました。

私と母が、「無理せんでね」と言っても、父はやめませんでした。

「おじいちゃんのところに行こうよ」

子供たちも、父が大好きになり、遊びに行くのをせがむようになりました。しかし、その後、父は入院し、孫たちと遊ぶこともできなくなりました。

父の愛が心にしみて

ある秋の夜のこと、病室でたまたま父と私だけになる時間がありました。

「身体が痛い」と言うので、私は父の身体をさすってあげていました。あんなに大きく感じた父の背中が、なんだかとても小さく感じました。

すると、呼吸器の隙間から、か細い、小さな声が漏れてきました。

「Cは、がんばってるね。ほんとうにがんばってる・・・」

父にはじめて心の底から褒められた気がしました。思わず涙がこぼれました。

数日後、父は静かに息を引き取りました。父の葬式のとき「お父さんに殴られたことが懐かしいです」と号泣していた主人。

主人も、1年ほど前に入会し、一緒に幸福の科学で学んでいました。

「―お父さん、Cのことが、かわいくて仕方なかったんだよ」

厳しくても、情の深い父であることを主人はよく分かっていたのです。

その後、母から、父が「Cのために」と言って、遺産を遺してくれたことを聞きました。そこに込められた父の愛が私の心にしみてきました。

(お父さん、ずっと私のことを思っていてくれてたんだ・・・)

この世限りではない親子の絆の強さを感じて、亡き父への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

そのことに気づかせてくれたのは、幸福の科学の教えでした。時間は短くても、父と私は、最後にほんとうの父と娘になることができたのです。

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