Archive for the ‘親子関係’ Category

孤児として育ち、「自分は必要のない人間だ」と、ネガティブな思いを抱えて生きてきたポールさん。そんな彼の人生を変えたのは、幸福の科学の教えとの出合いでした。そしてさらに、ある奇跡がその身に―。 今回は、ウガンダから心温まる感動の体験談をお届けします。 ポール・ルビア・ルブヤさん(36歳・ウガンダ共和国・幸福の科学職員) 隔月「ザ・伝道」229号より転載・編集


体験談ネガティブからの脱出

母さん、どうして私を置いていなくなったの?

私は、孤児として祖母の元で育てられました。 実の父母の顔も知らず、愛された記憶もなかった私は、ずっと心のなかに孤独を抱えて生きてきたのです。 自分のルーツや両親のことが知りたくて、あるとき、祖母に聞いたことがあります。すると、衝撃的な話を打ち明けられました。 両親と、赤ん坊だった私は穏やかに暮らしていたそうです。しかし、そんな幸せな毎日は、ある日を境に、一転してしまったというのです。 それは、突然の父の死。 ウガンダでは当時、政府や反政府組織による住民への襲撃や略奪が横行していて、地方裁判官として働いていた父は、こうした闘争に巻き込まれて、何者かに銃殺されてしまったと―。 母は、ショックのあまり、父の葬儀の最中に倒れて、しばらく入院したそうです。 ところが、そんな母が、ある日突然、私を置いて、どこかに逃亡してしまったのだと聞かされました。 私はまだ生後8ヶ月の乳飲み子でした。

●内戦を繰り返したウガンダの歴史

1962年にイギリスから独立して以降、たびたびクーデターが発生。特に、80年代から始まった、政府軍と反政府組織との戦闘は20年近く続き、住民への襲撃や略奪も横行していた。ポールさんが生まれた頃も、こうした政情不安が続いていた。

(母さんは、どうして僕を捨てたの? 母さんはこの国のどこかで生きているの?) 私は、自分の生い立ちを恨みました。 幸い、医者として働く裕福な叔父が学費を援助してくれたおかげで、私は学業に励むことができ、12歳で祖母の家から遠く離れた寄宿学校に入りました。 週末になると、生徒たちの親が続々と子どもたちに会いに来るので、寄宿舎には、楽しそうな家族たちの声が響きます。しかし、私に会いに来てくれる人は誰もいません。週末はいつもひとりぼっち。 (私は誰からも必要とされてないんだ……) そんなネガティブな思いが私の心を支配していました。 そしていつしか、「必要とされていないのに、なぜ自分は生まれてきたのか」という疑問を抱くようになっていったのです。

人生は一冊の問題集

人生の意味を求めて教会にも通いました。 しかし、牧師は、「祈りなさい」「すべて神にゆだねなさい」と言うばかりで、私の疑問や苦しみに、明確な答えをくれませんでした。 そんな23歳のとき、転機が訪れます。 当時、私は、大学に通いながら、生計を立てるために、アパートの管理人をしていました。 そこに越してきた日本人女性が私に幸福の科学の英語版月刊誌を手渡してくれたのです。 ●ポールさんが初めて手にした英語版月刊誌。 「ポールさん、良かったらこの冊子を読んでみて。幸せになるヒントが書かれているの」 私はそれまで幸福の科学のことを知りませんでしたから、不審に思いましたが、「他人と自分とを比較することをやめなさい」という表紙の言葉が気になって、読んでみることにしたのです。部屋に戻って冊子を開くと、そこにはどんな苦しみも糧に変えていく心の持ち方が説かれていました。 (今までこんなこと考えてこなかった…) この教えを学んだら何か変わるかもしれない。そう思った私は、月刊誌をくれた女性に頼んで、幸福の科学のメンバーになったのです。 彼女の自宅で幸福の科学の根本経典『仏説・正心法語』をいただき、一緒にお祈りをすると、言葉にできない喜びとエネルギーが湧き上がってくるのを感じました。 その日から、私は大川総裁の書籍を貪(むさぼ)るように読みました。 大川総裁の教えは、天に祈るだけでなく、心を磨くことの大切さと、その具体的な方法が明かされていて、とても新鮮に感じました。そして、英語版『不動心』を読んでいたとき、人生を変える言葉に出合ったのです。 「『人生は一冊の問題集である』という言葉で表わされるように、それぞれの人間には、その魂にふさわしい試練が与えられます。その試練をどのようにくぐり抜けていくかが、その人の真価、値打ちを決めるのです」 (人生は問題集……?) 大川総裁は、人間は死んだら消えてなくなるような儚(はかな)い存在ではなく、何度も地上に生まれ変わって、さまざまな経験を通して魂を磨いているということ、人生の苦難困難は、ただの不幸ではなく、”自分を鍛えるための問題”であることなどを教えてくれました。 (人生すべてに意味があるんだ! 私はつらい生い立ちを経験しているけれど、捉え方を変えれば、だからこそ人の苦しみや悲しみに寄り添うことができるようになった) それまで、「なぜ自分は不幸なのか」と、ネガティブになっていた心が軽くなったように感じました。 自分の人生を肯定的に受け止められるようになり、自然と笑顔も増えていったのです。 大学の友人たちにも、「ポールは最近明るくなったね」と言われるほどでした。

ウガンダに灯った救いの光

ウガンダの首都 カンバラの様子。

2012年、ウガンダにビックニュースが舞い込みました。大川総裁が、私たちのウガンダに説法に来てくださると聞いたのです。 (マスターは、ブラジルやインドなどで説法をされていたけれど、まさかアフリカにも来てくださるとは!) 多くの人を救うため、世界各地に赴き説法をされる、大川総裁の愛の思いにただただ感謝しかありませんでした。 当時、大学を卒業して、幸福の科学の職員になっていた私は、大川総裁の講演会をスタッフとしてお手伝いさせていただくことになりました。 迎えたご巡錫(じゅんしゃく)当日―。 アフリカ各地から大川総裁の話を聞こうと大勢の人々が詰めかけました。 まもなく法話が始まるというときです。 突然のスコールが起き会場を濡らしました。 しかし、人々の熱気は冷めません。参加者は椅子を傘代わりとばかりに頭上に持ち上げて雨を退け、大川総裁の登壇を待ちわびたのです。そして拍手のなか、法話が始まりました。 「あなたがたの内には、光があります。自分自身に、自信を持ってください。(中略)そして、自らの内に、例外なく、ダイヤモンドがあると信じることです。これが、繁栄への出発点なのです―」 大川総裁は、私たち人間は皆、神の子であり、それぞれに神の光が宿っていること、有色人種だからといって劣っていないこと、これからウガンダでもたくさんの奇跡が起きて人々が幸福になっていくことなど、私たちに勇気と希望を与えてくれるお話をしてくださったのです。 (私にも神と同じ輝きがあるなんて…) 自分も、神仏と同じものが宿る尊い存在なのだと自信が持てました。 そして、不思議と心が温かくなり、神仏から愛されている実感がしたのです。心がプラスの思いで満たされたからでしょうか。 以来、物事を前向きに考えられるようになっていきました。

ウガンダ巡錫説法の会場の様子

会場前には長蛇の列ができた

生き別れた親子に臨んだ奇跡

大川総裁のご巡錫から3年後の、2015年のある日のことです。 私は遠く離れた町に赴いて「富を引き寄せる心とは」という題の仏法真理セミナーを開いていました。 そしてその日のセミナーを終えて片付けをしていると、一人の受講者の女性が話しかけてきました。 「ポールさん、私は、あなたのお母さんを知っているかもしれない」 「えっ、母さんのこと?」 彼女は、セミナー冒頭の私の自己紹介を聞いて、友人が探している、「生き別れのわが子」ではないかと思ったそうです。 私は、にわかには信じられませんでした。 母が家を出て30年以上経っていますし、私の国では、「実の親だ」と嘘をついて経済的に頼ろうとする人もいます。 警戒した私は、とりあえず名刺だけ渡して帰りました。それから何日か経った日の午後、支部に一本の電話が入ったのです。 「はい、幸福の科学です」 「あの…あなた、ポールなの?」 私が「そうです」と答えると、電話の女性は震える声で、自分が母親であることを語り始めたのです。 そしてすべて言い終わると、受話器の向こうで泣いているような声がしました。 私は半信半疑ながらも、数日後、彼女に会いに行くことにしたのです。 教えられた住所を訪ねると、優しそうな女性が待っていました。 「ポール!」 彼女は興奮しながら、一枚の写真を出してきました。 それは、父と母の結婚式の写真。 若かりし頃の父と、私を育てた祖母も写っています。 「ああ、本当に母さんなんだね。こんな奇跡が起きるなんて! 信じられないよ」 私の国では、戸籍もいいかげんですし、人の行方が分からなくなったら多くの場合、それっきりなのです。 母は、赤ん坊だった私を置いていったことを謝り、真実を話してくれました。 母は、父が亡くなったあと、親族から父の兄弟との結婚を強要されたそうです。 当時のウガンダではそういったことはよくあったのです。 母は父を心から愛していたので兄弟とは結婚する気になれず、家を出るしかなかったのだと語りました。 赤ちゃんだった私を連れていきたかったけれど、それも叶わなかったのだそうです。 「母さんは、一日たりともポールのことを忘れたことはないわ。何度もあなたを迎えに行ったけど、お父さんの家族が絶対会わせてくれなかったの。本当にごめんなさい」 「母さん。確かに今までつらかったよ……」 私は、溢れそうになる涙をこらえながら、これまでのことを打ち明けたのです。 自分は誰からも必要とされていない、と孤独に苦しんだからこそ、人生の真理を求めて幸福の科学に出合えたこと。 「人生は一冊の問題集」という言葉に救われたこと…。 「与えられた環境のなかでどのように生きていくのかが大切なのだとマスターが教えてくれました。過去ではなくて一緒に未来に目を向けていきましょう。全てはGod’s plan(神の計画)だったのですから」 「ポール、そう言ってくれてありがとう」 私たち親子は、一緒になっておいおい泣きました。 さらに驚いたことに、母は2012年の大川総裁のウガンダ巡錫の会場に、バスを乗り継ぎ、約4時間半かけて来ていたと言うのです。 マスターは説法で「これからウガンダで数々の奇跡が起きる」とおっしゃっていましたが、思えばあの日から、私たちの「奇跡の再会」のシナリオは動き出していたのかもしれません。 その後、母と、母の再婚相手との子供たちも幸福の科学のメンバーになりました。

約30年ぶりに母・ジャスティンさんと再会したときの一枚。離れていた時間を埋めるように熱く語り合った。

地球神の教えが世界を一つにすると信じて

私は、大川総裁の教えに出合って、「生きる意味」と「神の子としての自分の価値」を知り、ポジティブな自分に生まれ変わることができました。さらに、母との再会という最高のプレゼントまでいただくことができたのです。大川総裁に、感謝してもしきれません。 ウガンダは、国民の9割近くが何らかの宗教に所属しています。また首都のカンパラには、アフリカで3番目に大きいモスクがあり、多くのイスラム教徒が巡礼に訪れます。 しかし、このような宗教国であるにも関わらず、未だ内戦で家族を殺されて深い心の傷を負っている人が大勢います。 私自身、キリスト教に救いを求めましたが、心が本当に満たされることはありませんでした。また、世界を見渡してみると、 宗教の違いによる争いが後を絶ちません。 こうした現状を目の当たりにするにつけ、キリスト教やイスラム教をはじめとする今までの宗教では、もはや人々を救う力はないのではないかと感じます。だから今こそ、地球規模の新しい教えが必要だと思うのです。 大川総裁は、イエス・キリストが「わが父」と呼び、ムハンマドが「アッラー」と仰いだ神が一なる存在であること、そしてその神の名は「地球神エル・カンターレ」であることを明かしています。 私はエル・カンターレの教えこそ他のどんな世界宗教をもしのぐ最高の教えだと確信しています。 私は自分の人生を懸けて、地球神の言葉を世界中に伝え、幸せの輪を広げていきます。それが私のミッションです。

【解説】ポールさんがネガティブから脱出できた理由とは

Point1 「人生は一冊の問題集」だと知った

ポールさんは、人生の意味が見いだせず、いつしか自分の存在まで否定していました。そんなときに「人生は一冊の問題集」という言葉に出合います。人生のあらゆる苦難困難も「自分を磨くための課題」であり、乗り越えることで成長できるとわかったことで、人生の捉え方が肯定的に変わっていったのです。


Point2 神仏の子である自分の価値に気づいた

大川総裁は、「人間は皆、神仏の子であり、心の中に神仏と同じ光が宿っている」と説いています。ポールさんはこうした真理に触れて、「私も神から愛された尊い存在なのだ」と実感。自分に対して本当の自信を持つことにつながったのです。

書籍で学ぶ読むと人生に希望が持てるオススメBOOK

『信仰の法 ―地球神エル・カンターレとは―』(大川隆法 著/幸福の科学出版)

明日を変える言葉

 

心を変えれば、環境は変わり、 人は変わり、未来は変わっていくのです。 その根本にあるのが信仰の力です。

「人生の問題集」を見つけ、解決しませんか?

心の力を、あなたも使おう心の力を使おう

あなたも心の力を学び、運命を逆転させてみませんか?

書籍本を読む

法話法話を直接聴く

お近くの幸福の科学の精舎や支部で開示中です。

ラジオラジオを聴く

1991年の放送開始以来、多くのリスナーに愛され続けているラジオ番組「天使のモーニングコール」

関連リンク

信者体験談一覧
ラジオ番組「天使のモーニングコール」
大川隆法総裁 公開法話・霊言一覧
幸福の科学出版
幸福の科学の研修施設(精舎)
幸福の科学 機関誌 隔月刊「ザ・伝道」一覧

母親が膠原病(こうげんびょう)に罹(かか)ったことを機に、冷え切っていた両親との関係を見直していったSさん。病気平癒(びょうきへいゆ)までの、心の軌跡をたどります。
Y・Sさん(神奈川県・30代・男性)
月刊「幸福の科学」376号より転載・編集

体験談原因不明の病・膠原病に侵され、絶望する母。しかし、息子の愛が奇跡を呼んだ—。

母からの突然の電話

2016年の3月。仕事中に突然、疎遠になっていた郷里の母から電話がかかってきました。母はしくしくと泣いていました。
「あのね、膠原病という病気になって…」

「膠原病?…今、仕事中だから」

母の話が要領を得ず、仕事中で忙しかったこともあり、私はすぐに電話を切ってしまいました。その後、山口の実家の近くに住む姉に電話をすると、看護師である姉は、膠原病は自分の免疫(めんえき)を攻撃する病気で、治る見込みがほとんどないことを説明してくれました。

「これから、長い闘(たたか)いになるだろうね。覚悟しないといけないかもね」

母は医師から「この病気は治ることはない」と言われ、絶望しながら関節の痛みに耐えているとのこと。

(きっと薬じゃ治らないだろうな…)

私は幸福の科学で「病気の原因は心にある」と学んでいたため、病気を根本的に治すには、母がこの教えを学んで心のあり方を変える必要があると思いました。

しかし、母に教えを伝えるのは気が重いことでした。なぜなら母は、私が信仰を持つことに猛反対していたからです。

私は大学時代に大川隆法総裁の書籍を読み、感動して信者になりました。教えを学ぶにつれ、自己中心的だった自分が謙虚になり、怒らなくなりましたし、探し求めていた生き方が見つかり、確かな幸福をつかんだのです。

そこで両親に、幸福の科学の話をすると…。

「そんなもん信じたって意味がない!」
「洗脳されてるんだ!」

父も母も激しく罵(ののし)り、聞く耳を持ってくれません。その後、同じ信仰を持つMとの結婚を決めたときにも反対されました。

(もういいや。どうせ分からんだろ)

私は両親との関係に疲れて、実家と距離を置くようになっていったのです。

「愛」を学んでいるのに…

しかし病気になったと聞いた以上、もう一度伝えてみようかと思い、電話をかけました。

「おかん、病気は治るんよ。心の力で…」
「そんなことないでしょ。あり得ない」

母は、相変わらず話を聞いてくれず、病気のつらさを訴えて泣いていました。

(だったら、話を聞いてくれればいいのに)

そんな母に、妻は見舞いの手紙を書いたり、大川総裁の書籍や幸福の科学の映画のチケットを送ったりしていました。

「お義母(かあ)さんの病気が、治るきっかけになるかもしれないから」

あれほど否定されながらも、母のためを思ってくれる妻の姿を見て、私はなんだか恥ずかしくなりました。
幸福の科学で「愛」の大切さを学んでいるのに、私は自分の親に
対して、「愛」どころか、興味も関心も薄かったのです。

(そういえば俺は、昔から親と関わるのを避けてきたし、実家のことに無関心だった。お互いの仲も冷え切ってたな…)

私にとって、実家の思い出は幸福なものではありませんでした。私が幼いころから、父は、お酒が入ると母に暴言を吐き、灰皿や茶碗を投げつけていました。
母は父に反発して、2人で毎週のように大ゲンカ。さらに、家計は厳しく、両親は「お金がない」が口癖でした。

私は(なんでこんなくさった家にいなきゃいけないんだ)と怒りを感じていたのです。

(でも、Mが頑張ってくれているんだから、俺もあきらめずに伝えていかなきゃ)

私は妻と一緒に、幸福の科学の支部で、母の病気平癒を願って祈願を受けました。支部の法友(※1)の皆さんも、私の母のためにお祈りをしてくださいました。

すると、ある日思いがけないことに、母が幸福の科学の映画「天使に”アイム・ファイン”」を観たと言って電話をくれたのです。

「映画のなかで、女の人が当り散らすシーンがあったけど、私も職場で同じことをしてたよ。私も周りに感謝してなかった…」

今までの母からは、予想できない言葉でした。母が少し心を開いてくれたようで、希望が持てました。

しかし、その後も母の病状は思わしくなく、関節の痛みで歩行困難になる日もあり、薬の副作用で髪が抜け落ちていったのです。

※1:同じ法を学び、学びについて語り合える仲間のこと。

15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

映画「天使に”アイム・ファイン”」より

膠原病を克服した二人の女性

母が膠原病になって半年が経(た)った16年の夏。私は、幸福の科学の布教誌に載っていた「信仰の力で膠原病が治った」という体験を持つお二人の方に連絡を取り、会いに行きました。20代と、50代の女性です。そして、治った経緯を伺いました。

20代の方は、暴力をふるう父を憎んでいたのですが、教えを学んで父への感謝を深めていくと、症状が快方に向かったそうです。

50代の方は、過保護な母に息苦しさを感じていましたが、研修を通して母への葛藤が解けたら、病気が治ったと話してくれました。

お二人の共通点は、病気の原因が「家族との葛藤」にあったことと、葛藤を克服できたら回復していったということでした。
それを聞いて、考えさせられました。
(家族の葛藤が原因なら、俺にも責任がある。俺が親に無関心なことが、家族の歪みになっているのかもしれない—)
私は今まで、”母を変えよう”としていましたが、まずは自分が変わらなければいけないと思い、精舎(※2)の研修で自分の心を見つめるようになりました。

※2:幸福の科学の礼拝施設。さまざまな研修や祈願を開催している。「精舎へ行こう」サイトはこちらから

研修で思い出した「母の愛」

季節が秋に変わったある日のこと。
精舎の「心の指針」研修(※3)に参加して瞑想していたとき、ふいに、子供のころの思い出がよみがえってきたのです。

保育園時代。母が毎朝、私を自転車に乗せて、急な坂道を登って送ってくれていたこと。母に料理をリクエストすると、必ず作ってくれて、それがとても美味しかったこと。

夏の夜、私が「花火をやりたい」と言うと、「お金がないけど」と言いながらも線香花火を買ってきてくれたこと。

私が中高生のころは、母は毎日5時に起きて、お弁当を作ってくれていたこと。

また、私が大学に入って一人暮らしを始めてからは、3カ月に一度、お米と手紙を送ってくれたことも思い出しました。

「元気にしていますか?ちゃんと野菜を食べてね。お金に困ったらいつでも言ってね」。

そう書かれた母の手紙が当時は煩(わずら)しく、感謝するどころか、読み捨てていたのです。

(おかん、ごめんな……)

私は、両親の不和や、家計が苦しいことだけを見て不満を抱き、母が注いでくれた愛情は当然と思って見過ごしていました。

(これからは、恩返ししていこう……)

心を改めた私は、電話やメールで母に頻繁に連絡を取り、体の具合を聞きながら、感謝の思いを伝えるように心がけました。
すると、母は次第に信仰の話にも耳を傾けてくれるようになり、送った書籍も捨てずに読んでくれるようになったのです。

「もらった本を読んだよ。病気のアドバイスが書いてあって、感謝が湧いてきたよ」

そんなふうに感想を言ってくれました。

メールのやり取りで、「私も、与える愛(※4)を実践しなければと思いました」など、教えを学んだ気づきを伝えてくれることも。

数カ月のうちに母は、泣いてばかりいたのが嘘のように明るくなっていきました。そして病気で休職中にも関わらず、「人のためになることがしたい」と、ケアマネージャーの資格を取る勉強を始めたのです。
(おかんはやっぱり「愛の人」なんだ—)

※3:本誌・月刊「幸福の科学」に掲載されている大川総裁の「心の指針」を深く学ぶ研修。
※4:見返りを求めずに心から他の人を思いやる、幸福の科学の「愛」の教えのこと。
15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

膠原病が快方に!

今年の3月の半ば。母が興奮した様子で電話をかけてきました。

「本当に奇跡が起こったんだよ!」

母が検査のために病院に行くと、今まで「絶対に治らない」と言っていた主治医が、血液検査の数値を見てこう言ったそうです。

「治ってますね。もう薬に頼る必要はありません」

母は「奇跡って本当にあるんだねえ」と大喜び。すぐに社会復帰し、仕事を始めました。
うれしいことは、それだけではありません。母の病気を機に、母に厳しかった父も優しくなりました。父も幸福の科学の書籍を読み、「これはとても役に立つよ」と、母に勧めてくれることも。さらに姉も三帰信者(※5)となり、両親を近くで支えてくれています。

私たち家族を導いてくださった主エル・カンターレに、心から感謝しています。力になってくれた法友の皆さんや、支え続けてくれた妻にも感謝でいっぱいです。
私は、主の教えで両親の愛に気づき、母の病気が劇的に良くなるという奇跡もいただきました。今後は両親に恩返ししていくとともに、世界中の方に、この「愛」の教えを伝えていきます。

※5:幸福の科学で、「仏・法・僧(ぶっぽうそう)」の三宝(さんぽう)に帰依(きえ)することを誓った信者。

書籍で学ぶ「信仰パワー」で病気を治そう

『「アイム・ファイン!」になるための7つのヒント』P.92(大川隆法 著/幸福の科学出版)

感謝の言葉を出していると病気も治ってくる

憎しみの念や怒りの念、あるいは人のせいにする念が強いタイプの人は、病気を非常につくりやすいのです。

自分が病気になるか、人を病気にさせるか、どちらかになる傾向が強く、あまり天国的とは言えないのです。

今はそういう攻撃性に満ちあふれた世の中なので、それを中和する意味においても、「ありがとう」という気持ちを持ち、笑顔と感謝の実践をすることが大事です。(中略)

早い話が、感謝の言葉を出していると病気も治ってきます。

たとえば、ある女性が病気だったとしても、自分の子供に「お母さん、ありがとう」と言われたら、治ってくるのです。

「人生の問題集」を見つけ、解決しませんか?

心の力を、あなたも使おう心の力を使おう

あなたも心の力を学び、運命を逆転させてみませんか?

書籍本を読む

法話法話を直接聴く

お近くの幸福の科学の精舎や支部で開示中です。

ラジオラジオを聴く

1991年の放送開始以来、多くのリスナーに愛され続けているラジオ番組「天使のモーニングコール」

関連リンク

信者体験談一覧
ラジオ番組「天使のモーニングコール」
大川隆法総裁 公開法話・霊言一覧
幸福の科学出版
幸福の科学の研修施設(精舎)
幸福の科学 機関誌 隔月刊「ザ・伝道」一覧

母親が膠原病(こうげんびょう)に罹(かか)ったことを機に、冷え切っていた両親との関係を見直していったSさん。病気平癒(びょうきへいゆ)までの、心の軌跡をたどります。
Y・Sさん(神奈川県・30代・男性)
月刊「幸福の科学」376号より転載・編集

体験談原因不明の病・膠原病に侵され、絶望する母。しかし、息子の愛が奇跡を呼んだ—。

母からの突然の電話

2016年の3月。仕事中に突然、疎遠になっていた郷里の母から電話がかかってきました。母はしくしくと泣いていました。
「あのね、膠原病という病気になって…」

「膠原病?…今、仕事中だから」

母の話が要領を得ず、仕事中で忙しかったこともあり、私はすぐに電話を切ってしまいました。その後、山口の実家の近くに住む姉に電話をすると、看護師である姉は、膠原病は自分の免疫(めんえき)を攻撃する病気で、治る見込みがほとんどないことを説明してくれました。

「これから、長い闘(たたか)いになるだろうね。覚悟しないといけないかもね」

母は医師から「この病気は治ることはない」と言われ、絶望しながら関節の痛みに耐えているとのこと。

(きっと薬じゃ治らないだろうな…)

私は幸福の科学で「病気の原因は心にある」と学んでいたため、病気を根本的に治すには、母がこの教えを学んで心のあり方を変える必要があると思いました。

しかし、母に教えを伝えるのは気が重いことでした。なぜなら母は、私が信仰を持つことに猛反対していたからです。

私は大学時代に大川隆法総裁の書籍を読み、感動して信者になりました。教えを学ぶにつれ、自己中心的だった自分が謙虚になり、怒らなくなりましたし、探し求めていた生き方が見つかり、確かな幸福をつかんだのです。

そこで両親に、幸福の科学の話をすると…。

「そんなもん信じたって意味がない!」
「洗脳されてるんだ!」

父も母も激しく罵(ののし)り、聞く耳を持ってくれません。その後、同じ信仰を持つMとの結婚を決めたときにも反対されました。

(もういいや。どうせ分からんだろ)

私は両親との関係に疲れて、実家と距離を置くようになっていったのです。

「愛」を学んでいるのに…

しかし病気になったと聞いた以上、もう一度伝えてみようかと思い、電話をかけました。

「おかん、病気は治るんよ。心の力で…」
「そんなことないでしょ。あり得ない」

母は、相変わらず話を聞いてくれず、病気のつらさを訴えて泣いていました。

(だったら、話を聞いてくれればいいのに)

そんな母に、妻は見舞いの手紙を書いたり、大川総裁の書籍や幸福の科学の映画のチケットを送ったりしていました。

「お義母(かあ)さんの病気が、治るきっかけになるかもしれないから」

あれほど否定されながらも、母のためを思ってくれる妻の姿を見て、私はなんだか恥ずかしくなりました。
幸福の科学で「愛」の大切さを学んでいるのに、私は自分の親に
対して、「愛」どころか、興味も関心も薄かったのです

(そういえば俺は、昔から親と関わるのを避けてきたし、実家のことに無関心だった。お互いの仲も冷え切ってたな…)

私にとって、実家の思い出は幸福なものではありませんでした。私が幼いころから、父は、お酒が入ると母に暴言を吐き、灰皿や茶碗を投げつけていました。
母は父に反発して、2人で毎週のように大ゲンカ。さらに、家計は厳しく、両親は「お金がない」が口癖でした。

私は(なんでこんなくさった家にいなきゃいけないんだ)と怒りを感じていたのです。

(でも、Mが頑張ってくれているんだから、俺もあきらめずに伝えていかなきゃ)

私は妻と一緒に、幸福の科学の支部で、母の病気平癒を願って祈願を受けました。支部の法友(※1)の皆さんも、私の母のためにお祈りをしてくださいました。

すると、ある日思いがけないことに、母が幸福の科学の映画「天使に”アイム・ファイン”」を観たと言って電話をくれたのです。

「映画のなかで、女の人が当り散らすシーンがあったけど、私も職場で同じことをしてたよ。私も周りに感謝してなかった…」

今までの母からは、予想できない言葉でした。母が少し心を開いてくれたようで、希望が持てました。

しかし、その後も母の病状は思わしくなく、関節の痛みで歩行困難になる日もあり、薬の副作用で髪が抜け落ちていったのです。

※1:同じ法を学び、学びについて語り合える仲間のこと。

15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

映画「天使に”アイム・ファイン”」より

膠原病を克服した二人の女性

母が膠原病になって半年が経(た)った16年の夏。私は、幸福の科学の布教誌に載っていた「信仰の力で膠原病が治った」という体験を持つお二人の方に連絡を取り、会いに行きました。20代と、50代の女性です。そして、治った経緯を伺いました。

20代の方は、暴力をふるう父を憎んでいたのですが、教えを学んで父への感謝を深めていくと、症状が快方に向かったそうです。

50代の方は、過保護な母に息苦しさを感じていましたが、研修を通して母への葛藤が解けたら、病気が治ったと話してくれました。

お二人の共通点は、病気の原因が「家族との葛藤」にあったことと、葛藤を克服できたら回復していったということでした。
それを聞いて、考えさせられました。
(家族の葛藤が原因なら、俺にも責任がある。俺が親に無関心なことが、家族の歪みになっているのかもしれない—)
私は今まで、”母を変えよう”としていましたが、まずは自分が変わらなければいけないと思い、精舎(※2)の研修で自分の心を見つめるようになりました。

※2:幸福の科学の礼拝施設。さまざまな研修や祈願を開催している。「精舎へ行こう」サイトはこちらから

研修で思い出した「母の愛」

季節が秋に変わったある日のこと。
精舎の「心の指針」研修(※3)に参加して瞑想していたとき、ふいに、子供のころの思い出がよみがえってきたのです。

保育園時代。母が毎朝、私を自転車に乗せて、急な坂道を登って送ってくれていたこと。母に料理をリクエストすると、必ず作ってくれて、それがとても美味しかったこと。

夏の夜、私が「花火をやりたい」と言うと、「お金がないけど」と言いながらも線香花火を買ってきてくれたこと。

私が中高生のころは、母は毎日5時に起きて、お弁当を作ってくれていたこと。

また、私が大学に入って一人暮らしを始めてからは、3カ月に一度、お米と手紙を送ってくれたことも思い出しました。

「元気にしていますか?ちゃんと野菜を食べてね。お金に困ったらいつでも言ってね」。

そう書かれた母の手紙が当時は煩(わずら)しく、感謝するどころか、読み捨てていたのです。

(おかん、ごめんな……)

私は、両親の不和や、家計が苦しいことだけを見て不満を抱き、母が注いでくれた愛情は当然と思って見過ごしていました。

(これからは、恩返ししていこう……)

心を改めた私は、電話やメールで母に頻繁に連絡を取り、体の具合を聞きながら、感謝の思いを伝えるように心がけました。
すると、母は次第に信仰の話にも耳を傾けてくれるようになり、送った書籍も捨てずに読んでくれるようになったのです。

「もらった本を読んだよ。病気のアドバイスが書いてあって、感謝が湧いてきたよ」

そんなふうに感想を言ってくれました。

メールのやり取りで、「私も、与える愛(※4)を実践しなければと思いました」など、教えを学んだ気づきを伝えてくれることも。

数カ月のうちに母は、泣いてばかりいたのが嘘のように明るくなっていきました。そして病気で休職中にも関わらず、「人のためになることがしたい」と、ケアマネージャーの資格を取る勉強を始めたのです。
(おかんはやっぱり「愛の人」なんだ—)

※3:本誌・月刊「幸福の科学」に掲載されている大川総裁の「心の指針」を深く学ぶ研修。
※4:見返りを求めずに心から他の人を思いやる、幸福の科学の「愛」の教えのこと。
15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

膠原病が快方に!

今年の3月の半ば。母が興奮した様子で電話をかけてきました。

「本当に奇跡が起こったんだよ!」

母が検査のために病院に行くと、今まで「絶対に治らない」と言っていた主治医が、血液検査の数値を見てこう言ったそうです。

「治ってますね。もう薬に頼る必要はありません」

母は「奇跡って本当にあるんだねえ」と大喜び。すぐに社会復帰し、仕事を始めました。
うれしいことは、それだけではありません。母の病気を機に、母に厳しかった父も優しくなりました。父も幸福の科学の書籍を読み、「これはとても役に立つよ」と、母に勧めてくれることも。さらに姉も三帰信者(※5)となり、両親を近くで支えてくれています。

私たち家族を導いてくださった主エル・カンターレに、心から感謝しています。力になってくれた法友の皆さんや、支え続けてくれた妻にも感謝でいっぱいです。
私は、主の教えで両親の愛に気づき、母の病気が劇的に良くなるという奇跡もいただきました。今後は両親に恩返ししていくとともに、世界中の方に、この「愛」の教えを伝えていきます。

※5:幸福の科学で、「仏・法・僧(ぶっぽうそう)」の三宝(さんぽう)に帰依(きえ)することを誓った信者。

書籍で学ぶ「信仰パワー」で病気を治そう

『「アイム・ファイン!」になるための7つのヒント』P.92(大川隆法 著/幸福の科学出版)

感謝の言葉を出していると病気も治ってくる

憎しみの念や怒りの念、あるいは人のせいにする念が強いタイプの人は、病気を非常につくりやすいのです。

自分が病気になるか、人を病気にさせるか、どちらかになる傾向が強く、あまり天国的とは言えないのです。

今はそういう攻撃性に満ちあふれた世の中なので、それを中和する意味においても、「ありがとう」という気持ちを持ち、笑顔と感謝の実践をすることが大事です。(中略)

早い話が、感謝の言葉を出していると病気も治ってきます。

たとえば、ある女性が病気だったとしても、自分の子供に「お母さん、ありがとう」と言われたら、治ってくるのです。

「人生の問題集」を見つけ、解決しませんか?

心の力を、あなたも使おう心の力を使おう

あなたも心の力を学び、運命を逆転させてみませんか?

書籍本を読む

法話法話を直接聴く

お近くの幸福の科学の精舎や支部で開示中です。

ラジオラジオを聴く

1991年の放送開始以来、多くのリスナーに愛され続けているラジオ番組「天使のモーニングコール」

関連リンク

信者体験談一覧
ラジオ番組「天使のモーニングコール」
大川隆法総裁 公開法話・霊言一覧
幸福の科学出版
幸福の科学の研修施設(精舎)
幸福の科学 機関誌 隔月刊「ザ・伝道」一覧

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第175号より転載し、編集を加えたものです。

Nさん(50代・女性)

Tが居た場所

豊かな自然が広がる埼玉県某市の閑静(かんせい)な住宅街に、我が家はあります。
そのリビングルームのテレビの前が、長男Tの“定位置”でした。
そこに布団を敷いて、重度の障害で寝たきりだった彼は、いつも横になっていました。

食事を摂るのも、オムツを換えるのも、眠るのも、いつもその場所。
夕食をすませた家族は、自然と彼の布団の周りに集まって、テレビを見ていました。

夏には自然のさわやかな風が吹き抜け、冬には、暖かいこたつとストーブの火。
我が家のリビングには、いつも彼を中心に、家族の笑い声と笑顔がありました。
けれど、今はもう、そこに彼の布団はありません。
5年前のお正月、長男は天国へと召されていったからです。

心臓手術

Tが生まれたのは1988年1月22日。
よく晴れた寒い朝でした。
結婚4年目でようやく授かった我が子に、私たち夫婦はとても喜びました。

しかし、その喜びもつかの間。
3カ月検診で“心雑音(しんざつおん)”が認められ、病院で検査を受けた結果、心臓内部の壁に先天的に穴が開いている「心房心室中隔欠損(しんぼうしんしつちゅうかくけっそん)」と診断されたのです。

すぐに入院するように言われ、荷物を取りに家に戻った主人と私は、二人で大声をあげて泣いてしまいました。

その年の6月、Tは心臓の手術をするために、他の病院へ転院しました。
手術は、8時間にもおよぶ大手術となりました。
そして、24時間後に麻酔から醒(さ)めた彼は、心停止を起こしてしまったのです。

医師や看護師たちが、あわただしく動き始めました。
電気ショック、心臓マッサージ・・・。
奇跡的に心臓の鼓動は戻り、彼は何とかその幼い生命をつなぎとめることができたのです。

神様、どうか・・・

しかし、退院後もTは、ミルクを詰まらせて肺炎を起こすなどして入退院を繰り返し、クリスマスもお正月も、1歳の誕生日も、病院で過ごしました。
それでも、だんだん食事も摂れるようになり、4月には退院。
6月には、長女が生まれました。

その3週間後。
彼の呼吸状態が悪くなり、すぐに救急車を呼びました。
病院に着くと、彼はまたも心停止を起こし、意識を失ってしまったのです。
主人と私は、本当は家族も入室できない集中治療室に入れてほしいと頼み込み、医師たちが懸命に心臓マッサージを施すかたわらで、必死に祈りました。

「私の命をこの子にあげてもいい。だから神様、どうか、この子の命をお助けください!」

主人はそう祈った、と話してくれました。

講演会での質問

心臓は動き始めましたが、昏睡状態(こんすいじょうたい)は続き、Tは病院の集中治療室で眠り続けました。
ちょうどそのころ、幸福の科学大川隆法総裁の講演会が埼玉県・大宮市で開催されました。

私は、すでに幸福の科学の会員となっていた主人に誘われて、初めて大川隆法総裁の講演会に参加することにしたのです。

「どうして何の罪もない幼い彼が、こんな試練に遭わなければならないのだろうか・・・。主人が信じている大川総裁なら、その答えを教えてくださるかもしれない」

そんな期待がありました。
そして、講演会の質疑応答で、主人はたくさんのなかから当てていただき、なんと、直接、大川総裁に質問することができたのです。

「先天的に障害がある子供を持った場合の、親としての心構えをお教えください」

大川総裁の答えは、力強いものでした。

「親としても重荷を負うことは事実でしょう。けれども、人は皆、あの世で人生の計画を立てて生まれてきます。そして、その人に背負えない重荷は計画してきません。また、障害を抱えての人生は、通常の人生の数百年・数千年分にも匹敵するほど尊い魂修行になります。今世、大きなハンディを持って生きた人ほど、来世で大きく伸びていきます。それだけ魂が輝くのです。どうか、愚痴の人生、他人の同情を受けるだけの人生で終わらせることなく、ハンディに負けずに、明るく建設的な生き方ができるよう励ましてあげてください」

私は、愛と確信に満ちた大川総裁の言葉に圧倒されました。
ただ、大川総裁の答えの本当の意味を理解するまでには、まだ、しばらくの時間が必要だったのです。

やっと目が開いたけれど・・・

病院で、約10日間にわたって眠り続けた、長男の目が開きました。
けれど、以前の彼とは別人のような目でした。

入院前は、1歳半の標準よりは小さいながら、お座りもでき、手を出して「抱っこ」をせがんだり、大きな澄んだ目をキョロキョロさせて、いろんな“芸”も見せてくれていました。

「あのTちゃんは、いったい、どこへいっちゃったの・・・?」

戸惑う私に、医師は言いました。

「脳に重い障害が残り、これ以上良くなることはありません。もう何も治療することはないので、一般病棟に移ります」

私には、その意味がよく分かりませんでした。
というより、このときの私には、まだ受け入れることができなかったのだと思います。

彼がもう二度と自分の足で歩くことができないこと、可愛らしい小さな手にスプーンを持って大好きないちごのケーキを食べることもできないこと、そして、もう二度と、愛くるしい笑顔で笑うこともないことを—。

ボーッとしたままバスに乗って帰宅し、長女をみてくれていた母に、医師の言葉を伝えていると、急にポロポロと涙がこぼれました。

心臓の手術をしたときには、「体が弱くても、勉強でがんばれば大丈夫よね」と、母と励まし合い、彼の将来に夢を抱いていました。

やるせない思いで、いっぱいになりました。

人生は一冊の問題集

Tの入院中、私はベッドの横で、幸福の科学の書籍を10冊読み、入会願書を提出して、会員となりました。
※当時は、経典を10冊以上読み、願書を提出する「入会願書制度」があり、合格は約4割であった。

書籍のなかの、「人生は一冊の問題集」という言葉が、私の胸に深く響きました。
人間は幾度も転生輪廻を繰り返していて、毎回、違う人生を自ら計画し、自分なりの問題集を選んで生まれてくる。その問題を自分の力で解くことが魂の向上につながる—。
そのようなことが書かれていました。

「これも、私の人生の問題集? Tも、自分で人生を計画してきたのだろうか・・・。だとしたら、問題から逃げずに、前向きに彼を育てていくことが、大宮の講演会で大川総裁が言われたことの意味なのかしら・・・」

笑顔も消えて

約5カ月間の入院ののち、長男が退院したのは、すでに秋風が吹くころでした。
ミルクも飲めない鼻には、経管(けいかん)栄養のためのチューブが挿入され、
あんなによく笑っていた顔からは、すっかり笑顔が消えていました。

そして、週1回のリハビリと内科の診察を受けるため、手足の動かない彼をベビーカーに乗せ、1歳にもならない長女を背中におぶって、病院通いが始まったのです。

長女はとても活発な子で、8カ月で歩き始め、「オムツ持ってきて」と言うと、彼の分まで持ってきてくれました。
微笑ましい長女の姿を見るにつけ、五体満足で健康であることがいかにありがたいことかと、あらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

通園施設での経験

そんなある日、我が家の近くに肢体不自由児を受け入れてくれる通園施設があることを知り、主人と下見に行きました。

その施設で、最初に言われたことは、「お母さん、ふつうの2歳児が体験することを、Tくんにもさせてあげていますか?」ということでした。
言われてみれば、自宅と病院との往復だけで精一杯で、彼を遊ばせることなど考える余裕すらなかったのです。
ここでは、先生方が、子供たちを抱きかかえてブランコに乗せるなど、全身にさまざまな刺激を与えてくれます。

それがとても心地良いらしく、彼の顔に、少しずつ笑顔が戻ってきたのです。
はじめは週1回だけの通園でしたが、4月には、正式に入園することになりました。
本来ならば嬉しいはずの入園式の最中、急に悲しみがこみあげてきました。

「なぜ私はここにいるの? ここは障害を持つ子の施設。幼稚園じゃない!」

けれども、この日私は、自分が「障害児の母になった」という現実に、初めて正面から向き合い、そして、受け入れることができたのだと思います。
自分に与えられた「人生の問題集」から逃げない。
そして、何があっても、自分の手で、前向きにTを育てていく—。
そう心に誓ったのです。

通園施設に通い始めてから、何とか口から食べられるようにと、根気強くリハビリを続けました。
そのかいあって、彼が4歳になるころには、ペースト状にすれば何でも食べられるようになりました。

鼻のチューブも外すことができ、好きなものを食べると、嬉しそうに笑顔を見せるようになったのです。

長男の障害は、施設に通う子供たちのなかでも最も重度でしたが、食べるのが苦痛で泣きながら食べている子や、思うように飲み込めない子も多いなか、彼が食べることを楽しみにしてくれるようになったことは、私にとっても、大きな救いとなりました。

たとえ障害があっても

1991年から95年まで、年2回、東京ドームで、5万人が集う大川隆法総裁の講演会が開催されていました。
私は、Tに大川隆法総裁のお話を聞かせてあげたい一心で、東京ドームでの講演会のすべてに彼を連れて参加しました。

当時は、「障害児は家に隠しておくもの」という暗黙の認識がありました。
外に出すと、多くの人から興味本位の視線が浴びせられます。
それは、耐え難いものでした。Tにとってもきっと同じだったでしょう。

けれども私は、あの埼玉の講演会で大川隆法総裁が言われた、「障害を持っていても明るく建設的に生きる」ということに少しでもつながるようにと、可能な限り、彼を外に連れ出しました。

通園施設でも、運動会、遠足、芋掘(いもほ)り、お遊戯会、お泊り会・・・。
ほとんどすべての行事に参加しました。
もちろん、車椅子での参加でしたが、光や高い音には敏感に反応していたTは、とびきりの笑顔で喜びを表現してくれたのです。

戦争のような日々

通園施設を卒園したTは、養護学校に通い始めました。
そして、彼が養護学校の1年生(小学校1年生)のときに、次男が生まれると、Tの介護と家事・育児で、私の忙しさはさらに加速していきました。

三度の食事にも気を遣います。
Tの食事はすべてハンドミキサーにかけて、ていねいに裏ごしし、スプーンで一さじ一さじ口に運んであげます。

少しでも粒が残っていると、のどに詰まらせたり、気管に入って肺炎を起こしてしまうので、細心の注意が必要です。

オムツ交換は、1日に、7~8回。
失敗すると、下着からズボン、寝具まで総とっかえです。
何回も洗濯機を回さねばなりません。

また、Tが眠ると、ほとんど毎晩のように、夜中に痰(たん)がからんでゼコゼコと苦しみ始めるため、私はすぐに起き出して、痰を吸引しなくてはなりません。

放っておいたら痰を詰まらせ、窒息しかねないのでこちらも必死です。
そのため、私はいつも寝不足でした。

やがて妹や弟たちも成長し、塾に通うようになると、養護学校の往復や塾の送り迎えで、車での走行距離は、計算すると1日約100キロメートルにもなっていました。

飴(あめ)をなめ、歌を歌いながら眠気と戦う日々—。
毎日が必死でした。
落ち込んでいる暇さえありません。

「一番大変なのはTちゃんなんだから・・・」

不自由な体に宿りながら、懸命に生きる長男。
そんな彼を思えばこそ、重度障害児は施設に預ける人も多いなか、私は「Tを自宅で育てる」という信念を貫き通したのです。

ともに励まし合う仲間たち

「Tちゃんは、天使と話しているんだね。きっと、あの世とこの世を自由に行き来できるんだね」

時々、天井のほうを向いてニコニコ笑っている彼を見て、主人が言いました。
幸福の科学では、「脳に障害があって、感じたことや思ったことを体で表現できなくても、魂は健全で、考える力や感じる力、意志を持っている」と説かれています。

きっと彼も、私たちが見えないものを見、感じられないものを感じていたにちがいありません。
また、「体が不自由なのは、この世での数十年の間だけ。あの世に還ったら、どんな障害も元に戻る」という教えには、本当に心癒されました。

通園施設や養護学校で知り合ったお母さん方とは、定期的に会い、励まし合っていました。

「○○ちゃんが入院した」「○○ちゃんが亡くなった」—。

悲しい知らせが舞い込むたびに、障害を持つ子たちは、本当に毎日が死と隣り合わせなのだと思い知らされます。
まだ子供たちが小さいころから、ずっと苦楽をともにしてきたお母さんたち。

「障害も、私たちの『人生の問題集』なのよ。解けない問題は来ないんだって。だから自分のことも、子供のことも、“かわいそう”って、思わないで、がんばっていこうね」

折にふれ、私は信仰によってつかんだ光を、お母さん方にお話ししました。

天使の笑顔

中学・高校と、新設の養護学校に通ったTは、卒業後、昼間の数時間だけ、自宅近くの施設で過ごすことになりました。
体が大きくなると、抱えるのも一苦労。

Tが大好きなお風呂も、私一人では無理なので、男性のヘルパーさんに入浴のサポートをお願いしました。

18歳のころ、Tは福祉を紹介するテレビ番組で、障害者のモデルに“抜擢(ばってき)”されました。

ヘルパーさんがTを入浴させるシーンを、自宅で撮影したときのこと。
彼は終始、笑顔でカメラに収まり、撮影もスムーズに終了。
スタッフの方々を玄関まで見送り、ふと、リビングの彼を見ると—。
ぐったりとして、眠りこけていました。

「Tちゃん、サービス精神旺盛だからカメラが回っている間中、笑顔をふりまいて疲れちゃったんだね。いつも、感謝や喜びの気持ちを笑顔で表わしてくれているんだね」

彼の天使のような笑顔は、神様からの最大のご褒美でした。

その日は突然に

やがて、Tも19歳になりました。
相変わらず、食事を詰まらせたり、痰がひっかかったりするので、気を抜くことはできません。

それでも、幼いころのように入退院を繰り返すこともなくなり、このまま、無事、成人式を迎えられると思っていました。

けれども、その日は突然やってきたのです。
2007年12月16日。
夕食後、お風呂から出た彼の息が、とても苦しそうです。

「救急車呼んで!」

病院に着くと、すぐに人工呼吸器がつけられました。

「肺気胸(はいききょう)です。健常児なら、さほど心配はいりませんが・・・。こういう障害を持つお子さんにとっては、厳しい状態です。覚悟しておいてください」

そう医師に告げられ、私は、誰もいない薄暗い病院の廊下の椅子に崩れ落ち、独りで泣きながら祈りました。

静かに迎えた最期のとき

その後、麻酔で眠っていたTの容態は安定しているように見えました。
けれども、年が明けて2008年1月2日のお昼すぎ。
彼は病室で、静かに息を引き取りました。
あと、ほんの少しで20歳でした。

もう大人の年齢ですが、身長は約140センチメートル。
長年の寝たきり生活で体は湾曲し、床ずれの跡が痛々しく残っていました。
生後半年で受けた心臓手術後の、心臓マッサージのせいで肋骨がずれてしまい、手術の傷跡まで痛々しくずれています。
20年にわたる、闘いの跡でした。

「Tちゃん、よくがんばったね・・・」
彼の顔は、とても安らかでした。

家に戻ってきた亡骸(なきがら)に、私たちは成人式に着せる予定だったスーツを着せて、紫色のネクタイをしてあげました。

主人は、「あの世」に還ったTが、すぐに仏法真理(ぶっぽうしんり)を学べるようにと、大川隆法総裁の法話CDをたくさん棺に納めました。

帰天式

Tの帰天式は、幸福の科学の支部精舎で行われ、300名を超える方々が参列してくださいました。

「Tくん。あなたは、今、肉体という衣を脱ぎ捨て、魂となってあの世へと旅立ちます。19歳と11カ月の今世の命でした。障害を持つ体で、さぞ大変だったことでしょう。でも、今、あなたは自由自在の霊となって、大空へ羽ばたいていきます。障害があっても笑顔で生き切ったTくん。皆様も、Tくんが遺してくれた宝物を大切にして、素晴らしい人生を生き切ってください」

支部長の法話は、参列していた養護学校の先生方やヘルパーのみなさん、そして、ずっと支え合ってきたお母さん方の心にも、深く深く沁みわたっていきました。

「ありがとう」と伝えたい

帰天式のあと、Tのお骨が自宅に戻ってきた夜のことです。
主人は彼といっしょに、やすむことになりました。
私は彼と長年を過ごしたリビングで眠りにつきました。
翌朝、起き出してきた主人が、静かに話し出しました。

「Tと話をしたよ」
「え・・・?」
「夢のなかに出てきた。あのときのスーツを着て、元気に歩いてた。『お母さんを起こしに行ったけど、お母さんは寝ていたから、お父さんのところに来たよ』って」
「Tちゃん、何て・・・?」
「『どうして、20年で逝っちゃったの?』ってきいたら、『20年というのは、僕の人生の計画だった』って・・・。
そして、『主エル・カンターレに、よくがんばったねって、頭をなでてもらったよ』って」
「・・・」
「『そっちの世界で自由な体になって、Tは何がしたい?』ってきいたら、『お母さんにありがとうって言いに行きたい』って・・・」
そこまで話して、主人は声を詰まらせました。そして、2人で涙が枯れるまで泣きました。

20年間、Tも家族も、ただただ無我夢中で生きてきました。
でも、彼は、自分自身で計画した人生を立派に全うしたのです。

たとえ障害があっても、Tは、決して「かわいそうな子」ではなかった。
多くの人に勇気を与えるために、自ら厳しい人生を選び、しっかりと、その使命を果たしたのです。

「お父さん、これでよかったんだよね? 大川隆法総裁があの講演会で教えてくださったとおりに、私たち、がんばれたよね?」

そう問う私に、主人もうなずいてくれました。
T、お母さんは、あなたのお母さんになれて、本当に幸せでした。
ほんとうにありがとう。
たくさんの笑顔をありがとう。
お母さんも、力強く、自分の使命を果たしていきます。

胸を張って天国に還って、もう一度あなたに会えるその日まで—。

関連記事

自閉症のわが子が笑顔で生きられるようになった【子育て体験談】

自閉症のわが子が笑顔で生きられるようになった【子育て体験談】

長男のTが3歳になったころ、知り合いのお母さんから、「ちょっと他の子と違うわね」と言われ、私は非常に気になりました。Tは、保育所でいつも独りで・・・
> 続きを読む

障害【体験談】

障害【体験談】

「私は、障害を持って生まれます。お母さん、大変でしょうけれど、頑張ってくださいね」
その声は、私が妊娠4カ月のころ、お風呂に入っていたとき、突然・・・
> 続きを読む

目が見えなくても、人生に光を見つけた【幸福の科学 信仰体験】

目が見えなくても、人生に光を見つけた【幸福の科学 信仰体験】

私は、生まれた時から目が見えません。生まれつき目に障害があって、右目にわずかな光を感じるだけで、左目は・・・
> 続きを読む

関連リンク

幸福の科学 信仰体験 一覧
ネット入会のご案内

カテゴリー
QRコード
携帯QRコード
幸福の科学リンクバナー

幸福実現党公式ホームページ

幸福の科学学園

精舎サイト「精舎へ行こう」ポータルサイトへ

幸福の科学出版

幸福の科学のラジオ番組 天使のモーニングコール

WITH YOU