Archive for the ‘親子関係’ Category

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第145号より転載し、編集を加えたものです。

Mさん(60代・女性)

なんで私がこんな目に—? この10年間、認知症の義母の介護をしながらも、私の頭からこの思いが完全に消え去ることはありませんでした。しかしそんな私も、心の中によどんでいた苦しみが一気に洗い流されていくという体験をしました。自分がそんな心境になるまでの長い道のりをお話ししたいと思います。

“まだらボケ”に?

「やだ、おばあちゃん、こんなおにぎりいっぱい買ってきて! どうするの?」。10年ほど前のことです。義母が近くのコンビニに行っては、度々、大福やおにぎりを山のように買ってくるようになりました。

当時わが家は、夫は東京に単身赴任、3人の子供は独立していて、2人で食べきれる量ではありません。私は仕方なく、ご近所に配りに歩きました。「おや?」と思うことはそれからも頻発。ある時など、近所のお寿司屋さんで、4人前のお寿司を買ってきたこともありました。「妹の所に届けるから」とおばあちゃんが言っていた、とお寿司家さん。ここは群馬県、妹さんは東京に住んでいます。いよいよ、おかしいと思いました。

普通の生活ができている中に、こうしたおかしな言動が混じることを、”まだらボケ”というのだそうです。その時初めて知りました。

認知症と診断

病院に行くと、案の定、認知症と診断されました。まめに短歌や俳句を作ったり、帽子一つにもこだわるおしゃれな人だったのに、なぜ—。私の動揺をあおるかのように、症状は日増しに進んでいきます。日中はおばあちゃんが散歩に出掛けた後、消防署や遠くの交番から迷子の連絡を受けるようになりました。夜は夜で、うなり声をあげて騒ぎ続けるおばあちゃん。私はなすすべもありません。

心に降る雨

幸福の科学の教えでは、嫁と姑は深い縁があると学んでいます。しかし私は、「本当にそうかな?」と、ずっと思っていました。大雑把なおばあちゃんに比べ、私は何でもきちんとしなければ気がすまない正反対のタイプ。ある時など、おばあちゃんが衣類とトイレのスリッパを一緒に洗濯機で洗っているのを見て、「おばあちゃんは、下の物と上の物を一緒に洗って平気な人なんだ」と思ったものでした。

そんなおばあちゃんの介護をしなくてはならない自分。複雑な気持ちでした。でも、長男の嫁として務めは果たさなければなりません。この夫と結婚していなければ、世話をしなくてすんだのではないか、という思いまでよぎり、そんなことを考えてしまう自分がまたいやでした。

夫は、化学品メーカーの営業マン。海外出張も多く、あれこれ話して心配をかけるわけにもいきません。孤独感と心の葛藤に苦しんでいた私は、時間さえあれば仏法真理(幸福の科学の教え)の本を手にとっていました。

「人生における嵐の渦中にあると、『なぜ自分がこうした苦悩や災難のなかにあるのか』と思うものです。しかし、そのなかにも何らかの学びがあることは事実です」「魂の糧という観点から見たときには、人生に無駄なものは何もないのです」(『不動心』より)

ただただ仏の言葉を頼りに、私は現実を受け入れようと必死でした。

ショックな出来事

私は当時、県の児童相談所に勤めていたのですが、週2日勤務の、市の臨時職員に変えてもらい、おばあちゃんの世話をする体制を整えました。

しかし、現実は想像を絶しました。

ある時、リビングの絨毯(じゅうたん)の上に、おはあちゃんが何かをボトボト落としていました。近づいてみると、便をもらしながら歩いていたのです。また、台所のゴミ箱に、中途半端に紙に包まれた便が入っていたことも。「弄便(ろうべん)」というのでしょうか、私はショックで、気が休まらなくなっていきました。そんな日々が数カ月続き、睡眠不足と心労で気が変になりそうでした。

クマのようなおばあちゃん

「これは私の試練なのでしょうか。どうかこの試練を乗り越える力をお与えください—」。祈ると、仏が、私の苦しみやつらさをすべて受け止めてくださっているようで、心が安らいでいきました。

それから間もなく、おばあちゃんの状態に変化が起こりました。ふとした時に転んで骨折し、3カ月間入院することになったのです。車イス中心の生活になり、食事の介助が必要な、「要介護5」の認定を受けました。私は昼食の介助のために、来る日も来る日も病院に通いました。

退院後は、今度は徘徊(はいかい)が始まりました。同じ所を行ったり来たりして這い回るおばあちゃんを見ていると、まるでクマのように見えてきます。寝る前にオムツを換える時も、ちっともおとなしくしてくれません。それどころか、私に向かって「バカ!」と言い、叩いたり、つねってきたりするのです。

「おばあちゃんは、ひとりで何もできないじゃない!」思わず、声を荒げてしまいます。介護虐待が問題になっていますが、虐待する側の気持ちも分かる気がしました。

私がわからないの?

自分が自分でないような心に少しでも平安を取り戻そうと、私は週1回は必ず、支部に行くようにしました。「Mさん、本当によく頑張ってるね」と、支部の仲間がいつも励ましてくれました。そして礼拝室でしばらくの間、仏と対峙(たいじ)すると、心に光がチャージされたように、また頑張ろうという力をいただけるのです。

ある日のこと、仕事を終え、夕方6時頃、家路を車で走っていると、家の近くの通りで、おばあちゃんがポツンと立っていました。私の帰りを待っていたのです。どれほどの時間待っていたんだろうかと思うと、切なくなってしまいました。

いつしか、おばあちゃんは私のことを、以前のように「Mさん」と名前で呼ばなくなりました。ある日、車で出掛けた時など、横に座っている私に、「あなたの住所を教えて。私、手紙を出すから」などと言い出しました。

「愛してあげなさい」

その後、私は、自らの新生の願いを込めて、総本山・正心館で「仏説・起死回生経」(※)を受けました。儀式中、心の中に、光の奔流(ほんりゅう)のような大河が現れました。そしてその中に自分が入っていく感覚に打たれたのです。そして流れていく先には、何とおばあちゃんがいました。寂しそうな顔で立っています。

30年前に同居してから、ずっとおばあちゃんのグチばかり聞かされてきました。生い立ちの不幸、そして結婚生活でのおじいちゃんへのさまざまな恨み・・・。誰からも愛されなかったという人生—。

「愛してあげなさい」

仏がそうおっしゃっておられるように思えました。儀式を終えた後、どうしてこんなに泣けるのかと思う程、みぞおちのあたりからこみあげるように嗚咽(おえつ)し続けました。

※「仏説・起死回生経」・・・奇跡的・劇的に、人生の大転換・大変換を招来し、運命変更を成し遂げる秘法

一緒にお風呂

総本山・正心館を後にした私は、あることを心に決めていました。それは、おばあちゃんと一緒にお風呂に入るということです。早速1人用の浴槽を、2人用のものに変えました。それまでは体を洗ってあげるだけでしたが、すっかり小さくなったおばあちゃんを、抱きかかえるようにして湯船に浸かると、心なしかおばあちゃんの顔も優しくなっているように見えました。
また、介護は長丁場ですから、全部自分でやろうと思わずに、介護施設のデイサービスなども利用し始めました。

するとおばあちゃんに対して、以前より心を込めて介護できるようになりました。定年退職して帰ってきた夫も介護に参加してくれ、負担も軽減。おばあちゃんもだんだん穏やかになっていきました。

おばあちゃんはその後2回肺炎になりました。高齢者なら、そのまま亡くなってしまうケースが多いのですが、その度に支部で「病気平癒祈願(びょうきへいゆきがん)」をし、おばあちゃんはまた元気に持ち直していったのです。

つらかったね、おばあちゃん

しかし、そんなおばあちゃんも、ある年の暮れ、高熱が続き、ものが全然食べられなくなってしまいました。お正月を迎えられないのではと、夫も私も覚悟しました。

ある夜、おばあちゃんのベッドの横に座って、おばあちゃんの顔に刻まれたしわを見ていたら、ふいにこみあげてくるものがありました。

「おばあちゃん、私はおばあちゃんを幸せにしてあげられなかったかもしれないね。ごめんね、つらい人生だったね・・・」

幼少期は母親から冷遇され、結婚後はおじいちゃんから何かと亡くなった先妻と比較されてつらかったといいます。私は、真っ白になったおばあちゃんの髪をなでてあげました。

「今、こんな体になってまで、生きてくれているのは、私の魂修行のため? 付き合ってくれているの?」。

これまで、おばあちゃんに対してそれなりに介護してきたつもりでした。でもそれは、義務感でやっていたのでは—と、その時初めて反省の思いが湧いてきたのです。おばあちゃんは家にいる時もずっと、私を目で追っています。その視線が時にうるさくて、おばあちゃんを見ないようにしたこともありました。おばあちゃんには頼る人間は私しかいないというのに・・・。

湧いてきた感謝

しばらくおばあちゃんの横に座っていると、いろんなことが思い出されました。同居した頃、子供たちは全員小学生で、食事はグラタンなど子供の口に合う洋風のものばかり出していました。おばあちゃんは口に合わなかったかもしれないのに、何でも食べてくれました。

また、子供の教育についても、躾(しつけ)についていろいろ言うおばあちゃんに、「干渉しないでください」と言ったら、その後は何も言いませんでした。嫁として至らない点もいっぱいあったでしょうに、一度も叱られたことはありません。思えば、3人の子供を抱えながら仕事に出られたのも、おばあちゃんがいてくれたからこそです。

結婚する前、初めて義母に会った時、なぜか懐かしい感じがしたことも思い出しました。本当に縁の深い人だったのです。

翌日、びっくりするようなことが起きました。おばあちゃんが元気になり、食事がとれるようになったのです。驚いている夫に、私は、「おばあちゃんに、魔法をかけたの」と言いました。おばあちゃんと私は心でつながっている、約束してきたソウルメイトなのだと、心から実感しました。

心に寄り添うということ

おばあちゃんは私に「愛」について教えてくれたんだと思います。他の方の心に寄り添うこと。何をしてほしいのか、関心を持ってまっすぐ向き合うこと。それが愛なのだと—。
以前の私は、考え方の違う人に会うと、つい裁(さば)いてしまいがちでした。でも今は「ちょっと待てよ。この人にも何か事情があるかもしれない」と思える余裕が心に生まれています。

もう、私の魂修行だとか、試練だとか、そういうことではなくて、「おばあちゃんの残された地上での生命をお預かりしているんだ、かけがえのない時間を過ごさせてもらっているんだ」、とそんな気持ちでおばあちゃんに向き合っています。

自らの体を張って、私に「愛」の大切さを教えてくれた義母に、感謝の思いでいっぱいです。そしてつらい時、いつも共にあってくださり、尊い魂の糧をお与えくださった仏に、心より感謝申し上げます。

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この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第144号より転載し、編集を加えたものです。

Mさん(40代・女性)

私はダメな子

私はダメな子なのかな—。物心ついたころから私は、自分のことをそんな風に思っていました。 なぜなら、母から私自身を「否定」されるような言葉を言われ続けて育ったからです。

「あなたはほんとにダメな子なんだから—」

私の両親は、父は新聞社の印刷工員、母も飲食店の店員をしていて共働きでした。そのため長女の私は、小学校の低学年の時から家の掃除をしたり、夕飯のしたくの手伝いをしたりと家事をしなければなりませんでした。私に少しでも落ち度があると、母は私を厳しく叱り、その度に「ダメな子」呼ばわりするのです。

父はそんな時、「言いすぎだ」と言って、私をかばってくれました。でも、父とは喧嘩が絶えなかった母は、父の言葉など聞く耳をもちません。ある時など、ちょっとお使いが嫌だと言っただけで、突然の体罰。私には何が理由でそこまで怒っているのか分かりません。それ以後、いつ叱られるかとびくびくするようになりました。

「なんでそんなに怒るの? 私、そんなにダメな子なの?」

恨み心を募らせて

それでも私は、母に優しくしてほしい一心で、子どもながらにいろいろな努力をしました。お手伝いは、掃除でも料理でも、自分なりに工夫。だんだん、手早くやれるようになっていきました。勉強の方は、通信簿が「2」ばかりでしたが、頑張った結果、高学年になると「4」や「5」をとれるようになりました。

運動も人一倍努力。生まれつき股関節に障害がある私は、他の子のようには走れません。
でも、毎日、夕方、家の周りを走りこむうち、マラソン大会で上位に入るようになったのです。そんな私を、母はほめてくれますが、至らないことがあれば、ものすごく叱責され、全人格を否定するようなことまで言われます。

「なんでそこまで私をひどく言うの?」

いつしか、私は母に反感を募らせていったのです。

早く家を出たい

中学生頃まではおとなしくしていた私も、高校生になると反抗するようになりました。

「いちいち、うるさいっ!」

そんな私に、母も怒りをぶつけてきます。私は高校を卒業し、一般企業に勤めた後、音楽教室の講師になり、子どもにピアノなどを教えるようになりました。アパート暮らしも始め、ようやく家を出ることができたのです。

そして24歳の時に、中学の同級生だったTさんと結婚。夫は国家公務員ですが、海外任務も定期的にあります。結婚してすぐアメリカに行くことになりました。長男が生まれると、母は英語も話せないのに、アメリカまで来て子育てを手伝ってくれました。でも、そんな母に私は、感謝の言葉も、ねぎらいの言葉も、かけたことすらなかったのです。私は依然として、母に心のわだかまりを持ち続けていました。

ほんとうの愛

結婚6年目に入ったころ、夫との関係が冷え切ってしまうということがありました。苦しんでいる私に、子ども同士が同じ保育園ということで知り合ったSさんが、幸福の科学の『太陽の法』という本を勧めてくれたのです。予想だにしなかった本の内容に私は引き込まれました。

「みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です。与える愛とは、すなわち、無償の愛です」「にせものの自分の筆頭とは、他人から愛をもぎ取ることばかり考えている自分です」『太陽の法』より)

私は夫との関係に思いを馳せました。夫は、優秀な人なのに入省の経緯から出世コースからはずれていたことを、心の中で責め続けていたのです。夫にも伝わっていたに違いありません。私は、自分が「奪う愛」の塊だったこと、夫の愛情や優しさも見失っていたことに気づきました。

私、仏の子だった!

驚きはそれだけではありませんでした。

「人間の魂は、仏からわかれてきたものであり、仏の自己表現の芸術であると、言ってよいでしょう」『太陽の法』より)

人間は「仏の子」であり、「魂の親である仏」を目指して無限に向上していけることが、理路整然と書かれていたのです。

「私、間違ってた! 私、ダメな人間なんかじゃない!」

私は、いつか「自分が素晴らしく変われる」という希望を胸に幸福の科学に入会したのです。

心はつながっていた!

まず夫への反省をしました。夫の出世に執着していた自分。私は、幼いころから抱いていた劣等感を、夫の出世で埋めたかったのです。家族のために身を粉にしている夫に、申し訳なさでいっぱいになりました。

すると不思議なことが起こりました。夫が単身赴任先のイランから電話してきて、「二人で出直そう」と言ってくれたのです。こんなにも心はつながっているのかと、驚くばかりでした。

親を選んでくる?

さらには支部の皆さんと、総本山の精舎を巡り、研修にも参加するようになりました。精舎で瞑想していると、何ともいえないあたたかな光を心に感じ、魂が安らぎに満たされていったのです。

「私、仏と一体なんだ。仏とつながっているんだ—」

仏の偉大さ、教えの威力に感動していった私でしたが、一つだけ理解できないことがありました。それは、「生まれる前に親を選んでくる」という教えです。あの母を、自分が親に選んだということに、私は納得がいきませんでした。

ある日、支部で先輩会員と話していると、ある方が何気なく口にした、「親子関係の改善は『感謝』がキーワードよね」という言葉に心が留まりました。そこで私は、日中、家事をしながら、母がしてくれたことを一つひとつ思い出してみることにしました。最初は、いやな記憶ばかりよみがえりました。幼いころ、わけも分からないまま髪を引っ張られたこと、足蹴にされたこと・・・。でも、「お母さんも仏の子。仏を信じるなら、お母さんの仏性を信じよう」と思い、1週間、2週間とトライし続けました。

父に泣かされていた母

すると、私が小学生の時の母の姿を思い出しました。仕事から帰ってくると、私と妹をつかまえて、冗談を言ったリ、「ひょっとこ」みたいなおかしな顔をして、よく私たちを笑わせていた母。私は妹と二人、心から笑っていました。そんな合間、母はよく「私にはおまえたちが宝物なんだよ」と言っていたことも思い出したのです。

競馬にお金をつぎ込んでいた父に泣かされていた母。

「家計を支えるために、つらいことがあっても私たちのために、一生懸命働いてくれてたんだ。私につらく当たったのは、きっと夫婦仲が悪くて、さみしさのあまりだったからに違いない・・・」

私はさらに、母とのことを思い出していきました。

「星を授かった」

ある日の昼下がり。居間でくつろいでいると、ふと、私の誕生について、母から聞いた話を思い出しました。

「Mちゃんがお腹に宿る前、3度も流産してね。もう子宝は授からないって諦めてたら、おまえを身ごもったんだよ」
「それからは、心にいつも星が輝いているみたいな気がしてね。だから、私は星を授かったんだ、この子は私のスターなんだ、と思ったよ」

母はおだやかな笑みを浮かべ語っていました。

「ごめんね、Mちゃん」

しかし、そうして生まれてきた私には、股関節に障害がありました。「おまえの足は、私のせいだよ。ごめんね」と、ことあることに言っていた母。障害のことを医者から告げられたとき、母はどんなにショックだったことでしょうか。

私も母親になった今では、その気持ちが痛いほど分かります。幼いころ、母は私をおんぶして病院を回りました。診察室で「先生、どうかこの子の足を治してやってください」と頼みこんでいた母の姿が思い出されました。

また、別の光景もよみがえってきました。小学校の高学年で、運動会の応援に母が来てくれた時のこと。私は長距離走で、一番でゴールしました。

「Mちゃんが一番で戻ってきた!」

母はそう言って、大粒の涙を流しながら、子どものようにはしゃいで喜んでくれました。

その泣き顔を思い出した時、私が障害を持って生まれたことに母がどんなに負い目を感じ、どれだけ「ガンバレ、ガンバレ」と心で応援してくれていたか、心底分かりました。厳しい母だったからこそ、私もここまで頑張ってこられたのだと—。母も私を信じてくれていたのだと今は思えます。

どんなにつらい境遇の中でも、明るくエネルギッシュだった母。そんな母から私は、「強さ」を学び、引き継がせてもらったのかもしれません。

「そうだ! 私はこの母のもとで、努力の喜びを知るため、親になってもらうよう、生まれる前にお願いしてきたんだ!」

この母の子でよかった

ほどなくして、母が遊びに来てくれた日。私は心にあふれる感謝を、ありったけの気持ちをこめて伝えました。

「お母さん、私を生んでくれて、ここまで育ててくれて、本当にありがとう。今まで全然感謝もしないで、本当にごめんね」

突然の私の言葉に、あっけにとられていた母。やがて、ポタポタと涙をこぼしはじめました。

「私は、おまえから感謝してほしくて頑張ってきたわけじゃないんだよ。でも、そう思ってくれて本当にうれしいよ」

母と抱き合い、二人とも言葉もなく涙を流し続けました。

その日を境に、母とぶつかることはほとんどなくなりました。あれから数年。母は、孫の顔を見るのが何よりの楽しみ。二人の息子もおばあちゃんが大好きです。孫たちと一緒に幸せそうな母の姿を見ていると、私もとても幸せな気持ちになります。この母の子として生まれることができたことを、今では誇りに思います。

そして、こんなに素晴らしい幸福を授けてくださった仏に、心からの感謝を捧げます。

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この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第122号より転載し、編集を加えたものです。

私は、自分が小さい頃に養女に出されたことを、不幸だと思っていました。しかし、幸福の科学との出会いを通して、自分自身の境遇に対する見方が全く変わり、心から感謝できるようになりました。
きょうは、私のたどった心の軌跡をお話しします。Hさん(40代・女性)

夫の浮気、離婚・・・

いまから十数年前、私は離婚しました。長年、前夫の浪費癖や夜遊びなどに悩まされてきましたが、3人の子供のためを思って、ひたすら耐えていました。

しかし、そのなかで夫の浮気が発覚。さらに長男が成長するにつれて、「おまえなんか!」と父親に反抗するようになったのを見て、「もう限界だ」と別れる覚悟を決めたのです。

私は子供たちを連れて実家に戻りました。長男は中学に入ったばかり、下の娘はまだ幼稚園でした。

愛を裏切られて・・・

前夫と出会ったのは20歳の頃。彼は遊び仲間のグループの一人でした。彼はとてもマメな人で、「体調が悪い」と言えば薬を買って車で届けてくれるし、よく高価な宝石を私にプレゼントしてくれました。スキーで捻挫したときは、毎日、会社まで車で迎えにきてくれました。

そんな彼の強烈なアプローチに押されたカタチで結婚。

ところが、塗装工をしていた夫はバブル崩壊のあおりで仕事が激減しました。極端に少ない額のお給料では足りず、私たち家族は一日1000円に満たない倹約生活でした。

彼はアルバイトもしましたが、そのお金を生活費に回してくれず、ブランド物を身につけ、夜も遊び回って帰ってこなくなりました。そして浮気—。

「こんなはずじゃなかった・・・」

幼い頃から人一倍、愛を求めていた私。実は生後すぐに養女に出されてしまい、心に寂しさを抱えていたのです。「こんなに強く私を愛してくれる人なら大丈夫だろう」という夫への期待は、見事に裏切られました。

養女と知った日

私が初めて、自分が養女だと知ったのは、小学校3、4年生ぐらいの夏だったと思います。東京の下町で育った私は、毎年夏になると、栃木にある母の田舎に遊びにいきました。

一人娘の私にとって、大勢のいとこたちと一緒に自然豊かな山や川で遊び回る日々は、とても楽しみでした。

ある日、一緒に遊んでいた3歳年下のいとこが、思い出したように言いました。

「ねぇ・・・ほんとうは、Hちゃんってさ、私のお姉ちゃんなんだって」

突然の言葉にびっくりしましたが、幼いなりにも、それがどういうことか、なんとなくのみこめました。

「いとこが私の妹・・・じゃあ、田舎のおばさんが私のお母さんってこと?」

口数の少ないおばさん。私から話しかけたりすることもあまりなく、なんだか自分の母親という実感がわきません。おじさんはすでに亡くなっていました。

私はいらない子

「私はお母さんのほんとの子供じゃないんだ。もらいっ子なんだ」

頭のなかで「もらいっ子、もらいっ子」という言葉がぐるぐる回り、ほんとうにショックでした。

ちょうどテレビでは、山口百恵が養女役のつらい境遇を演じる連続ドラマを放映していました。養女というイメージは私の心に暗い影を落としました。

「田舎は4人もきょうだいがいるのに、なんで私だけ養女に出されたの?私はいらない子だったの?」

「私はいらない子」という独り言を、何度つぶやいてきたことでしょう。

養女の事実に気づいて以来、心の底に「私は親から必要とされていなかった存在」という孤独感がありました。そんな私の心を満たしてくれるような、ほんとうに愛してくれる人を求めて、前夫と結婚したのです。

結婚前、私を追いかけ回していた彼。それを私は、自分だけに対する特別な愛情の証と信じ込んでしまったのでした。

「いらっしゃいませ」

離婚後、子供を連れて戻った私を、養父母は黙って迎えてくれました。何のあてがあるわけでもありません。

ただ、失意のなかにも、一条の希望のようなものが胸の内に宿っていました。その一条の希望—私の心の拠りどころとの出会いは、離婚の2年前、偶然とも言えるきっかけからでした。

ある日、いきつけの美容室に行ったところ、お店が閉まっていました。

「あー休業日かあ。どうしよう。また出直すのも大変だな。うちの子が待ってるし、次いつ来られるかわからないし・・・」

CLOSEDの札を眺めながら、しばらく店の前で思案していると、前に見かけた美容室をふと思い出し、そのお店に行ってみることにしました。

「—いらっしゃいませ。こちらは初めてですか?」

雰囲気のよい店内。店長さんらしき男性が迎えてくれました。初めての店だと、なかなか思うような髪型にしてもらえないことも多いので、ちょっと不安でしたが、私の要望をよく聞いてくれ、素敵にカットしてもらえました。思いきって来てみて正解です。

すっかり気に入った私はリピーターになり、店長さんとも顔なじみになりました。

けれども、これがのちのち私の人生を大きく変えていく出会いであったとは、この時点ではまだわかりませんでした。

運命のトビラを開いて

ある日、店長さんに髪を切ってもらいながら世間話をしているうちに、いつのまにか家庭の悩みを口にしていました。

「実は夫とうまくいかなくて・・・」
「そうなんですか。それは大変ですね」

店長さんは鏡ごしに心配そうな表情を向けました。

「—あ、そうだ。そういうことなら、いい本がありますよ。よかったら読んでみますか?きっと何かしら参考になることがあると思いますよ」
「えっ、本ですか?私はちょっと・・・」

子供の世話で、毎日てんてこ舞い。ぜんぜん本を読む余裕などなさそうでした。でも、美容室から出たあとも、店長さんの言葉が気になってしかたありません。

結局、それから何日かたって、やっぱり貸してもらうことにしました。本を適当にパラパラと開いてみるうち、いつのまにかひきこまれていきました。

「夫の愛情不足を嘆く人は、あちらにもこちらにもいます。・・・女性はどうやら愛情に飢えている動物であり、愛情が与えられないと、“飢え死に”をしてしまうもののようです」『「幸福になれない」症候群』第3章

自分に語りかけてこられるような感じがして、不思議なくらい早く読み終えることができました。店長さんにお礼をいって、本を返しました。

「おもしろかったですか?まだほかにもいろいろ本があるから、貸しましょうか」

こうして私は大川隆法総裁の本を読むようになったのです。

大川総裁の話のなかには、愛についての話がたくさんあり、気になります。「与える愛」とか「奪う愛」とか、まだよくわからないながらも、ここに自分の求めているものがあるような気がします。

私は未来への期待感を抱いて、幸福の科学に入信しました。

その後、離婚など、つらい出来事もありましたが、幸福の科学と出会っていたことが、そうした日々のなかで私の心の支えとなったのです。

心のなかの変化

ある日、玄関チャイムの音がしました。

「こんにちは。私、幸福の科学の者ですが・・・」

幸福の科学に入ってしばらくして、近所の信者さんが訪ねてきてくださいました。近くで集いを開いているそうです。新たな人たちとのご縁は、私にとって、とても新鮮でした。

幸福の科学の人と出会って、私のこれまでのお付き合いとは違うと思ったのは、心を開いて何でも話し合える雰囲気があることでした。

私もみなさんと一緒に集いに参加したり、支部の活動に出たりしているうちに、だんだん新しい生活のリズムができ、気持ちにも余裕が出てきました。

ある日、支部で、ある方から、「一度、これまでの人生で、自分が人に与えた愛と、人から与えられた愛を、全部書き出して比べてみるといいですよ」とすすめられました。

私は、そのやり方をヒントに、心に引っかかっていた前夫について考えてみることにしました。彼と出会った頃からの出来事をいろいろと思い出していくうち、(彼にはけっこうお世話になってたなあ)と、あらためて思いました。

そのわりには、「してもらって当然」という思いで、ぜんぜん感謝してなかった私がいました。なぜそんな態度になってしまったのかを、さらに考えていくうち、恐ろしいことに気がつきました。

「あなたが追いかけまわしたから、私は結婚してあげたのよ」

心の底に、常にそんな思いが潜んでいたことに気づき、ゾッとしました。自分が夫に愛されることばかり考え、思い通りにならなくて苦しんでいましたが、自分から夫に何かしてあげようとは思っていませんでした。

こういうのが「愛を奪っている」ということなんだと気づき、このままではいけないと思いました。

私はさらに反省していきました。もしかしたら、前夫だけではなく、他の人にも知らないうちに「奪う愛」になっていたかもしれない—。

これからは、私も愛を与えられるような人になりたいと思いました。

新しい生活のなかで

その日以来、私は他の人の幸せを意識するようになりました。でも、思いを切り替えるというのは難しいものです。

泉からあふれ出る水のように、愛を与えられる人—そんな理想のイメージにはほど遠く、「私のことをわかってほしい」という思いが先に立ってしまいます。つい人の目を気にする自分がいました。

私は幸福の科学の活動をしたり、仲間にアドバイスをもらったりしながら、少しずつ自分を変えようと努力しました。

仲間のなかでも特にお世話になっていたのが、私に幸福の科学のことを教えてくれた美容室の店長、Sさんでした。

Sさんは私に困ったことがあると、よく相談に乗ってくれました。何より、同じ信仰を持っていることで、互いに気持ちが通じ合えるのです。子供たちもSさんと親しくなりました。

私も彼の誠実な人柄にひかれるようになり、離婚から3年後、再婚することになったのです。

その後は、初めから家族だったように自然で、みんなで車に乗ってスキーに行ったり、テーマパークで楽しんだり、温泉を巡ったり・・・わが家のアルバムに楽しい思い出が追加されるたびに、私は「幸福の科学に出会ってから、ほんとうに幸せなことが増えたなあ」という実感をかみしめました。

また、可能なかぎり幸福の科学の精舎研修にも、主人と2人で参加していきました。

前夫への反省を通してはっきりしてきたのは、私の「愛されたい」欲求は根深く、それはやはり養女という生い立ちからきているということでした。

自分の過去をしっかり見つめたい—。私は、精舎で開催されていた「両親に対する反省と感謝」研修を受けにいくことにしました。

父母の本心

養女と知った当時、私は子供心に「聞いてはいけないんだ」という気持ちがして一人で抱え込んでしまいました。それが自分の正直な気持ちにフタをしてしまった最初だったと思います。

以来、私も親類も正面からその話題を出さないながらも、話の端々にチラチラにおわせることで、いつしか暗黙の了解のようになっていったのです。こうして親類のような親きょうだいのような、微妙な感じが続いていました。

でも、私の心の影は置き去りにされたまま・・・。

研修中、「大悲(だいひ)父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」を唱え、心を鎮めて瞑想していると、突然、心のなかにある光景が浮かんできました。田舎の家の広い座敷に寝かされている赤ちゃん—それは私でした。実の両親が私をのぞき込んでいます。

両親は顔を見合わせて、ため息をつきました。しだいに私を渡す日が近づき、どんどん無言になっていく両親。もうしばらくすると娘を手放さなければならない・・・。

寂しく悲しい気持ちになっている2人の心の内が、手にとるように感じられます。

「私のこと、いらなかったんじゃなくて、あげたくなかったんだ」

私は涙があふれ出し、嗚咽が止まらなくなりました。以前、上の姉が何気なく言っていた話の断片を急に思い出しました。

「父ちゃん、Hをあげたあと、心配でそっと東京まで見にいったんだよ。そしたらKおばさんが、Hを背負って鼻歌うたいながらおむつを洗濯していたから、安心したって」
「でもね、Hをあげたあと、父ちゃんと母ちゃんは寂しくて悲しくて、結局もう一人産んだんだよ。生まれた妹を抱いてね、『かわいかんべぇ。東京に行ったHに似てるべ』って、近所を歩いて回ってたんだよ」

早くに亡くなってしまった実父。写真でしか知らない人が、まぎれもなく私の父親であるということが、このとき初めて実感として迫ってきました。

そして実母。4人目の私を妊娠したとき、農家の嫁として朝から晩まで働きづめだっただけに、ずいぶん悩んだようです。

ある日、畑から戻った母は慌てました。高い縁側のふちで、3歳児だった長女が生まれて間もない次女を必死でつかんでいたのです。一人で床を這い出した次女が落ちかかっていたそうです。

「仕事が忙しくて、子供たちの面倒もろくにみてやれない。こんな状態で産んでもかわいそうだ。・・・いっそ子供のいない妹夫婦に預けたほうが、ずっと大切にしてくれるんじゃないか」

私を養女に出したのは、苦悩の末の決断でした。

田舎に行くと、いつも田や畑に出ていた実母。野良仕事から帰ってくると、「来たかぁ。ほら、とうもろこし茹でたぞ。食べろ」とすすめてくれました。

無口で、いつもニコニコ微笑んでいる人。親子の会話は少なかったけれど、やりとりの一つ一つがあたたかい・・・。あの母が苦しんで苦しんで、ほんとうに私のためを思って養女に出した気持ちを思うと、泣けてしかたありませんでした。

そして考えてみると、養父母も優しい人で、私を大切に育ててくれました。小さい頃、私の洋服は全部、養母のお手製でした。大好きだったキリンや馬のぬいぐるみまで作ってくれていたのです。

私は気づきました。「私は恵まれていた! 私には母が2人もいて、他の人より2倍も愛されていた」—そう思ったとき、長年ひきずっていた心のなかの影は消え、あたたかい気持ちで満たされたのです。

研修のなかで、私は実母に手紙を書きました。「お母さん」と呼ぶのは初めてです。

「お母さん、私を宿し、10カ月大切に育て、無事産んでくれてありがとう。私の幸福を願い、信じ、東京に養女に出してくれてありがとう。お母さんが私の幸せを心から願いつづけてくださったお蔭様で、今の私があります。心から感謝しています。ありがとう。—あなたの娘・Hより」

実母は80歳。帰省時には、いとおしむように2人のときを過ごしています。またこの体験を通じて、私を慈しんで育ててくれた養父母への感謝もいっそう深まりました。

魂の絆をかみしめて

再婚後、わが家はもう1人、男の子に恵まれ、4人の子供になりました。その子もいま、小学校2年生。明るく活発で、わが家のアイドル的存在です。

ほかの子供たちも主人とほんとうの親子のように暮らしているのを見ると、血の繋がりを超えた深い絆を感じるのです。

幸福の科学では、親子の魂は天上界で約束して生まれ合わせてくると学んでいます。肉体的な血縁があってもなくても、確かに魂の深い縁で結ばれている人たちがいるのだと実感しています。

最後に、幸福の科学と出会えた幸福に対し、天上界に心から感謝申し上げます。

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この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第116号より転載し、編集を加えたものです。

以前の私は、母のことを、いつも心のなかで責めていました。けれど、信仰と出会い、考え方がまったく変わってしまい、母との関係も変わりました。母と私が歩んできた道のりを、お話ししてみたいと思います。(Hさん・30代女性)

母の怒り

「さっさと、やりんさいや!」

私の実家は広島の郊外にある、大きな古い平屋で、裏手には、家族の食事用の作物をつくる田畑がありました。私は、小学校にあがる前から、いろいろと家の手伝いをさせられました。

掃除、洗たく、風呂焚き、畑から野菜をとってくること・・・。いつも、母から、たくさんの用事を言いつけられます。私には、それが苦痛でした。

「何回ゆうたら、わかるんね。ちゃんと片付けんさい、ゆうたじゃろう」

ささいなことでも、大声で怒られます。口答えや言い訳などしようものなら、もっと怒られます。私は、言い訳したい気持ちをぐっとこらえ、できるだけ早く、母に言われたように動くよう努力しました。

「言ってもわからんのんじゃったら、もう外に出ときんさい!」

ときには、夕食を抜かれたり、家の外に閉め出されることもありました。テストでいい点をとって、母の機嫌をとろうと、一生懸命、勉強しました。両親の仲も悪く、夫婦げんかはしょっちゅう。言い争う声を聞いていると、暗い気持ちになりました。

自由になりたい

小学校4年生のころのこと。よく家に遊びに行くようになった、友だちのお母さんは、とても優しい人でした。家事もお母さんがとりしきっているようです。私の家とは違う・・・ショックでした。

「もう、こんな家にいたくないな。そうだ、伯母さんの家に行こう」

私は、貯金箱から小遣いを取り出し、身の回りのものをリュックにつめました。母が出かけている間に、3歳下の妹をつれて、そっと家を出ました。妹の手を引き、記憶だけをたよりに、かなりの距離を歩き、さらに30分ほどバスに乗って、なんとか伯母の家にたどりつきました。

「どうしたん? あんたら、2人で来たん?」

私たちを見た伯母はびっくり。すぐ、私の家に電話すると、あわてた母が迎えに来ました。母は、なにも言わず、とても怖い顔をしていました。

自由になりたいなあ・・・何度もそう思いました。

憂うつな日々

中学、高校になってからも、やはり、母に振り回されていました。母の気持ちが荒れてくると、私も、父や妹も、母の怒りに巻き込まれるような感じでした。

家族はみんな、それとなく母の様子を気遣いながら、過ごしていました。私にとっては、なんとなく心の晴れない10代でした。

いつしか私は、人の言われるままに生きるようになっていました。「こうしたい」とか「こうなりたい」とか、将来の目標や理想のようなものは、私にはありませんでした。未来が明るいもののようには思えなかったのです。

高校卒業後は、担任の先生の勧めるままに、県内の短大に進みました。就職活動の時期も、自分からは何もせず、様子を見かねた先生が勧めてくれた地元の会社に、ようやく就職を決めました。

私は、会社で事務職として働きはじめました。幸い職場の人間関係はよく、私はまじめに仕事をこなしました。友だちにも恵まれ、それなりに楽しい時間を過ごしていました。

けれど、社会人となり、いろいろな人と接するなかで、私は、自分の気持ちをきちんと伝えることができないことに、しだいに苦しみを感じはじめました。心のなかでは嫌だと思っていても、断ることができません。

相手に不愉快な思いをさせたり、人間関係のトラブルが起きることが心配で、つい「はい」と言ってしまう・・・。そんな自分が嫌いでした。「私は、こんな苦しい感じのままで、ずっと生きていくんかな」と、なんとも言えない空しい感じがしていました。

親子には深い縁がある

ある日、会社の更衣室で帰る準備をしていると、先輩が、なにげなく椅子のうえに置いた本『神霊界入門』(現在『大川隆法霊言全集』第26巻、第27巻に所収。小桜姫の霊言)に目が留まりました。なんとなく、神秘的な感じのする本で、興味をひかれました。

「その本、貸してもらえますか?」

先輩にお願いして、借りて帰りました。自宅でさっそく読みはじめると、すぐに本の内容にひきこまれていきました。あの世の世界や生まれ変わりのことなど、聞いたこともないような話ばかりでした。夢中で読み進めていくと、ある一節で目が留まりました。

「親子の関係というものは非常に縁の深いものです。これは1回や2回の生まれ変わりでできたものではありません」

あの母と深い縁があるなんて、いままで考えたこともありません。考えれば考えるほど不思議な感じがして、「親子の縁」ということが、深く心に残りました。私は一晩で本を読み終わってしまいました。それが、大川隆法先生の本との出会いでした。

心が満たされていく

「この本、ありがとうございました。とても面白かったです。もっと読んでみたいのですが・・・」

「本屋さんに行けば、他にも売っとるよ」

先輩と相談し、互いに違う本を買って、交換して読むことにしました。そして、次つぎと新しい本を読みふけりました。

「苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです」「愛なくして幸福はありません」—。読めば読むほど、心が軽くなっていきました。

大川隆法先生の本には、さまざまなものの見方や考え方が説かれています。私にとって苦しみとしか思えなかったことも、違う見方をすることができるのだとわかり、とても気持ちが楽になりました。

嫌いだと思っている自分自身のことも、変えてゆくことができる。自分の意志で人生も変えてゆくことができる—。そのことを知って、未来が明るく見えてきました。カラカラだった心が、真理の言葉で満たされていくようでした。

片時も大川隆法先生の書籍を離したくなくて、ちょっとした時間にも本を開きました。

先輩といっしょに、職場の他の人たちにも、幸福の科学の本を勧めました。

私は、幸福の科学の機関誌も読むようになりました。あるとき、「情熱からの出発」(『悟りの極致とは何か』第2章に所収)という講演会の内容が載っていました。

「光の力が結集しなければ、とうてい、全人類、全日本人を幸福にするだけのエネルギーには足りないのです」

私も、この教えを広めていくお手伝いがしたい。光の力となって、もっと多くの人を幸福にしていきたい—。そんな気持ちがわいてきて、私は、幸福の科学に入会することにしたのです。

問題集を解かにゃいけん

幸福の科学に出会う前の私は、いつも、母の顔色をうかがいながら過ごしていました。私の人生にとって、母の存在は苦しみの種。心のなかで母のことを責め、できれば逃げ出したいと思っていました。しかし、仏法真理を学ぶうちに、「このままではいけない」という思いが強くなってきました。

仏法真理によれば、人生は一冊の問題集であり、この問題集は、各人が努力して解いていかなければならないのだと言います。そして、悩みの中心こそ、人生の問題集が何であるかを教えてくれているものなのだと言うのです。

私は、いろいろな本のなかから、問題を解くヒントをさがしました。すると、「与える愛」の教えが、私の心にひびいてきました。

「愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。・・・みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です」『太陽の法』第3章

苦しかったのは、私が、お母さんにみかえりを求めていたからかもしれないと思いました。問題集を解いていくには、きっと、愛を与えていくことが大切なんだ—。私は、母に対して、与える愛を実践していこうと決意しました。まずは、感謝の言葉を口に出すことから・・・。

それまでは、母への反発心から、「料理がおいしい」という言葉さえ、ろくに口にしたことがなかった私。ささやかな一言でも、勇気がいりました。

「今日の料理、ほんまにおいしいね」

「・・・してもらって、うれしかったよ。ありがとう」

ちょっとした折に、感謝を口に出します。しかし、頑張っているわりには、母の反応がありません。つれない態度に、「もうやめようか」と思うことも少なくありませんでした。

けれど、そのたびに、「みかえりを求めちゃいけん。私から、与えていくことが大事なんだ」と自分を励まし、努力を続けました。

母の涙

それからしばらくして、私が、いつものように読書をしていると、突然、母が部屋にやってきました。

「そんなに本ばっかり読んじゃいけん!」

そう大きな声で言うなり、すぐ出て行ってしまいました。私はあっけにとられながらも、なぜか、母の目にいっぱいたまっていた涙が、心に焼きついて離れません。母がそんなふうに泣いている姿など、見たことがありません。

「お母さん、私を気遣って、泣いとったんじゃろうか」

気がつけば、すぐ思い浮かぶ母の姿は、怒っている顔や、厳しい表情ばかり。はっとしました。

「私は、かたよった見方をしてきたんじゃないじゃろうか・・・」

子供のころの母の姿が、次つぎと思い浮かんできました。毎日の食事やお弁当づくり。母親参観のとき。運動会。家族旅行・・・。あらためて思い返すと、母にしてもらったことが、たくさんよみがえってきます。涙があふれてきました。

「こんなに愛してもらっとったのに。私が心を閉じて、お母さんの愛情を受け入れんかっただけだったんじゃね。お母さん、ごめんなさい」

あとからあとから涙があふれます。はじめて、心から素直に母に謝りました。それからは、いっそう心を込めて、母への感謝を、言葉や行動で表しました。

ゆっくりと話を聴き、母が興味を持ちそうな幸福の科学の本を勧めました。2、3日すると、母に渡した本が、食卓の私の席に置いてありました。

「これ、もう、読み終わったの?」

「ああ、読んだよ」

何冊も、そんな調子でした。私にはなにも言いませんが、母も考えるところがある様子でした。それから数カ月して、母は自ら幸福の科学に入会したのです。私は、ひとつ母に恩返しできたような気がして、とてもほっとしました。

母との対話のなかで

その後、私は結婚して実家を離れました。なんとなく母のことが気がかりで、しばしば電話しては、話を聴き、なぐさめたり、励ましたり。けれども、母は感情的になると、以前のように、言葉がきつくなってきます。

「仏法真理を学んどるはずなのに」と思うと、責める心が出て、心が揺れました。しかし、仏法真理では、相手を責めるのではなく、理解することが大事だと教わっています。私は、母のことをもっとよく知ろうと思いました。

子供のころのことを尋ねてみると、母は少しずつ話してくれました。母の実家は裕福な家で、祖母は厳格な人だったこと。ある日、家の戸締りをしなかったとひどく叱られ、いらない子のように言われて、とても傷ついたこと・・・。はじめて聴く話ばかりでした。

話を聴くうちに、母にとっての母親とは厳しいものだったのだとわかりました。そして、自分の叱られた経験から、「自分の子供には同じ思いをさせないように、しっかりした子に育てんといけん」と、一生懸命だったのだとわかりました。

私を叱った厳しさのなかに、母なりの愛情が込められていたのです。そのことに気づいてからは、母のきつい言葉も、徐々に心にひっかからなくなっていきました。やがて、私も娘を授かり、子育てをしていくなかで、いっそう母の気持ちを理解できるようになっていきました。

つらかったという気持ちは、もう、水に流そう・・・私の心から、わだかまりが消えていき、母と電話で話すのが楽しみになっていきました。

母の宝物

母も、幸福の科学の教えを学んで、自分を変えようと努力していました。毎日、お祈りや反省の時間をとり、自分を振り返っているようでした。

話していても、感情的にならないよう努力しているのが伝わってきます。母は少しずつ家族や周囲の人に対しても、人あたりのよい、まるい人になっていきました。

こうして、母が幸福の科学に入って、数年が過ぎたころのこと。私は、娘のSといっしょに実家に帰っていました。娘と遊んでいると、不意に、そばにいた母が言いました。

「H、大好きだよ。Hは、私の宝物だよ。ちっちゃいとき、すごい意地悪してごめんね」

とても優しい声でした。胸がいっぱいになりました。

「ありがとう・・・」

そう言うのがやっとです。母の顔を見ることもできません。母も、それ以上、なにも言わずに、静かにそばにいてくれました。私は、娘をあやしながら、母の愛を感じて、幸せな気持ちにひたっていました。このときから、いっそう深いところで、母と心が通いあえるようになりました。

私のいちばんの味方

いま、母は、私のいちばんの味方です。なんでも本音で話すことができ、ときには相談にものってくれる心強い存在です。

実家に帰れば、毎晩遅くまで、母と語りあいます。ほんとうに楽しくて、時を忘れてしまうほど。娘のSも、おばあちゃんが大好き。母も、私たちが帰ってくるのを楽しみにしているようです。

母は、幸福の科学の活動にも熱心に取り組んでいるようです。「多くの人に幸せになってもらいたい」と語る母の姿に、私は、母の愛情深さをあらためて感じます。

お母さんの娘に生まれることができて、本当によかった。しみじみとそう思います。いまでは、父と母、妹、そして子供たちも、幸福の科学の会員となりました。

互いに怒りをぶつけあって、心の休まらない家庭で暮らしていた私たち。それが、いま、こうして同じ仏のほうを向き、信じあい愛しあい、強く結びつきあっている─。あたりまえの家族の風景が、私にとっては、限りなく大切なものに思えます。

もし、幸福の科学にめぐりあうことができなければ、きっと、こんな日は来なかったに違いありません。あらためて、仏法真理の素晴らしさを実感し、仏への感謝があふれてきます。

この幸福をかみしめながら、これからも、大好きな母と、家族とともに、多くの方の幸せのために生きていきたいと思っています。

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