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重度の糖尿病にかかり、左足の薬指が壊死(えし)してしまったAさん。合併症を併発し、一時は危険な状態になりました。病床で神仏に救いを求めたAさんに、ある奇跡が訪れます―。
A・Mさん(愛知県・60代・男性)
ザ・伝道227号より転載・編集

体験談心の力で病気を癒す

重度の糖尿病と告げられて

「うわあ!」
2017年1月27日の晩のことでした。

私がお風呂に入ろうと靴下を脱いだとき、左足の薬指から血が出ていることに気がつきました。痛みはないのですが、足はぱんぱんに膨(ふく)れ、皮膚は黒ずんでいます。驚いた私は、ちょうど外出先から帰宅した妻のYに見せました。

「おいおい、ちょっとこれを見てみろ」
「ええっ! お父さん、この足どうしたの」

慌(あわ)てて近くの救急病院に駆け込むと、医師は、ひと目で糖尿病だと言いました。検査を受けると、血糖値もヘモグロビンA1cも、正常値を大幅に超え、医師も驚くほど。

「Aさん、すぐに入院してください。左足の薬指は壊死しています。足に症状が出ていなければ、失明していたか、場合によっては命を落としていたかもしれません」
(そんなにひどいんか……)

当時、私は自動車部品の製造工場を経営していました。毎日残業で休日も返上して働いていましたし、食事も高カロリーなものを好んでいました。若い頃に糖尿病のけがありましたが、今まで健康に暮らしてきたので、あまり身体のことに気をつかってこなかったのです。

そんな不摂生(ふせっせい)がたたったのかもしれません。左足も、3日ほど前から腫(は)れていたものの、痛みがなかったのでそのままにしていました。

翌日、入院すると、私と妻は病院で定期的に行われている糖尿病の勉強会に呼ばれました。糖尿病の知識がなかった私たち夫婦は、さっそく参加させていただくことにしたのです。

しかしそこで見せられたのは、足がなくなった人の映像や失明した人の事例の数々― 。自分がいかに”恐ろしい病気になったのか”をつきつけられると同時に、私も妻も不安がどんどん募(つの)っていきます。

実際に、私も医師から「膝(ひざ)下から切断すれば早く社会復帰できますよ」と言われていました。

(膝下から? 指だけ切りゃあいいのかと思っとったのに。切ったらもう二度と、自分の足では歩けなくなるんか……)

包帯に巻かれている左足をながめては、虚(むな)しい気持ちになるのでした。

「お父さんの足、絶対治るから」 

そんな私の心の支えになっていたのは以前から信仰している幸福の科学の教えでした。私は、1992年に、妻の誘いで大川総裁の講演会「中道からの発展」に参加して感銘(かんめい)を受け、「もっと深く学びたい」と思って入信しました。以来、家族で信仰してきたのです。 
 
幸福の科学の祈願によって数多くの奇跡が起きていると聞いていた私は、入院してすぐ、名古屋正心館で、病気平癒や機能再生のための祈りである『スーパー・ベ ガ・ヒーリング』を受けることにしました。

病院から出られない私に代わり、名古屋正心館に行ってきてくれた妻は、病室に戻ってくると興奮した様子で祈願中の不思議な体験を話してくれました。
「お父さん、祈願を受けているときにね― 」

聞くと、私の指が治っていて、肌も健康なピンク色で、爪も普通に生えているビジョンがありありと降りてきたと言うのです。

「お父さんは、大丈夫だって、確信したの。この足は切断しなくても絶対治る!」
「そうだな、治るよ」

信仰があったからこそ、どんな状況でも、私たち夫婦は希望を失わずにいられたのです。

悪化していく病状

しかし、足の状況は日に日に悪化する一方。医師から悲観的な未来を聞かされると、「足は切らなくても絶対治る」と信じていた気持ちも揺らいでしまうこともしばしばでした。

(足を切ったら、早く家に帰れるんやな。このまま病院におるのもかなわんし……)

妻は面会に来てくれると、「お父さん、調子はどう?」と、明るく接してくれますが、大黒柱の私が病気になって心細いはずです。

これは後から知ったことですが、私の病状が悪化していくにつれ、妻にも相当つらく、怖い思いをさせていました。妻は面会を終えて家に帰る車で、一人涙を流していたそうです。自宅に着いても茫然自失(ぼうぜんじしつ)としてしまい、駐車場で1時間くらい泣いていたと聞きました。それでも、次の日、私に会うときには、また天真爛漫(てんしんらんまん)な笑顔を見せてくれていたのです。

(Y、心配かけて申し訳ない。しょうがない、もう足を切らないかんな……)

病気になって以来、ずっと空けている家はもちろん、仕事のことも心配です。足を切れば、また働けるかもしれないと思い、私はついに手術をする決意を固めました。

「俺はまちがっとった……」

その翌日のことです。朝目覚めると、身体がガタガタと震えてきました。
(一体、俺の身体に何が起きてるんだ― ) 

そう思ったあとから、40度近い高熱が襲ってきました。恐れていたことが起きたのです。壊死していた箇所にいた細菌が、骨のなかに入ってしまい、合併症になったのです。

腎臓は透析が必要な一歩手前。心筋梗塞(しんきんこうそく)も起きかねない状況で、目も弱くなっていてレーザー治療が必要だと言われました。さらに、自覚はなかったのですが痴呆(ちほう)の症状まで出ているそうなのです。

熱のため足の手術はしばらくできなくなってしまい、3日間、高熱で寝込みました。そのなかで私は、自然と今までの人生を振り返っていったのです。

楽しかった子供時代や学生時代、父親の工場を継(つ)いだときのこと、Yとの結婚、両親の介護、そして死別― 。
(あ……)

私は数年前に亡くなった実の父と母の介護を思い出してはっとしました。
(俺は、親の面倒をよくみたなあと思っていたけども、今思えば、充分じゃなかった)

私は高齢の両親にいつもついてまわるなど、確かに一生懸命介護をしていました。しかし、そのときの私の心の中身は、「してあげている」という気持ちが強く、感謝やいたわる思いが足りなかったのです。

そのことに気づくと、今、私の回復を信じ、献身的に支えてくれている妻の姿が心に浮かびました。
(Yは本当によくやってくれとる……)

妻が面会に来ると病室が明るくなります。2人でいると会話が尽きなくて、私は病気のことも忘れて心から笑えたのでした。妻の存在がずっと私を助けてくれていたのです。

それなのに私は、妻から与えられている愛が、「当たり前」だと思っていたことに気がつきました。思い返してみると、病気になるまでろくに感謝もしてこなかったのです。
(Yは全然自分のことは考えないで、俺のために……)

さらによく周りを見てみると、妻以外にも医師や看護師など、たくさんの方が私の病気を治そうと一生懸命やってくれていることに改めて気がつきました。また、幸福の科学の法友(※1)たちも、私の足の回復を毎日祈ってくれていると妻から聞いたことを思い出したのです。その中には、私の面識のない人までいました。

(俺は、多くの人に支えられていたんだ― )

「感謝は大切」と幸福の科学で学びながら、本当の意味で感謝ができていなかった自分を悔(く)いたのです。柄にもなく男泣きをしていると、妻が病室に入ってきました。
「俺は本当にまちがっとった……」

「お父さん、どうしたの? こんな病気になったけど、ここまでよくお仕事を頑張ってきたじゃないですか。大丈夫だよ」
そう言いながら、私の背中を優しくさすってくれる妻の顔をふと見ると、妻の目にも大粒の涙が溜(た)まっています。私たちはお互い肩を寄せ合ってぽろぽろと泣いたのでした。

↑ 入院中、誕生日を迎えたYさんに感謝をこめて花束のプレゼントをした。

(※1)同じ法を学び、学びについて語り合える仲間のこと。

「この指、まだ生きてますよ」

私は、発熱したことで4人部屋から個室に移り、それをきっかけに病院での信仰生活を整えました。まず御本尊(※2)を安置させていただき、毎日、幸福の科学の根本経典『仏説・正心法語』を読んで祈りました。

そして、大川総裁の法話のCDやDVDを流し続けたのです。法話「奇跡を感じよう」を拝聴していたときのこと―。

「今、みなさんは「自分は地獄の坩堝(るつぼ)で苦しんでいる」と思っているかもしれませんが、それは、実は、みなさんの魂(たましい)を鍛(きた)え、真なる金(きん)に変えようとする、大いなる慈悲(じひ)であることが多いのです。そういうことを知っておいてくださればと思います。そうすれば、みなさんには、「奇跡を感じる瞬間」が必ず訪(おと)ずれるでしょう―」

(そうだなあ。俺は病気になったから大切なことに気がついた。もう自分であれこれ判断しないで、治るかどうかは神仏にお任せしよう)
信仰生活を整えたことで、私の心はさらに穏(おだ)やかになっていったのです。

そんなある日のことです。皮膚科の検診で、足の包帯を外した拍子に左足の薬指が第二関節からぼろっと崩れ、そこから血がどばっと吹き出てきました。
 
「Aさん! この指はまだ生きてますよ!」
(えっ!?)

確かに「死んだ」はずの指が「生きて」いると言うのです。思えばあの日、熱が出ていなければとっくに足を切っていたはず。

神秘の力を実感するとともに、神仏が私の足を守ってくださったのだと思いました。

(※2)家庭用の祭壇

足の指が奇跡の”再生”

指が取れてから数日後。一時退院をした私は、妻と娘に付き添われて名古屋正心館に参拝し、『ガン細胞消滅祈願』を受けることにしました。歩くことができない私は、娘に車椅子を押されながら特別祈願室に入りました。

(主よ、御心ならば、私の足を治してください。必ず世の中に恩返しをします。ありがとうございました― )
静かに合掌(がっしょう)し、神仏に全て委(ゆだ)ねる気持ちで祈りました。

その翌日からです。再入院した私の足がみるみるうちに回復していったのです。驚くことに、第二関節から取れた薬指が、徐々に再生していきました。入院から約3カ月経つ頃には退院することができ、その後も定期的に受診して経過をみましたが、足の指は元の長さにまで戻って、皮膚もすっかりきれいになったのです。

そしてついに車椅子なしで生活できるまでに回復を果たしました。

当初、担当医からは「治るまで1年はかかる」と言われていたのに、わずか4カ月で足の指が再生したのです。私は「奇跡をいただいた」と、妻と一緒に、改めて神仏に感謝を捧げました。

「奇跡の実証者」として信仰の尊さを伝えたい

私は今、自分の足で自由に歩ける喜びをしみじみと感じています。今年の1月には、新しく生えた指に、爪のようなものができました。「爪は絶対に生えない」と言われていたので、医師も看護師もとても驚いていました。

信仰に出合っていなかったら、私は今ごろ車椅子で病院に通院する日々を送り、さらに悲惨な状況になっていたでしょう。神仏に助けていただいたことへの感謝の気持ちを少しでも表したくて、今は毎日、妻と一緒に幸福の科学の布教誌配布に取り組んでいます。
 
私は病気を経験してつかんだことがあります。それは、「目に見えない存在や心の力を『信じきる』ことで、人生は本当に好転していくのだ」ということです。

今までも信仰を持っていましたから、自分では「信じて」いたつもりでした。しかし、「信じきれて」はいなかったのかもしれません。どうにもならないような苦難に直面して、真剣に自分を見つめ、祈り、やっと「信じ切る」こととは何か分かってきたのです。

これからは、”奇跡の実証者”として、信仰の尊さを一人でも多くの方に伝えていきたいです。それが、私の使命です。

Aさんの足指の再生記録

指が約1㎝生えた(2017年3月21日撮影)

↑ 壊死した薬指が第二関節から崩れて約1カ月後の様子。指が約1cm生えてきている。

皮膚も綺麗になった(2018年3月4日撮影)

↑ 皮膚の白いところが、再生した箇所。

「信じる力」には絶大な力がある(妻・Yさん)

医師から、主人の足の切断を勧められたときは、恐ろしくて毎日泣いておりました。

でも、信仰があったからこそ、主人も私も「病気は治る」という希望を捨てずにこれたのです。神仏は絶対、そばで私たち一人ひとりを見守っていらっしゃいます。私はそれを、主人の病気を通して実体験させていただきました。

「『信じる力』には絶大な力があるんですよ」「信仰は大切ですよ」ということを、主人と一緒に多くの方に伝えていく使命を感じております。

書籍で学ぶ「信仰パワー」で病気を治そう

『奇跡のガン克服法』(大川隆法 著/幸福の科学出版)第2章 奇跡のヒーリングパワー/4 「信仰パワー」で病気を治そう/不可能が可能になる時代が到来している

不可能が可能になる時代が到来している

病院で治らなくなったら、あとは信仰パワーで治してください。「治してもよい人」であれば治せるのです。当会の教えを本当によく理解したら、治らないはずはないことが分かります。

さらに、最近は宇宙人パワーまで引いてきはじめていて、これまでの霊的なヒーリングを超え、「プレアデス・ヒーリング」や「スーパー・ベガ・ヒーリング」などの祈願も始まっています。不可能が可能になる時代が、すでに到来しているのです。

現代人は、なかなか信用できない話でしょうが、死んだイエスは復活したと言われていますし、オフェアリス(紀元前四千数百年ごろ、ギリシャの地に生まれた光の大指導霊。エジプトの神話ではオシリスと言われている)も、殺されてバラバラにされたあと、その死体をつなぎ合わせて復活させたことになっています。

現代の外科医が聞くと引っ繰り返るような話ですが、私の宇宙人リーディング(霊査)によると、ベガ星人が彼らを復活させたそうです。科学技術の進んだ星の技術を使えば、それは可能でもあろうと思います。

今、そういう宇宙人パワーも引いてきているところなので、これから、病気の治り方は、いっそう加速され、“新幹線”以上の力が出て、“リニア新幹線型”の治り方をするかもしれません。あとは、教団全体として、信仰空間を上手につくり出していくことが大事だと思います。そうすれば、もっともっと奇跡は起きるでしょう。

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この記事は、毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第230号より転載し、編集を加えたものです。

Kさん(男性)

40歳の若さで亡くなった妻

数年前、5人の子供と私を残して、妻のHが40歳の若さで、がんで亡くなりました。もし信仰がなかったら、私は悲しみに暮れ、仕事も手につかなかったでしょう。

しかし、今、私は心に希望を抱いて生きていくことができます。それは、「人生はこの世限りではない」ということを確信しているからです。そして、あの世から見守ってくれている妻の存在を感じているからです。

妻の死を通して、私が感じ、学んだことをお話ししてみたいと思います。

突然の余命宣告

「お父さん、私、がんだって・・・」

ある春の日のこと、妻が不安そうな声で会社に電話してきました。

「最近、胸のあたりが苦しい」と体調不良を訴えていた妻が、病院で受けた検査の結果でした。病名は「スキルス性胃がん」。進行が早く、治療が難しいと言われている胃がんだそうです。

「すぐにでも入院して、手術しましょう。胃の3分の2を切除すれば、治癒の可能性もあります」

医師の強い勧めにしたがって、手術することになりました。ところが、手術が終わって医師に呼ばれると—。

「残念ですが、奥さまのがんは予想以上に進行し、周辺の臓器もすでにがんに侵されていました。胃は全体を摘出しましたが、すべてのがん細胞を取り除くことは不可能でした。余命は・・・あと、1カ月から半年です」

あまりのショックに言葉も出ません。

医師の説明を聞きながら、「どうして今まで気づいてやれなかったのか」と申し訳なさに涙があふれるばかりでした。

「生命は永遠」と知ってはいても・・・

私たち夫婦は、幸福の科学の信者です。人間の本質は霊であり、死んで肉体が滅んでも、あの世に還って新たな生活が始まると学んでいます。

しかし、実際に妻の死が迫っていることを告げられると、私はすっかりうろたえてしまいました。

しっかりしなければ—。そう自分に言い聞かせて、妻の病室に向かいました。手術前、妻から「手術の結果は隠さずに伝えてほしい」と言われていたので、私は医師の説明を彼女に伝えました。

「気をしっかり持って頑張るんだぞ」と言いながら、自分が動転しています。

「お父さん、大丈夫よ。心配しないで。何があっても私は仏を信じているから。でも、あと4、5年は生きられるように頑張るからね」

妻は全く動じることなく、いつもの笑顔で、逆に私を励ましてくれました。病名を告げられてから、手術を受けるまでの間に、心の整理をし、覚悟を決めていたようです。

しかし、私にはとてもそのような不動心はありませんでした。

優しかった妻

妻は高校時代の同級生で、当時から付き合い始め、24歳の時に結婚しました。

私は運送会社の営業職で、朝から晩まで忙しく、結婚当初から家庭を顧みる余裕はありませんでした。

「もっと早く帰ってこれないの」と時々こぼしていた妻でしたが、幸福の科学の信仰に出会ってからは「お仕事、遅くまでおつかれさま」などと、ねぎらいの言葉をかけてくれるようになりました。

その変化に驚き、幸福の科学に興味を持った私は、妻の勧めで入信しました。そして、仕事で問題につきあたったときなどに、『常勝思考』『仕事と愛』などで説かれている成功論や仕事論を実践し、少しずつ教えの素晴らしさを実感していきました。

しかし、今振り返ると、当時の私は、仕事のため、成功のために仏法真理を学んでいたようなもので、確かな信仰を持っているとはいえない心境でした。

一方、妻はもっと深いところで、仏の慈悲を感じていたのでしょう。信仰に出会ったことで、本当に強くて優しい女性になりました。

家庭では私や子供たちにいつも笑顔で接してくれ、「ありがとう」という感謝の言葉を絶やしません。

子供の母親同士の人間関係の中でも、何かもめ事が起きれば仲裁に入り、人のことは絶対に悪く言わず、いろいろな人に頼りにされていたようです。伝道にも熱心で、友人・知人に仏法真理の本をお勧めする手紙をよく書いていました。

自宅療養のため5月に家に戻ってからも、妻の優しさは全く変わりませんでした。「お父さん、身体大切にしてね」と毎日笑顔で送り出してくれる妻に、私も笑顔で応えました。

しかし、私の心の中は、数カ月のうちに妻を失うことになるかもしれないという不安と悲しみでいっぱいだったのです。

父の日の手紙

自宅療養が始まって1カ月ほど経った6月中旬の父の日のことです。

「これ、お父さんへの感謝の気持ち」と、妻が手紙をくれました。

「Kさんへ。いつも家族のために、お仕事頑張ってくれてありがとうございます。(中略)Kさんの優しさ、励ましに支えられて、今の私があると思います。Kさん、家族、幸福の科学の仲間たち、数多くの方々の愛に気づかせてくれた、仏の慈悲に深く感謝いたします。この生命を正しく全うし、来世でもまたKさんとご縁がありますように・・・」

涙で、手紙の文字がにじみます。あふれてくる涙を拭いながら、何度も何度も読み返しました。私は、手紙に込められた妻の強い信仰心に、改めて目を覚まされた思いでした。

妻は、心から仏を信じ、その信仰心の輝きで私や子供たち、そして身近な人たちを照らしていました。 自分の身を案じるより、周りの人たちの愛に感謝し、そして何より仏に感謝して、許される限りの生命を全うしようとしている・・・。

私は、妻を失うことを悲しんでばかりで、自分のことしか考えていませんでした。悲しんでばかりいるのは自分勝手なことだと気づき、私も仏を信じ、信仰を拠り所として、妻をあたたかく支えていこうと思えたとき、悲しみでいっぱいだった心に、一条の光が差し込んできたような気がしました。

それからの私は、悲しみや絶望にさいなまれそうになる自分の心を、仏に祈り、仏法真理を学ぶことで励ましながら、自宅療養を続ける妻を心身ともに支えていきました。

再入院

療養生活を送りながら、病状は徐々に悪化していきました。8月下旬になると、腹部の痛みや倦怠感でつらそうな顔をしていることが多くなりました。

そして9月に入ってすぐ、妻は耐えられない痛みに自宅で倒れ、救急車で運ばれて再入院することになったのです。

「再入院になったら、もう家には戻れません」と医師から言われていました。いよいよ最期のときが近づいてきたことを私は覚悟しました。

私は仕事の都合をつけながら、毎日のように妻の病室に足を運びました。

「お父さん、いつも、ありがとう」

私が行くと、妻は必ずやせた頬に微笑みを浮かべて声をかけてくれます。

夜中の付き添いにいけば、「少しでも眠ってね」と忙しい私の身を心配してくれました。激しい痛みと倦怠感で、人の身を気遣えるような状態ではないはずなのに・・・。

私も、悲しみをこらえながら、できるだけ明くふるまい、「少しでも楽になるように」と願いながら、幸福の科学の書籍を読んで聞かせたりしていました。

やがて衰弱が進み、妻は話すこともままならなくなっていきました。

入院して2週間が過ぎたある日の午後。いったん、会社に戻った私に病院から電話がかかってきました。

「すぐ病院に来てください」

急いで子どもたちを連れて病院にかけつけました。

医師や看護師に囲まれ、酸素マスクをつけられた妻が、目をつむってベッドに横たわっていました。

私と子供たちが妻の手を握ると、妻は少し薄目をあけて微笑んでくれました。子供たちは、皆泣いています。

「今まで世話ばかりかけてごめんな」

私が泣きながら謝ると、妻は微笑んだままゆっくりと首を横に振りました。

そして、震える手で酸素マスクをはずし、何かを言おうとするのです。

「子供たちのことが心配なのか?」

そうたずねると、妻は、「そうではない」というように、ゆっくりと首を横に振りました。

「あ・り・が・と・う」

声にはなりませんが、そう唇が動きました。その言葉を最後に、妻は穏やかな笑顔を浮かべたまま、静かに息を引き取りました。私たちは、ただただ泣くばかりでした。

妻からのメッセージ

帰天式(幸福の科学式の葬儀)には、700人もの方が参列してくださいました。いつも穏やかで、誰に対しても優しく接する妻には、多くの友人がいたようです。

私は、信仰深く生きた妻の思いを伝えようと、妻の友人たちに幸福の科学の教えを紹介していきました。しかし、そうして前向きに努力しているつもりでも、一人になると何とも言えない寂しさや自責の念が襲ってきます。

亡くなってちょうど30日目、納骨を済ませた日の明け方、まだ暗いうちにふと目を覚ますと、空色の服を着て、にこにこと笑っている妻の姿が見えました。

「H、今、どこにいるんだ?」

「天国の手前で、あの世について勉強しているところよ」

いつもの優しい笑顔で答えてくれました。

死後まもない霊は、霊界の入り口であの世について勉強してから、それぞれの心境にふさわしい世界に還ると、仏法真理では説かれています。

「H、やっぱりあの世は、本当にあるんだな」

「あるよ。絶対にあるよ」

「じゃあ、あと40年くらいたって、俺も無事、この世での人生を終えて、あの世に還ったときは、お前迎えに来てくれよな。そして、来世、生まれ変わるときには、また一緒になってくれよな」

「うん。約束よ」

そう言った妻の姿がすーっと消えていき、はっと気がつくと朝になっていました。

その後も、四十九日を迎えるまでに、何人もの親戚や友人の方から「Hさんと夢で会いました」「Hさんの声が聞こえました」と言われました。

肉体は死んでも、現実に魂は生き続けている。人間は、この世限りの存在ではなく、この世とあの世を転生輪廻しながら、魂を磨いている存在なのだと実感しました。

自分の死を見つめながら、信仰のもと最期まで強く生きた妻の姿。そして、あの世からのメッセージ。これらの経験を通して、私は少しずつ穏やかな心を取り戻していくことができたのです。

限りない感謝を込めて

妻が亡くなってから、私は、10人の方を幸福の科学の信仰に導くことができました。その中には、「Hさんの姿を見ていて、素晴らしい宗教なんだろうと思っていました」と言って入信された妻の友人もいます。

実は、再入院することになる前の晩、妻と私はこんな話をしていました。

「私、お父さんと一緒に、たくさんの人を仏のもとにお連れしたい」

「そうだな、一緒に伝道しよう」

死を目前にしてなお、妻の伝道への情熱はいっそう強くなっていたのです。この世では、もう二人で縁ある方を伝道することはできませんが、私の伝道を、妻があの世から応援してくれていると感じます。

悲しい出来事ですが、しかし、もし、妻の病気と死がなかったならば、今でも私は、心から仏を信じる喜びを知らずにいたでしょう。すべてを支えてくださっている仏の慈悲に、心から感謝いたします。

そして愛するHへ。今世、僕と一緒になってくれてありがとう。あなたが教えてくれた深い信仰と愛を胸に、これからも多くの方に仏の教えを伝え続けていきます。

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この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第175号より転載し、編集を加えたものです。

Nさん(50代・女性)

Tが居た場所

豊かな自然が広がる埼玉県某市の閑静(かんせい)な住宅街に、我が家はあります。
そのリビングルームのテレビの前が、長男Tの“定位置”でした。
そこに布団を敷いて、重度の障害で寝たきりだった彼は、いつも横になっていました。

食事を摂るのも、オムツを換えるのも、眠るのも、いつもその場所。
夕食をすませた家族は、自然と彼の布団の周りに集まって、テレビを見ていました。

夏には自然のさわやかな風が吹き抜け、冬には、暖かいこたつとストーブの火。
我が家のリビングには、いつも彼を中心に、家族の笑い声と笑顔がありました。
けれど、今はもう、そこに彼の布団はありません。
5年前のお正月、長男は天国へと召されていったからです。

心臓手術

Tが生まれたのは1988年1月22日。
よく晴れた寒い朝でした。
結婚4年目でようやく授かった我が子に、私たち夫婦はとても喜びました。

しかし、その喜びもつかの間。
3カ月検診で“心雑音(しんざつおん)”が認められ、病院で検査を受けた結果、心臓内部の壁に先天的に穴が開いている「心房心室中隔欠損(しんぼうしんしつちゅうかくけっそん)」と診断されたのです。

すぐに入院するように言われ、荷物を取りに家に戻った主人と私は、二人で大声をあげて泣いてしまいました。

その年の6月、Tは心臓の手術をするために、他の病院へ転院しました。
手術は、8時間にもおよぶ大手術となりました。
そして、24時間後に麻酔から醒(さ)めた彼は、心停止を起こしてしまったのです。

医師や看護師たちが、あわただしく動き始めました。
電気ショック、心臓マッサージ・・・。
奇跡的に心臓の鼓動は戻り、彼は何とかその幼い生命をつなぎとめることができたのです。

神様、どうか・・・

しかし、退院後もTは、ミルクを詰まらせて肺炎を起こすなどして入退院を繰り返し、クリスマスもお正月も、1歳の誕生日も、病院で過ごしました。
それでも、だんだん食事も摂れるようになり、4月には退院。
6月には、長女が生まれました。

その3週間後。
彼の呼吸状態が悪くなり、すぐに救急車を呼びました。
病院に着くと、彼はまたも心停止を起こし、意識を失ってしまったのです。
主人と私は、本当は家族も入室できない集中治療室に入れてほしいと頼み込み、医師たちが懸命に心臓マッサージを施すかたわらで、必死に祈りました。

「私の命をこの子にあげてもいい。だから神様、どうか、この子の命をお助けください!」

主人はそう祈った、と話してくれました。

講演会での質問

心臓は動き始めましたが、昏睡状態(こんすいじょうたい)は続き、Tは病院の集中治療室で眠り続けました。
ちょうどそのころ、幸福の科学大川隆法総裁の講演会が埼玉県・大宮市で開催されました。

私は、すでに幸福の科学の会員となっていた主人に誘われて、初めて大川隆法総裁の講演会に参加することにしたのです。

「どうして何の罪もない幼い彼が、こんな試練に遭わなければならないのだろうか・・・。主人が信じている大川総裁なら、その答えを教えてくださるかもしれない」

そんな期待がありました。
そして、講演会の質疑応答で、主人はたくさんのなかから当てていただき、なんと、直接、大川総裁に質問することができたのです。

「先天的に障害がある子供を持った場合の、親としての心構えをお教えください」

大川総裁の答えは、力強いものでした。

「親としても重荷を負うことは事実でしょう。けれども、人は皆、あの世で人生の計画を立てて生まれてきます。そして、その人に背負えない重荷は計画してきません。また、障害を抱えての人生は、通常の人生の数百年・数千年分にも匹敵するほど尊い魂修行になります。今世、大きなハンディを持って生きた人ほど、来世で大きく伸びていきます。それだけ魂が輝くのです。どうか、愚痴の人生、他人の同情を受けるだけの人生で終わらせることなく、ハンディに負けずに、明るく建設的な生き方ができるよう励ましてあげてください」

私は、愛と確信に満ちた大川総裁の言葉に圧倒されました。
ただ、大川総裁の答えの本当の意味を理解するまでには、まだ、しばらくの時間が必要だったのです。

やっと目が開いたけれど・・・

病院で、約10日間にわたって眠り続けた、長男の目が開きました。
けれど、以前の彼とは別人のような目でした。

入院前は、1歳半の標準よりは小さいながら、お座りもでき、手を出して「抱っこ」をせがんだり、大きな澄んだ目をキョロキョロさせて、いろんな“芸”も見せてくれていました。

「あのTちゃんは、いったい、どこへいっちゃったの・・・?」

戸惑う私に、医師は言いました。

「脳に重い障害が残り、これ以上良くなることはありません。もう何も治療することはないので、一般病棟に移ります」

私には、その意味がよく分かりませんでした。
というより、このときの私には、まだ受け入れることができなかったのだと思います。

彼がもう二度と自分の足で歩くことができないこと、可愛らしい小さな手にスプーンを持って大好きないちごのケーキを食べることもできないこと、そして、もう二度と、愛くるしい笑顔で笑うこともないことを—。

ボーッとしたままバスに乗って帰宅し、長女をみてくれていた母に、医師の言葉を伝えていると、急にポロポロと涙がこぼれました。

心臓の手術をしたときには、「体が弱くても、勉強でがんばれば大丈夫よね」と、母と励まし合い、彼の将来に夢を抱いていました。

やるせない思いで、いっぱいになりました。

人生は一冊の問題集

Tの入院中、私はベッドの横で、幸福の科学の書籍を10冊読み、入会願書を提出して、会員となりました。
※当時は、経典を10冊以上読み、願書を提出する「入会願書制度」があり、合格は約4割であった。

書籍のなかの、「人生は一冊の問題集」という言葉が、私の胸に深く響きました。
人間は幾度も転生輪廻を繰り返していて、毎回、違う人生を自ら計画し、自分なりの問題集を選んで生まれてくる。その問題を自分の力で解くことが魂の向上につながる—。
そのようなことが書かれていました。

「これも、私の人生の問題集? Tも、自分で人生を計画してきたのだろうか・・・。だとしたら、問題から逃げずに、前向きに彼を育てていくことが、大宮の講演会で大川総裁が言われたことの意味なのかしら・・・」

笑顔も消えて

約5カ月間の入院ののち、長男が退院したのは、すでに秋風が吹くころでした。
ミルクも飲めない鼻には、経管(けいかん)栄養のためのチューブが挿入され、
あんなによく笑っていた顔からは、すっかり笑顔が消えていました。

そして、週1回のリハビリと内科の診察を受けるため、手足の動かない彼をベビーカーに乗せ、1歳にもならない長女を背中におぶって、病院通いが始まったのです。

長女はとても活発な子で、8カ月で歩き始め、「オムツ持ってきて」と言うと、彼の分まで持ってきてくれました。
微笑ましい長女の姿を見るにつけ、五体満足で健康であることがいかにありがたいことかと、あらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

通園施設での経験

そんなある日、我が家の近くに肢体不自由児を受け入れてくれる通園施設があることを知り、主人と下見に行きました。

その施設で、最初に言われたことは、「お母さん、ふつうの2歳児が体験することを、Tくんにもさせてあげていますか?」ということでした。
言われてみれば、自宅と病院との往復だけで精一杯で、彼を遊ばせることなど考える余裕すらなかったのです。
ここでは、先生方が、子供たちを抱きかかえてブランコに乗せるなど、全身にさまざまな刺激を与えてくれます。

それがとても心地良いらしく、彼の顔に、少しずつ笑顔が戻ってきたのです。
はじめは週1回だけの通園でしたが、4月には、正式に入園することになりました。
本来ならば嬉しいはずの入園式の最中、急に悲しみがこみあげてきました。

「なぜ私はここにいるの? ここは障害を持つ子の施設。幼稚園じゃない!」

けれども、この日私は、自分が「障害児の母になった」という現実に、初めて正面から向き合い、そして、受け入れることができたのだと思います。
自分に与えられた「人生の問題集」から逃げない。
そして、何があっても、自分の手で、前向きにTを育てていく—。
そう心に誓ったのです。

通園施設に通い始めてから、何とか口から食べられるようにと、根気強くリハビリを続けました。
そのかいあって、彼が4歳になるころには、ペースト状にすれば何でも食べられるようになりました。

鼻のチューブも外すことができ、好きなものを食べると、嬉しそうに笑顔を見せるようになったのです。

長男の障害は、施設に通う子供たちのなかでも最も重度でしたが、食べるのが苦痛で泣きながら食べている子や、思うように飲み込めない子も多いなか、彼が食べることを楽しみにしてくれるようになったことは、私にとっても、大きな救いとなりました。

たとえ障害があっても

1991年から95年まで、年2回、東京ドームで、5万人が集う大川隆法総裁の講演会が開催されていました。
私は、Tに大川隆法総裁のお話を聞かせてあげたい一心で、東京ドームでの講演会のすべてに彼を連れて参加しました。

当時は、「障害児は家に隠しておくもの」という暗黙の認識がありました。
外に出すと、多くの人から興味本位の視線が浴びせられます。
それは、耐え難いものでした。Tにとってもきっと同じだったでしょう。

けれども私は、あの埼玉の講演会で大川隆法総裁が言われた、「障害を持っていても明るく建設的に生きる」ということに少しでもつながるようにと、可能な限り、彼を外に連れ出しました。

通園施設でも、運動会、遠足、芋掘(いもほ)り、お遊戯会、お泊り会・・・。
ほとんどすべての行事に参加しました。
もちろん、車椅子での参加でしたが、光や高い音には敏感に反応していたTは、とびきりの笑顔で喜びを表現してくれたのです。

戦争のような日々

通園施設を卒園したTは、養護学校に通い始めました。
そして、彼が養護学校の1年生(小学校1年生)のときに、次男が生まれると、Tの介護と家事・育児で、私の忙しさはさらに加速していきました。

三度の食事にも気を遣います。
Tの食事はすべてハンドミキサーにかけて、ていねいに裏ごしし、スプーンで一さじ一さじ口に運んであげます。

少しでも粒が残っていると、のどに詰まらせたり、気管に入って肺炎を起こしてしまうので、細心の注意が必要です。

オムツ交換は、1日に、7~8回。
失敗すると、下着からズボン、寝具まで総とっかえです。
何回も洗濯機を回さねばなりません。

また、Tが眠ると、ほとんど毎晩のように、夜中に痰(たん)がからんでゼコゼコと苦しみ始めるため、私はすぐに起き出して、痰を吸引しなくてはなりません。

放っておいたら痰を詰まらせ、窒息しかねないのでこちらも必死です。
そのため、私はいつも寝不足でした。

やがて妹や弟たちも成長し、塾に通うようになると、養護学校の往復や塾の送り迎えで、車での走行距離は、計算すると1日約100キロメートルにもなっていました。

飴(あめ)をなめ、歌を歌いながら眠気と戦う日々—。
毎日が必死でした。
落ち込んでいる暇さえありません。

「一番大変なのはTちゃんなんだから・・・」

不自由な体に宿りながら、懸命に生きる長男。
そんな彼を思えばこそ、重度障害児は施設に預ける人も多いなか、私は「Tを自宅で育てる」という信念を貫き通したのです。

ともに励まし合う仲間たち

「Tちゃんは、天使と話しているんだね。きっと、あの世とこの世を自由に行き来できるんだね」

時々、天井のほうを向いてニコニコ笑っている彼を見て、主人が言いました。
幸福の科学では、「脳に障害があって、感じたことや思ったことを体で表現できなくても、魂は健全で、考える力や感じる力、意志を持っている」と説かれています。

きっと彼も、私たちが見えないものを見、感じられないものを感じていたにちがいありません。
また、「体が不自由なのは、この世での数十年の間だけ。あの世に還ったら、どんな障害も元に戻る」という教えには、本当に心癒されました。

通園施設や養護学校で知り合ったお母さん方とは、定期的に会い、励まし合っていました。

「○○ちゃんが入院した」「○○ちゃんが亡くなった」—。

悲しい知らせが舞い込むたびに、障害を持つ子たちは、本当に毎日が死と隣り合わせなのだと思い知らされます。
まだ子供たちが小さいころから、ずっと苦楽をともにしてきたお母さんたち。

「障害も、私たちの『人生の問題集』なのよ。解けない問題は来ないんだって。だから自分のことも、子供のことも、“かわいそう”って、思わないで、がんばっていこうね」

折にふれ、私は信仰によってつかんだ光を、お母さん方にお話ししました。

天使の笑顔

中学・高校と、新設の養護学校に通ったTは、卒業後、昼間の数時間だけ、自宅近くの施設で過ごすことになりました。
体が大きくなると、抱えるのも一苦労。

Tが大好きなお風呂も、私一人では無理なので、男性のヘルパーさんに入浴のサポートをお願いしました。

18歳のころ、Tは福祉を紹介するテレビ番組で、障害者のモデルに“抜擢(ばってき)”されました。

ヘルパーさんがTを入浴させるシーンを、自宅で撮影したときのこと。
彼は終始、笑顔でカメラに収まり、撮影もスムーズに終了。
スタッフの方々を玄関まで見送り、ふと、リビングの彼を見ると—。
ぐったりとして、眠りこけていました。

「Tちゃん、サービス精神旺盛だからカメラが回っている間中、笑顔をふりまいて疲れちゃったんだね。いつも、感謝や喜びの気持ちを笑顔で表わしてくれているんだね」

彼の天使のような笑顔は、神様からの最大のご褒美でした。

その日は突然に

やがて、Tも19歳になりました。
相変わらず、食事を詰まらせたり、痰がひっかかったりするので、気を抜くことはできません。

それでも、幼いころのように入退院を繰り返すこともなくなり、このまま、無事、成人式を迎えられると思っていました。

けれども、その日は突然やってきたのです。
2007年12月16日。
夕食後、お風呂から出た彼の息が、とても苦しそうです。

「救急車呼んで!」

病院に着くと、すぐに人工呼吸器がつけられました。

「肺気胸(はいききょう)です。健常児なら、さほど心配はいりませんが・・・。こういう障害を持つお子さんにとっては、厳しい状態です。覚悟しておいてください」

そう医師に告げられ、私は、誰もいない薄暗い病院の廊下の椅子に崩れ落ち、独りで泣きながら祈りました。

静かに迎えた最期のとき

その後、麻酔で眠っていたTの容態は安定しているように見えました。
けれども、年が明けて2008年1月2日のお昼すぎ。
彼は病室で、静かに息を引き取りました。
あと、ほんの少しで20歳でした。

もう大人の年齢ですが、身長は約140センチメートル。
長年の寝たきり生活で体は湾曲し、床ずれの跡が痛々しく残っていました。
生後半年で受けた心臓手術後の、心臓マッサージのせいで肋骨がずれてしまい、手術の傷跡まで痛々しくずれています。
20年にわたる、闘いの跡でした。

「Tちゃん、よくがんばったね・・・」
彼の顔は、とても安らかでした。

家に戻ってきた亡骸(なきがら)に、私たちは成人式に着せる予定だったスーツを着せて、紫色のネクタイをしてあげました。

主人は、「あの世」に還ったTが、すぐに仏法真理(ぶっぽうしんり)を学べるようにと、大川隆法総裁の法話CDをたくさん棺に納めました。

帰天式

Tの帰天式は、幸福の科学の支部精舎で行われ、300名を超える方々が参列してくださいました。

「Tくん。あなたは、今、肉体という衣を脱ぎ捨て、魂となってあの世へと旅立ちます。19歳と11カ月の今世の命でした。障害を持つ体で、さぞ大変だったことでしょう。でも、今、あなたは自由自在の霊となって、大空へ羽ばたいていきます。障害があっても笑顔で生き切ったTくん。皆様も、Tくんが遺してくれた宝物を大切にして、素晴らしい人生を生き切ってください」

支部長の法話は、参列していた養護学校の先生方やヘルパーのみなさん、そして、ずっと支え合ってきたお母さん方の心にも、深く深く沁みわたっていきました。

「ありがとう」と伝えたい

帰天式のあと、Tのお骨が自宅に戻ってきた夜のことです。
主人は彼といっしょに、やすむことになりました。
私は彼と長年を過ごしたリビングで眠りにつきました。
翌朝、起き出してきた主人が、静かに話し出しました。

「Tと話をしたよ」
「え・・・?」
「夢のなかに出てきた。あのときのスーツを着て、元気に歩いてた。『お母さんを起こしに行ったけど、お母さんは寝ていたから、お父さんのところに来たよ』って」
「Tちゃん、何て・・・?」
「『どうして、20年で逝っちゃったの?』ってきいたら、『20年というのは、僕の人生の計画だった』って・・・。
そして、『主エル・カンターレに、よくがんばったねって、頭をなでてもらったよ』って」
「・・・」
「『そっちの世界で自由な体になって、Tは何がしたい?』ってきいたら、『お母さんにありがとうって言いに行きたい』って・・・」
そこまで話して、主人は声を詰まらせました。そして、2人で涙が枯れるまで泣きました。

20年間、Tも家族も、ただただ無我夢中で生きてきました。
でも、彼は、自分自身で計画した人生を立派に全うしたのです。

たとえ障害があっても、Tは、決して「かわいそうな子」ではなかった。
多くの人に勇気を与えるために、自ら厳しい人生を選び、しっかりと、その使命を果たしたのです。

「お父さん、これでよかったんだよね? 大川隆法総裁があの講演会で教えてくださったとおりに、私たち、がんばれたよね?」

そう問う私に、主人もうなずいてくれました。
T、お母さんは、あなたのお母さんになれて、本当に幸せでした。
ほんとうにありがとう。
たくさんの笑顔をありがとう。
お母さんも、力強く、自分の使命を果たしていきます。

胸を張って天国に還って、もう一度あなたに会えるその日まで—。

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ネット入会のご案内

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第152号より転載し、編集を加えたものです。

Iさん(50代・女性)

原因不明の主婦湿疹

「Iさん、なかなか治らないですねぇ。お薬を替えてみましょうか」

(ああ、この病院もだめか・・・)

43歳の時に、私は原因不明の主婦湿疹に見舞われました。どの病院でどんな薬を試しても、症状はひどくなるばかり。そのかゆさといったら、睡眠薬なしでは夜も眠れないほどでした。

医師に原因をたずねても、「洗剤かぶれかなぁ。人一倍、肌が弱いんですね」「ホルモンのバランスが崩れているんでしょうかねぇ」など、はっきりせず、私は不安を募らせていきました。

※主婦湿疹(しゅふしっしん):水や洗剤によって、肌を保護する皮脂膜が奪われるために起きるとされる手湿疹。水仕事をする主婦などに多い。

指紋が消えた!

両手に包帯を巻いての生活。その包帯の交換に、毎日病院へ通いました。簡単な家事をするのも一苦労です。

(私がこんなに苦労しているのに、家族は誰も手伝ってくれない—)

心はいつもピリピリしていました。

「あっ! 指紋がない!」

ある日、自分の手を見ると、指先までびっしりとできた水疱(すいほう)で、指紋が消えています。

「年を取って死ぬまで、こんな生活が続くのかな・・・」

とうとう精神科へ

そんな状態が2~3カ月続いたでしょうか。ピークの時には、首や足指の間にも、ただれや水疱ができました。症状があまりにひどかったために、病院のポスターなどに使う資料用にと、写真を撮られたほどです。人と会うのも嫌になり、私は家に引きこもるようになりました。今思えば、ウツ病の一歩手前だったと思います。

病院でも、薬で治らないなら心因性かもしれないと、ついに精神科へ回されました。「ビタミン剤」と言われて処方された薬は、気になって医学書で調べてみたところ、精神安定剤でした。しかも、飲みつづけると止められなくなる可能性があると分かり、怖くなって捨ててしまいました。

(なんでこんな不幸ばっかり。一体、何のために生きてるんだろう・・・)

霧がサーッと晴れて

そんなどん底の時でした。ふと、友人に誘われていた「幸福の科学」のことを思い出したのです。「もしかしたら、何か希望が見つかるかもしれない。確か今日、講演会があるって・・・」。そう、わらにもすがる思いで、私は一人、重い足を引きずって、会場へ向かったのです。湿疹が出はじめてから半年後のことでした。

「『自分がかわいそうだ』と、いくら思いつづけても、自分自身の道が開けることもなければ、それによって他の人が幸福になることもないのです」「仏を信ずることによって、病も消えていきます。仏は全能です。それを信ずるならば、みなさんの病もまた、消えていくしかないのです」(『愛、無限』より)

はじめて聴く大川隆法総裁の講演は、確信に満ちた力強いものでした。その時感じた、湖に立ちこめていた霧がサーッと晴れていくような感覚は、今でもはっきりと覚えています。

なぜだか涙があふれ、私は講演が終わっても、しばらく立ち上がることができませんでした。帰り道では足取りも軽く、一人でいても笑顔が止まりません。講演を境に、私は心に明るさを取り戻していったのです。

湿疹の原因が分かった!

私は書店で幸福の科学の書籍を購入して、「仏法真理」を学びはじめました。

人間は永遠の生命を持ち、この世とあの世を転生輪廻(てんしょうりんね)している存在であること。この世は修行の場であり、苦難困難は魂を磨く砥石であること—。

「この苦しみにも意味があるんだ」。そう思うと、乗り越こえる勇気と希望が湧いてきました。

この教えをもっと学んでみたいと思った私は、その年、幸福の科学に入会したのです。

書籍を読み進めるなかで驚いたのは、病気の原因のほとんどは、自分自身の「心」にあるということです。

私は、どういう時に手がかゆくなるのか、自分の心の動きを観察してみました。

すると、家族に対し、とくに夫と娘に対してイライラしたり、カーッと怒った時に、スイッチが入るようにかゆくなることを発見したのです。「これが、湿疹の原因だ」と確信しました。

私が間違ってた

原因を確信した私は、まず、冷え切っていた夫との関係を見直してみました。

結婚当初から、よく外でお酒を飲んでは、深夜に帰宅していた夫。子供が生まれてからも、それは変わらず、仕事の付き合いがあるとは知りつつも、「これじゃ母子家庭だわ」と、私は不満をため込んでいたのです。

しかし、夫との会話を静かにふり返っていくと、昔、妻である私がお酒を飲まないので、家では飲みづらいと言っていたことを思い出しました。

(あの人は、私に気を遣ってくれていたんだ・・・)

結婚25年目の感謝

夫の優しさに気づいた私は、自分も夫のために何かしたいと思うようになりました。そんな時、『太陽の法』という書籍に、このような言葉を見つけたのです。

「与える愛とは、まず、『感謝する』ということからはじまってゆくのです」(『太陽の法』より)

「そういえば、お父さんに感謝したことなんて、ほとんどなかったな・・・」

私は、夫に毎日、感謝の言葉をかけることにしました。

夏の朝、「暑いなか大変ですね。行ってらっしゃい」と送り出す。夜は、「今日は暑かったですね。お疲れさまでした」と、ねぎらいの一言を添えて迎える。私なりのささやかな愛の実践です。

気づけば、夜、早く帰ってくる夫の姿がありました。

私、ひどい母親だった

次に、当時高校生だった娘の問題です。

私が親戚の店の手伝いで、毎晩10時、11時まで家を空けていた時期があり、その頃から、娘が荒れはじめたのです。

夜遅くまで帰ってこない、無断外泊をする。そんな娘に、私は顔を合わせると小言を言っていました。それが母親の愛だと思っていたからです。

しかし、仏法真理に照らしてみると、「娘のため」と言いつつ、実は、人様に良い母親と思われたいがため、そして、小言を言うことで自分のイライラを晴らしていただけだったことに気づいたのです。

「私ほど良い母親はいないと思っていたのに、とんでもない母親だった・・・」

娘はよく言っていました。「お母さんは、私よりお兄ちゃんがかわいいんでしょ」と。私の独りよがりの偽物の愛が、どれほど娘を苦しめていたことでしょう。

それから私は、言葉を口に出す前に、必ず自分の心を点検することにしました。リビングと娘の部屋の間にキッチンがあったので、娘を叱りに行く時は、一度、冷蔵庫の前で立ち止まり、本当に娘のためを思っているかと、自分に問いかけます。

冷蔵庫より先に行く回数は、目に見えて減っていきました。

湿疹が教えてくれたもの

そうした努力をはじめて半年ほどたった頃。あれほど苦しんだ湿疹が、いつの間にか、きれいに消えてなくなっていたのです。

湿疹は、私の心の間違いを教えてくれるバロメーターだったのだと思います。

湿疹になったからこそ、私は、自分にとって本当に大切なもの、「家族への愛」に気づくことができました。

つらかった日々も、ありがたい、貴重な体験であったと、今、心から思えるのです。

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