Archive for the ‘病気・事故’ Category

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第148号より転載し、編集を加えたものです。

Fさん(60代・男性)

進行ガンの宣告

「こんなになるまで放っておく人、見たことないよ」

数年前、私は医師から膀胱(ぼうこう)ガンの宣告を受けました。1年ほど前から血尿のようなものが出ていたのですが、痛みもないので放っておいたのです。

それがある時、職場でトイレに行くと、ワインのような色の尿が・・・。さすがに青くなり、病院に駆け込んだのです。

ガンはピンポン玉大のものが一つ、ビー玉大のものが二つあり、膀胱の三分の一の表面にニキビ状のガンがびっしりできているとのことでした。

「すぐにでも入院して、膀胱全摘以外にないですね。人工膀胱になります。生活は不便になりますが・・・」

突然、ガンを宣告され、心の整理がつかない私を前に、医師は淡々と今後の処置について説明していきます。

(ちょっと待ってよ・・・。まいったな)

ガンになった原因

「ガンというものは、ほとんどの場合、精神的なストレス、悩みや苦しみが原因になっています。(中略)心が病むと肉体も病んでくるのです」(『繁栄の法』より)

すでに幸福の科学の教えを学んでいた私には、ガンになった原因が、自分の心のあり方にあることは分かりました。しかし簡単に受け入れられるものではありません。

日頃の自分の姿が浮かびました。友人や知人に幸福の科学をおすすめしながら、「心を調和して生きることが、大事なんだよ」と諭している自分・・・。

(人には分かった風なことを言って、自分の心のコントロールはどうなんだ)

病院を出て家路につきながら、そんなことを考えていましたが、ふとびっくりしたことがありました。進行ガンの宣告を受けたのに、昔からあれほどあった「死の恐怖」がありません。

(何かおかしいぞ。信仰を持っているからといって、体裁を気にして恐怖心を隠してるんじゃ・・・)

家族にガン宣言

その日の夕飯後、妻と当時大学生だった息子と娘に、病気のことをわざと明るく報告しました。

「はい! 今から発表します。私はガンになりました」

と、見渡せば、顔を曇らせる妻、黙っている子供たち。

家族の前でも本心を取り繕(つくろ)っている自分が、なんだか滑稽(こっけい)でもありました。

(まずいぞ。自分の心の闇や嘘を赤裸々にしなくちゃいけないんじゃないか・・・)

それから間もなく、私は幸福の科学の本やCDをたくさん持って入院しました。そして、検査や人工膀胱のレクチャーを受ける合間に、病室のベッドで、真理の書を開きながら心を見つめていったのです。

心の毒の発見

心の作用でガン細胞をつくってしまったのですから、よほど心に毒を溜め込んでいったに違いありません。

当時、私は郵便局の局長を務めていたのですが、心が揺れるシーンとなると、やはり職場のことばかりが出てきます。

書類の処理が要領を得ない部下へのイライラ。何回も同じことを言わせる部下を見下すような思い。お客様へのサービス精神に欠ける部下にカッとなりそうになってしまうこと。

(なんでできない!)( バカヤロー、何度言ったら分かるんだっ)

面と向かっては言わないまでも、心の中では罵声を浴びせていました。

それは明らかに、部下を生かす思いというよりも、仏法真理で戒められている「瞋(じん)=怒り」の心です。

さらには、そういった自分の思い通りにならない出来事があると、何十分でも何時間でも、その事に不満を持って思い続ける癖があることも発見しました。それは、心の中でずっとグチを言い続けている「 癡(ち)=愚か」の心です。

私は要領もよく、人からは社交的と言われていましたが、外見からは分からない心の中は、人を責める思いや言葉が渦巻いていたのです。

心の中の謝罪

入院前、職場で病気のことを報告すると、「ゆっくりしてきてください」と、どことなくホッとしているように見えた局員たち。

(皆、こんな寛容じゃない上司の俺と仕事してつらかったのかな、本当に申し訳ないことをしてきたのかもしれない)。私は部下の一人一人に、心の中で詫びていきました。

次に私は、自分のそんな傲慢さがどこから来ているのか、人生を振り返っていきました。

私は父が会社経営をしながら議員をしている家の6男として生まれました。小学生になると子供のいない親戚に養子にいき、養父母からそれは大切に育てられました。

そして大学卒業後は、知人の紹介で郵便局に就職。29歳の時、縁あって大手航空会社の客室アテンダントだった妻と結婚し、家も新築。35歳で特定郵便局の局長に抜擢。その郵便局は、全国有数の商工団地にあったため、毎年抜群の営業成績をあげることができ、日頃の付き合いから政財界とのパイプも太くなっていきました。まさに順風満帆の人生。

私は、知らず知らずのうちに「慢心(まんしん)」していたのです。

多くの人に生かされて

日頃、部下に業務の手本を見せる時も、「どうだ」とばかりに接客したり、窓口業務についたり・・・。私の慢心ぶりが部下の鼻につかないはずはありません。

「『自分はよくやったな』とだけ思っている人は、忘れているものが多いのではないでしょうか。確かに努力はしたかもしれない。しかし、『その努力を反映する場を与えてくださった人びとがいた』ということを忘れてはならないのです」(『人生の王道を語る』より)

幼い頃よりお世話になった人の顔を思い出していくと、限りがありませんでした。大量の人に連綿と世話になりながら、今の自分がある。そのことを思うと、長い間忘れていた心を思い出しました。 それは「謙虚さ」です。

20代の頃の、素直で初々しかった自分が、まぶしく思い出されました。

「死」の覚悟

その合間にも、他の臓器への転移を調べる検査が何度となく行われ、私は「死」を覚悟し、腹をくくりました。

兄たちが原爆や病気で亡くなっていることも影響してか、物心ついたころから「死」の恐怖を抱いていた私でした。

しかし信仰を持ってからは、あの世の実在を確信。医師からガンを宣告された時、死の恐怖がなかった自分に驚きましたが、信仰によって護られていたのだと気づいたのです。

「これまでのことはすべて、自分で蒔いた種だ。仏に全託し、たとえどんな結果になっても受け入れよう」

今の自分にできることを

幸福の科学支部では、支部長が「病気平癒祈願(びょうきへいゆきがん)」をしてくださっていると聞きました。

同じ信仰を持つ仲間がいて、いつも私のために祈ってくださっていること。順境の時も逆境の時も見守ってくださっている仏がおられること。

(信仰とはなんと心強きものか)。病気になって初めて、そんなしみじみとした思いがこみ上げます。

「オレは今まで人から与えられてばかりで、『奪う愛』の塊だった。だからこれからの人生は無私なる愛を実践して生きていこう」

死ぬのは怖くありませんでしたが、この世の生を閉じる時、周りの人にもっと優しくしてあげればよかった、と悔いが残るのはつらいと思いました。病身であっても、今の自分にできることからやっていこう、と心に誓ったのです。

「与える愛」の実践

病室は4人部屋だったのですが、病室特有の暗い雰囲気に負けじと、自分から話しかけたり、家族に頼んでトランプや花札、知恵の輪を持ってきてもらい、患者同士で遊んだりしました。

また、高齢の方とは、一緒に風呂に入るようにして、体を支えてあげたり、下着の脱ぎ着を手伝ってあげたりしました。そのうち、別の病棟から患者さんが遊びにくるようになり、退院祝い会をやったりと、明るいサロンのような雰囲気になっていきました。

吹き出てきた「感謝」

そんな日々の中で、びっくりするようなことが起きました。

時折、腹から胸に向かって、まるで壊れた水道管から水が吹き出るように感謝が湧き上がってくるのです。

それは病院の廊下を歩いている時や食事の時など、前後の脈絡もなく突然やってきました。そして決まって、「いい人生だったなあ」という言葉が口をついて出、涙がぼろぼろと止まらないのです。

一度その場面に居合わせた妻も、「なにも明日死ぬわけじゃないんだから」と困惑するぐらいでした。

それは自分の人生も、死も、すべて受け入れることができた瞬間だったと思います。そして何かが吹っ切れた気がしました。自分の心の根っこに純粋な感謝があり、私はホッとしていました。

(迷ったらここに戻ればいい――)

「信仰」の奇跡が臨んで

そして手術が迫ったある日。医師がふとこんなことを言い出したのです。

「こんな状態の人にやったことないけど、膀胱を取らずに、悪いところを内視鏡で焼いてみますか?」

膀胱にびっしりできたガンを切除するのは至難のこととは思いましたが、私は先生にお任せすることにしました。ガンが深いため、手術中に膀胱に穴が空く恐れがあるとも言われました。

ところが実際には、手術は成功したのです。

「こんなにひどくなってるのに、ガンが表面にしかない。尿管にも広がってない」と医師も驚きを隠せない様子です。「Fさんがお持ちの信仰のお陰もあるんじゃないでしょうか・・・」と不思議そうな顔をしていました。

心の財産

ガン発覚から2カ月後、私は職場に復帰しました。

「分からんことがあったら、俺に遠慮せずいつでも聞きにこいよ」

入院前、あんなに皆に伝えてあったのに、聞きに来た部下は誰もいません。以前の私なら心が動揺したでしょう。しかしその時は、私が不在でも滞りなく業務をこなしていた部下たちの成長を祝福し、皆に感謝することができたのです。

手術から数年が経ち、ガンの定期検診の必要もないほどに、健康を取り戻すことができました。退職した今は、地元の会社の役員や、幸福の科学のボランティアをしながら、充実の日々を送っています。

年を重ねるほど、心は、凝り固まった「有(う)」の状態になりがちです。

人間そう簡単に変われるものではありませんが、私にとってこの数年間は、「 地獄の方向を向きがちな心の針を、天国的な方向に振り向ける」ことを常に自らに課し、実践し続けてきた歳月でありました。

まだまだ未熟ですが、習慣づけた心の操縦法は、私の心の財産です。

「新しい生命(いのち)」をいただいて

ガンを宣告された時、もし無信仰の私だったら、死の恐怖におびえながら、医学書を買いに走って、油汗を流しながら読み、何としても肉体生命を延ばす方向で悶々と苦悩したでしょう。

病気がきっかけで、自らの間違った思いに気づくことができました。教えによって、心の傾向にまで踏みこんだ反省ができ、心身の健康を取り戻せたことは、まさに「信仰の奇跡」であったと思います。

支えてくださった幸福の科学の皆さんと、新しい生命(いのち)をくださった仏に、心からの感謝を捧げ、これからの報恩の人生を歩んでまいりたいと思います。

関連記事

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

ふとしたときに気づいた右胸の違和感。内科を受診した私に告げられた診断結果は、ステージ4の末期の乳がんでした。
> 続きを読む

体の障害(中途失明)を乗り越える【体験談】

体の障害(中途失明)を乗り越える【体験談】

高校生の頃に視力を失ってしまったSさん。それまでの夢がついえるも、盲学校での新しい生活をスタートさせました。幸福の科学との不思議な縁に支えられながら、前向きな努力によって明るい人生を開いていったSさんの軌跡をお伝えします。
> 続きを読む

酒乱の義父が穏やかに—つらかった同居生活もHappyに!【幸福の科学 信仰体験】

同居してすぐは知らなかった義父の酒癖
「やっぱり俺は、親の面倒みなくちゃなんないから、一緒に実家に住んで」
結婚直前になって、主人が切りだしました。
それまで、親とは別居だという話だったのです。正直に言うと、心のなかでは抵抗を感じました。・・・
> 続きを読む

関連リンク

幸福の科学 信仰体験 一覧
ネット入会のご案内

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第129号より転載し、編集を加えたものです。

アルコール依存症

「Tくん・・・君、アル中やで」

今から10年以上前のことです。ある日、職場の同僚がしんみりとした口調で忠告してくれました。

そう言われたものの、「別に朝からカップ酒をあおっているわけでもないし、そんなはずないだろう」と思っていました。

しかし、夜な夜なスナックに行ってはボトル2本を空けていた自分。間もなく「アルコール依存症」の疑いで入院し、結婚したばかりの妻にも離婚されてしまいました。

夜、真っ暗な病院のベッドの上で、僕はひとり後悔の涙を流しました。

ひと夏の恋

僕が酒におぼれはじめたのは、専門学校1年のときの失恋がきっかけでした。

相手は、夏休みに大阪から兵庫に帰郷した際、スーパーのバイト先で出会った可愛らしい女性。僕と同い年で、向こうから声をかけてきたのが始まりです。明るくて積極的な子でした。

楽しかった夏休みはあっという間に過ぎ、僕が大阪の専門学校に戻るとき、彼女は「また手紙を書くね」と言いました。

それから何度か手紙のやりとりをしましたが、2カ月が過ぎたころ、急にパッタリと連絡が途絶えてしまいました。

気をもんだ僕は、直接、彼女の職場まで行ってみました。

「—やあ、久しぶりやな」

僕が声をかけると、彼女は一瞬びっくりして、目をそらしました。

「ちょっと・・・今日は帰らなあかんねん」

すると、突然そこに知らない男が近づいてきて、いきなり僕に見せつけるようにラブシーン・・・。あまりのショックに声も出ませんでした。

彼女は僕が大阪に戻ってすぐ、別の男をつくっていたのです。それからというもの、失恋がすっかりトラウマになってしまいました。「もう彼女なんか作らん」と、恋愛から遠ざかって勉強に専念しようと自分に言い聞かせました。

医療系の専門学校で、3年間がんばって国家試験に通れば、臨床検査技師の資格がとれるはずでした。

学校の女の子から交際を申し込まれたことも何度かありますが、いつも僕は「ハハハ・・・」と笑ってごまかすばかり。新しく好きな女の子もできました。でも、傷つくのが怖くて、友達以上の関係になるのを意識的に避けていました。

「もう誰とも付き合わない」と言い聞かせる自分と、異性を求めてしまう自分。二つの心が激しく葛藤していました。

夕方、下宿で独りっきりになると、気持ちが沈んできます。ふらりと近くの酒屋に足が向き、いちばん安いハイニッカ2級とセブンスター1箱を買うのでした。三畳一間の部屋にこもると、ヘッドホンでローリング・ストーンズを聴きながら、タバコを吸っては黙々と酒を飲みます。おつまみなどありません。

女の子のことを忘れたくて飲んでいるのに、酔っ払ってくると、決まって好きな子のことを悶々と考えていました。

次第に酒量が増え、勉強に身が入らなくなってしまった僕は、2年生を2回留年し、退学になってしまいました。

「また仕事やめたんか!」

失意の帰郷—。しばらくは何もする気が起きず、ボーッと1カ月過ごしました。

「そろそろ、なんか仕事でも見つけないと・・・。とりあえず車の免許とろう」

自分から教習所に通い、職安にも行きました。そうして見つけた初めての仕事は、養殖魚のエサに添加するビタミン剤を製造する会社でした。

初めての社会人生活。けれども、毎日働いていても、これを一生続けていくのかと思うとピンきません。人間関係も表面的で、仕事を離れたお付き合いもありません。結局、1年でやめてしまいました。

僕はすぐに職安で別の仕事を見つけました。今度はスーツの縫製会社です。僕は内職先に車で材料を配送する係で、前より人間関係もよく、毎日の仕事にとりたてて不満はありませんでした。

でも、あちこち車を走らせながら思うことは、「理数系が得意だったし、なにか化学方面の仕事をやってみたい。もう一度勉強しなおそうか」ということです。

1年後、大阪の専門学校を受験し、合格。仕事を辞め、下宿先まで決めました。

ところが、実際に下宿先に行くと、ガチャガチャとやかましく、とても勉強に集中できそうな環境ではありません。急に強い不安がこみあげました。

「これじゃ昔の二の舞になる・・・もうあんなの二度といやや!」

意欲が萎えてしまった僕は、入学を取り消し、実家に帰ってきてしまいました。

それからは、ありとあらゆる仕事を転々としました。工場の流れ作業、スーパーの裏方、営業職、病院の事務、水質分析、浄化槽の清掃汲み取り・・・僕もまだ若かったですし、好景気の時代でしたので、行けば雇ってもらえます。でも、どこも長続きせず、半年続けばいいほうでした。

「また仕事やめたんか!」と、いつも親にうるさく怒られます。しかたなく次の仕事につきますが、どこに行っても腰を落ち着ける気にはなれません。

「収入さえ得られれば、仕事なんてなんでもいい。いつか物書きにでもなりたい」。そうはいっても、実際にコツコツ作品を書きためるわけでもありません。

相変わらず酒ばかり飲んで、たまに気が向けば文学賞に応募するといった具合でした。専門学校を退学になってからの毎日は、いきあたりばったりで過ぎていきました。

新婚生活もつかの間・・・

「おまえもそろそろ身を固めたらどうや」

相変わらず、すぐに仕事をやめてしまう僕を両親は心配し、20代後半になると何度もお見合いさせました。

ちょうど30歳のときのお見合いは、いつになく両親の気合が入っていました。僕が相手の女性と向かい合っている隣のテーブルでは、両親同士がもう結婚式の話をしているのです。

(この子と結婚することになるんかな)

僕としても別に嫌いなタイプではなかったし、お見合いからわずか3カ月後には結婚式を挙げていました。そして、ほどなく妻は妊娠。新しい生活は順調にスタートしたかに見えました。

ところが—。出産のために里帰りした妻は、そのまま二度と帰ってきませんでした。

「あの子が『離婚したい』と言っています」

妻の母親から言われました。わずか1年の結婚生活でした。

離婚の原因は、やはり酒でした。

妊娠中、僕は妻に優しい言葉も何ひとつかけず、いつもほったらかしで飲みにいきました。スナックでは、毎回ボトル2本は空けました。酔うと、とにかくだらしなくて、いつも意識がなくなるまで酔いつぶれ、朝帰りもしばしばでした。

そして妻が里帰り中のある日、僕は急に体も気持ちもしんどくなり、二日酔いのまま退職届を提出・・・。身重の妻が今後の生活に強い不安を抱いたとしても無理はありません。

「えらいことやってしまった・・・」

間もなくアルコール依存症の疑いで検査入院することになった僕は、ベッドで後悔の涙を流しましたが、いまさら手遅れでした。

姿の見えない不気味な声

幸い依存症のほうはまだ軽度だったようで、入院後は禁断症状が出ることもなく、酒からは自然に離れていきました。ところが、アルコールよりもっと深刻な問題が起きました。退院を境に、突然、変な声が聞こえはじめたのです。

姿は見えませんが、部屋の窓の外のあたりで女の人が3~4人集まり、離婚の噂話とか下品なことを話しているのです。

(やめてくれ! なんなんや、いったい)

テレビを観ても、車のラジオをつけても、道で人とすれ違っても、コンビニの店員も客も、みんな僕を指さして悪口を言っているような気がしました。

幻聴は目が覚めると同時に始まり、1日中ひっきりなしに続きます。頭が変になりそうでした。

病院で神経薬をもらっても、全然効きません。でも、薬を飲むと、やたらとお腹が空いて、すぐに眠くなってしまいます。体重はどんどん増え、動くのもめんどうになり、疲れやすくなりました。

もうまともに働くこともできません。正社員になるのをあきらめ、3時間程度のバイトを探しますが、どこに行っても聞こえてくる幻聴に耐えられず、勤めてはすぐに辞め・・・をくり返しました。

こんな僕の状態を、両親はまったく理解できません。

「おまえ、なぜ働かんのか。普通にしゃべって、メシ食って、車も乗れるやないか」

(こんなん、どう言ったって理解できへんやろ。話してもムダや・・・)

説明する気力もなく、両親に責められても、ただ貝のように黙っていました。

どん底で出会った言葉

2年、3年とたつうち、ほとんど仕事をすることもできなくなり、家にこもって臥せるようになりました。朝起きてから眠るまで聞こえる声。みんなが僕の悪口を言っているようで、恐怖心で誰も信じられなくなりました。自殺をしかけたことも何度かあります。

「もう限界や。どうしたらええんや・・・」

幻聴に対抗するすべもわからず、気力も体力も尽きかけていました。

ある日、僕はフトンにあお向けになり、大川隆法総裁の本を読んでいました。何年か前から、ときどき本屋で買っていたのです。

ボーッとした頭で『太陽の法』のページをめくっていると、

—我を信じ、集い来よ—

という言葉が目に飛び込んできました。

ハッとしました。

まるで今の自分に向かって呼びかけられているように感じられたからです。

何も信じられず怯えていた自分の心に、「こちらに来なさい」という言葉が優しく響き、わけもなく涙が流れてきました。

(この方の言葉を信じたい。この言葉を信じて、素直についていってみよう)

僕は思いきって、本の巻末に載っていた幸福の科学の電話にかけてみました。そこで地域の支部を教えていただきました。3日後に支部を訪ね、入会をしました。

僕のために泣いてくれた

僕は毎日、すがるような思いで、幸福の科学の経文『仏説・正心法語』や『祈願文』を読みました。

しばらくして、自宅の近くに幸福の科学の拠点が開設されました。僕が拠点を訪ねると、黙々と仕事をしていた女性が手を休め、快く迎えてくださいました。拠点長のKさんです。

はじめ僕はあまりうまくしゃべれませんでした。Kさんも戸惑ったと思います。

「僕、実はアル中で、なんか変な声が聞こえて・・・ほとんど寝たきりなんです」

自分の状態を少しずつ話していくうち、Kさんは涙を流されました。僕のために泣いてくださる方がいる・・・そのことに胸が熱くなりました。僕も泣いてしまいました。

「Tさん、これから、どんどん幸福になっていきましょうね」

「はい、よろしくお願いします」

拠点に行くと、Kさんはいつも懇切丁寧にアドバイスしてくださいました。

「少しずつでもいいですから、仏のお役に立てるようになりましょう」

「僕も何かお手伝いさせていただきます」

それから、週に1~2度、体調のいい日に、拠点で軽いボランティアをさせていただくようになりました。買い物を頼まれたり、布教誌の仕分けや拠点のスタンプを押したりしました。といっても、まだ寝たり起きたりの毎日でしたので、最初はほんの1時間お手伝いをしただけで疲れてしまい、その場で横にならせてもらったりしました。

家に帰ってきたら、お祈りをし、真理の書籍を読み、過去の反省をしました。

また、精舎に行き「両親に対する反省と感謝」研修なども受けました。両親や妹たちに迷惑をかけせたこと。妻に対して思いやりがなかったこと・・・。研修で教わったとおりに、人生を5年ごとに区切って振り返っていきました。

必死に取り組むうち、徐々に体調も上向きになり、拠点に行ける回数も、ボランティアの時間も増えました。活動によって、僕の心に張りが生まれました。

幸福の科学の仲間に励まされ・・・

幸福の科学のみなさんは明るくいい人たちで、僕は拠点にいるときがいちばん楽しい時間でした。しかし、幻聴はやみません。

「拠点の人たちが自分の悪口言っているんやないか」という思いに執われてしかたないこともあります。

そんなときは自分に言い聞かせます。「いや、ほんまは違うんや。こんないい人たちが悪口言うはずないんや。大川先生も、他人は自分が思っているほど気にしていないものだと言われてる」。

アルコールを飲みすぎると悪霊に憑依されやすくなることも学びました。

苦しいときには『幸福への道標』という本が心の支えになりました。「自分も仏の子であり、ダイヤモンドのように輝く仏性が宿っているんだ。それを磨いていけばいいんだ」と、何度も何度も自分を励ましました。

「Tさん、3冊でも5冊でも、布教誌を地域の方にお届けしていきましょう」

Kさんと布教誌の配布も始めました。

日々、着実に心身の調子が回復しつつあるのを感じました。さらに、同じ拠点の方から「Tくん、これ聴きいな」と、大川隆法総裁の法話のテープを勧められました。

それまでは幻聴のせいでよく眠れなかったのですが、法話を寝る前に聴くと、気持ちも楽になって、すごくよく眠れるのです。ほとんど毎晩のように聴きました。

何かが耳から抜けた

数年前からは、食料品の行商をしている両親に「僕も仕事を手伝わせてください」とお願いしました。朝早く起きて市場に仕入れに行ったり、車に品物を積んで家を回ったりしはじめました。

しばらくして、幸福の科学に興味を持った妹が入信。半年後、両親も入信してくれました。家庭で信仰の話が自然と出てくるようになりました。

そして、就寝前に大川隆法総裁の法話テープを聴くようになってから2年あまりが過ぎたある日のこと。

いつものようにテープをかけて目をつぶっていると、コーラの栓を抜くみたいに、右の耳の穴から何かがスポーンと抜ける音がしました。その3日後に、左の耳からも抜けました。

その日を境に、長い間苦しんだ幻聴とも完全に訣別することができたのです。

幸福の科学でよかった

いまは拠点での活動を中心に、同じ信仰を持った仲間たちと充実した毎日を送っています。両親もあちこちの精舎を巡るようになりました。精舎から帰ってくると、いつも晴れやかな顔をしています。

先日、父がしみじみとつぶやきました。「うちは幸福の科学でよかったな」と。

僕も心からそう思います。幸福の科学は、人生の希望と、たくさんの人と支え合って生きる喜びを与えてくれました。

大川隆法総裁、そして父と母、妹、拠点のみなさん、僕を根気強く導いてくださり、ほんとうにありがとうございました。僕はまだまだこれからですが、今後の人生を本番と思って、いっそう前向きに生きてまいります。

関連記事

霊体質で悩んだ私がトップ営業マンに!【体験談】

霊体質で悩んだ私がトップ営業マンに!【体験談】

建設会社のベテラン営業マンとして活躍するOさんは、青年時代、繰り返し起きる霊現象に悩んでいました。そんなとき、大川隆法総裁の教えに出合い、人生が大きく変わっていきました―。
(Oさん/男性/月刊「幸福の科学」第361号より転載・編集)
> 続きを読む

悪霊の憑依【体験談】

もともと霊が視(み)える体質だったJさんは、離婚問題をきっかけに、心身ともに霊に苦しめられる状態に陥ってしまいました。お祓(はら)いをしてもラクになるのはその場限り。しかし、幸福の科学の仏法真理を学び、悪霊を呼び寄せていた「自分の心」を変えたことで、悪霊の影響から自由になることができたのです。
(Jさん/女性/月刊「幸福の科学」第225号より転載・編集)
> 続きを読む

酒乱の義父が穏やかに—つらかった同居生活もHappyに!【幸福の科学 信仰体験】

同居してすぐは知らなかった義父の酒癖
「やっぱり俺は、親の面倒みなくちゃなんないから、一緒に実家に住んで」
結婚直前になって、主人が切りだしました。
それまで、親とは別居だという話だったのです。正直に言うと、心のなかでは抵抗を感じました。・・・
> 続きを読む

関連リンク

幸福の科学 信仰体験 一覧
ネット入会のご案内

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第125号より転載し、編集を加えたものです。

見えることのない目

私は、生まれた時から目が見えません。

生まれつき目に障害があって、右目にわずかな光を感じるだけで、左目は何も見えません。

出産当日、私は予定より2週間も遅れて生まれてきました。泣き声をあげず、体温も低い状態でしたが、医師からは「特に問題はありません」と言われたそうです。

しかし、4カ月が過ぎた頃。同じ時期に生まれた赤ちゃんと一緒に検診を受けた時、母は私の様子がおかしいことに気づきました。

よその子が、まわりの様子を見て瞳をキョロキョロさせるのに比べて、私の視線があまりにも無反応であったからです。

総合病院を紹介されて検査を受けると、「網膜形成不全」「小眼球」と診断されました。

「胎児の時に、へその緒が首や身体に巻きついて、圧迫されていたのが原因かもしれません」

医師はそう説明しましたが、はっきりした原因は分からないようでした。

ただ、一つだけ明らかなことがありました。それは私の目が見えるようになる可能性はほとんどないということでした。

バイオリン

4歳ぐらいになると、私は自分の状況が少しずつ分かってきました。

「ねぇ、お母さん。私ってなんで見えないの?」

何度も同じような質問をする私。自分の障害について、だんだん気にするようになっていきました。

ある日、母が言いました。

「Aちゃん、音楽が好きだよね。バイオリンをやってみない?」

母に勧められて、バイオリンのレッスンを受け始めることに。自分で自由に音が出せることがうれしくて、私は夢中になりました。そのせいか、目に対する不満を口にすることも少なくなりました。

そして、小学校に入学する時—。

私の状況からすれば、当然、盲学校に入学するところでした。

「Aちゃんが、ふつうの小学校に通いたいのなら、応援するよ」

「うん。みんなと同じがいい」

母は教育委員会と交渉して、地元の小学校で学べるようにしてくれました。

私は、週に2回、小学校に通い、残りの日は自宅で訪問教育を受けることになったのです。

現実の壁

私は、視覚障害に加えて、生まれた時から股関節がはずれている病気(先天性股関節脱臼)でもありました。治療して治りましたが、その後遺症で足が弱く、運動も苦手だったのです。

バイオリンのレッスン中にも、痛みで立っているのがつらくなり、その場に座り込んでしまうことがありました。

バイオリンは立って弾く楽器であり、レッスン中は1時間近くも立っていなければなりません。

「こんなんじゃ、とても続けられない」

途中であきらめざるを得ませんでした。

小学校のほうも、週2回では授業についていくのが困難でした。

結局、5年生からは盲学校に通うことになりました。

「なんで、みんなと同じようにできないの! こんなの嫌だよ!」

私は泣きながら母に訴えました。

「Aちゃんが見えるようになるなら、すぐにでも、お母さんの目をあげてもいいのに・・・」

母のすすり泣く声が聞こえてきました。余計に悲しくなって、大泣きする私・・・。

やがて、父が言いました。

「A、目が見えなくても、耳は聞こえるじゃないか。みんなと話だってできるじゃないか。お父さん、Aにはできることがたくさんあると思う。それを一緒に探してみようよ」

いつもやさしい父—。

幼い頃、私が「水車ってなあに?」と尋ねると、何日もかけて水車の模型を作って説明してくれたこともありました。

両親の気持ちが伝わってきて、もう一度、がんばってみようと思いました。ほどなくして、私は自宅を出て、盲学校の寮に入ることになりました。

心に響く教え

盲学校は、環境も整っていて、思っていた以上に生活のしやすいところでした。そのおかげで勉強にも集中でき、順調に学年を重ねていきました。

中学2年生の時のことです。夜、宿題をしていると、ふと誰かに話しかけられたような気がしました。

(あれ、誰だろう? お母さん?)

不思議に思った私は、実家に帰った時、そのことを母に伝えました。すると、母は少し驚いた様子で言いました。

「ちょうど、その日、その時間ぐらいに、お母さん、お祈りをしていたの。その思いが、Aちゃんに届いたのかもしれないね」

母は、最近、幸福の科学入会したこと、そして『正心法語』という経典でお祈りをしていたことを教えてくれました。

私が、幸福の科学について興味を示すと、母は「仏陀再誕」という講演会のカセットテープを貸してくれました。さっそく、私は自分の部屋で聴いてみました。

「この世において、さまざまなる出会いが、あなた方を待っているであろう。しかし、真理との出会いは最も尊いものであり、人間として生まれて現成の仏陀の声を聴くは、奇蹟以外の何ものでもないことを知らねばならない」(『悟りの極致とは何か』第3章所収)

一言一言が、直接心に響いてくるようで、激しく心を揺さぶられました。

(・・・仏陀って、お釈迦様のこと? 再誕って、また生まれてきているということだよね?)

びっくりしましたが、その確信に満ちた力強い言葉に、「ほんとうに違いない」と思いました。胸のあたりが熱くなりました。こんなことは生まれて初めてのことでした。

語り明かした夜

「お母さん、これってすごい!」

テープを聴き終わると、私は興奮して真っ先に母のところに行きました。

次から次へと質問をあびせる私。

母は、人間が永遠の生命を持っていることや、魂修行のために何度も生まれ変わっていることなど、幸福の科学で学んでいることを教えてくれました。

「Aちゃん、“人生は一冊の問題集”なんだって。今回のAちゃんの人生は目が見えないという厳しい状況だけど・・・でも、それはAちゃんの魂が、大きく成長するために、仏が与えてくれた問題集だと思う」

母の言葉にはっとしました。

「・・・私、何不自由なく学校に通っている人たちと比べて、ずっと不公平だと思ってた。なんで私ばっかり、こんな苦労しないといけないのって・・・。でも、そうじゃないんだね。・・・よかった」

涙があふれました。

すっかり夜がふけていましたが、私はうれしくて眠る気になれず、母と一晩中語り合いました。

進学

高校生になってから、私も幸福の科学入会しました。テープを聴いたり、母に仏法真理の書籍を読んでもらったりして少しずつ学びを深めていきました。

ある日、母が「ヘレン・ケラーの霊言」を読んでくれました。

「私はこちらの世界へ来て、目も見えますし、耳も聞こえます。口も利けます。本来、人間は自由です。ただ、三次元のなかにおいて、あのような厳しい環境に置かれたということです。ですから、私が世の人々に言いたいのは、『環境をよくするために奔走するよりも、環境のなかでみずからを輝かす、そのような努力をしていただきたい』ということです」(『大川隆法霊言全集第14巻』第4章所収)

私よりも重いハンディを背負いながら、多くの人々に生きる勇気と希望を与えたヘレン・ケラー。

その言葉は、まるで自分の苦しみをすべて分かってくれているようで、心に深くしみわたりました。

「私も輝いてみたい。私にできることっていったい何だろう?」

高校2年の3学期—。私は自分の願いを両親に伝えました。

「私、進学したい。そして福祉について学んでみたい」

同級生は、鍼灸や按摩などの資格を取って就職する人がほとんどでしたが、私は「もっと勉強したい」という気持ちが強くあったのです。両親は賛成してくれました。

しかし、現実の受験は厳しいものでした。現役では受からず、1年間、受験指導を行っている盲学校で勉強。翌年は何とか地元の短大に合格することができました。

「私でも、やればできるんだ!」。苦労はしましたが、私にとって受験の経験は小さな自信になりました。

手足のしびれ

短大の寮に入って、学生生活を送るには、ある程度、一人で何でもできる必要がありました。

今の自分では無理かもしれないと感じた私は、いったん短大を休学して、生活訓練や歩行訓練を受けることにしました。

訓練のおかげで、視覚障害というハンディを負いながらも、何とかふつうの学生と一緒に学ぶことができるようになりました。

しかし、無理を重ねたせいかもしれません。その頃から、時々、体調を崩すことがありました。そのうえ、以前から感じていた右の手足のしびれがひどくなっていきました。

「いったい、どうしたんだろう・・・」。病院で検査をすると、軽い脳性麻痺であることが分かりました。

がんばろうとはするものの、思い通りにならない現実・・・。

その後、短大は卒業できましたが、体調が思わしくなく、進路を決めることができませんでした。これからどうすればいいのだろうと、不安な気持ちでいっぱいになりました。

ボランティア

「Aちゃん、一緒に支部に行こうよ」

短大卒業後、特にやることもなく、家のなかにこもりがちの私を心配して、母は幸福の科学支部に誘ってくれました。

支部に行くと、みなさん、まるで家族のように親しくしてくれました。

法話のビデオを拝聴したり、お茶を飲みながら歓談したり—みなさんと触れ合ううちに暗い気持ちが晴れていくのを感じました。

私は、頻繁に支部に顔を出すようになりました。

「私も何か手伝いましょうか? 電話番ぐらいならできますので」

「それは助かります。ありがとう」

支部で簡単なボランティアをするようになった私。

地域の方々にお配りする布教誌にチラシを挟んだりもしました。

そんな私の姿を見ていた知り合いの方が話しかけてきました。

「Aちゃんも、一緒に配らない?」

「ちゃんとできるかな・・・」。思いがけない誘いにびっくりしましたが、母からも勧められて、参加してみることに。

最初は緊張しましたが、母や支部の方に助けられながら、一軒一軒心を込めてポスティングをすると、とてもさわやかな気持ちになりました。

(どんな人が読んでくれるかな? 喜んでくれるといいなあ)。想像するのが楽しくて、私は、布教誌の配布が大好きになりました。

私、愛されてる

支部でのボランティアや、布教誌の配布を通して、私は自分が明るく前向きになっていくのを感じました。

「人のために何かをすることって、とても気持ちがいいなあ」

幸福の科学で、「与える愛」の大切さについて学んでいましたが、そのことが少し実感できたような気がしました。

そんなある日、母と一緒に総本山・正心館に参拝しました。

「障害に負けず、人生を輝かせたい」

そんな願いを込めて、私は「起死回生の秘法」という特別な祈願を受けることにしたのです。

祈願室に足を一歩踏み入れると、何とも言えないあたたかい光に包まれるのを感じました。

目の前に大きな仏がおられるような気がしました。

—がんばるんだよ。

そう、仏がやさしく声をかけてくれた気がして、涙が止まりませんでした。

終了後、いつになく心がとても軽くなっているのを感じました。

「仏は、いつどんな時も見守ってくださっているんだ・・・。私って、仏からも、家族からも、幸福の科学のみなさんからも、ほんとうにたくさん愛されてる。いまの自分が生きていられるのは、その愛のおかげだ。それなのに、進路が決まらなくて、なんで自分ばっかりこんなに苦労しないといけないのって嘆いてた。もう、そんな思いを捨てよう。自分の人生としっかり向き合ってがんばってみよう」

感謝の気持ちに満たされながら、私は心に決めました。

希望への一歩

幸福の科学支部精舎のおかげで、私はやる気を取り戻していきました。その結果、体調もよくなり、地元の視覚障害者協会でボランティアを始めることができました。

そこでの私の仕事は、様々な原稿を読みあげること。視覚障害者向けに音声を録音する仕事です。

「Aさんの声は、とてもはっきりしていて、聞きやすいですね」

ある時、広報担当の責任者の方が話しかけてきました。

「—私は、中途失明してから、30年近くこの仕事をしてきたけど、後を継いでくれそうな人が出てきてよかったよ」

「ありがとうございます。私、がんばります」

期待されて、うれしくなりました。

その後、内容や編集も任されるようになり、私はますますやりがいを感じるようになりました。

さらに、思いがけないことが起きました。ある大学から、「非常勤講師をしてくれないか」と依頼されたのです。

内容は、福祉を学んでいる学生に点字を教えるというもの。

(私にできるかな・・・でも、こんなチャンスはめったにない。やってみよう)

私は、年に7回、学生たちに点字の読み書きなど、具体的な実践について教えるようになりました。自分が苦労して学んだことや体験したことを、人のために生かせることに喜びを感じています。

自分の人生と向き合い、努力することの喜び

私は、目が見えない現実に何度も押し潰されそうになりました。

しかし、仏法真理との出会いが、自分の人生と向き合い、努力することの喜びを教えてくれたのです。

いま私は、与えられた環境のなかで、自分にできることを精一杯やっていきたいと思っています。

暗く手探り状態だった私の人生に、希望の灯をともしてくれた仏に心から感謝します。

関連記事

体の障害(中途失明)を乗り越える【体験談】

体の障害(中途失明)を乗り越える【体験談】

高校生の頃に視力を失ってしまったSさん。それまでの夢がついえるも、盲学校での新しい生活をスタートさせました。幸福の科学との不思議な縁に支えられながら、前向きな努力によって明るい人生を開いていったSさんの軌跡をお伝えします。
> 続きを読む

ダウン症という体で一生懸命に生きたあなたと【体験談】

ダウン症という体で一生懸命に生きたあなたと【体験談】

ダウン症の障害があり、20歳で亡くなったわが子。その生涯は、優しさとは何か、人として大切なことは何かを教えてくれました。ある女性の体験とともに、人生のヒントをお届けします。
> 続きを読む

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

ふとしたときに気づいた右胸の違和感。内科を受診した私に告げられた診断結果は、ステージ4の末期の乳がんでした。
> 続きを読む

関連リンク

幸福の科学 信仰体験 一覧
ネット入会のご案内

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第124号より転載し、編集を加えたものです。

主人を肝臓ガンで亡くした当時、私は、4人の子どもたちを抱え、将来の不安でいっぱいでした。しかし、映画「黄金の法」をきっかけに、仏法真理と出会い、人生のほんとうの意味を知ることができたのです。(40代・女性)

出会い

23歳の時のことです。当時、私は仕事帰りに、都内にあるクッキングスクールに通っていました。いつものようにエレベーターに乗っていると、「ここの生徒さん?がんばってね」と、スーツ姿の男性が話しかけてきました。

「なんか、あたたかい感じの人だな」

Kさんと初めて会った時、私は何とも言えない親しみを感じました。彼は、その学校を経営している会社の社員で、同じビルで働いていました。ビル内で会うとニコニコ話しかけてくる彼。その後、デートに誘われ、お付き合いをするようになりました。

15歳年上の彼のことは、「Kさん」と、先輩みたいに呼んでいました。話題豊富な上に、包み込むような優しさを持っていて、私はだんだんと心ひかれていきました。
付き合い始めてしばらくした頃、彼が言いました。

「Yちゃん、実はね、自分はC型肝炎という肝臓の病気なんだ」

病名は耳にしたことがありましたが、詳しいことは知りませんでした。彼は、子どもの頃の輸血が原因でC型肝炎になったこと、肝硬変や肝臓ガンになる可能性があることを教えてくれました。

「輸血のせいなんて、ひどいじゃない」
「仕方ないよ。人より身体には気をつけないといけないけど、おかげで酒もタバコもやめられた」

明るく淡々としている彼を見て、心の広い人なんだなと思いました。やがて、彼からプロポーズ。年齢差や病気のことから、私の家族は賛成しかねていましたが、私は彼と結婚する道を選びました

肝臓ガン

結婚後、私たちは4人の子宝に恵まれました。しかも、全員男の子。心配に思われた主人の身体も、特に問題を起こすこともなく、ふつうに会社勤めを続けていました。

しかし、ある夏のこと。体調不良を感じた主人が、念のために大学病院で検査入院をすると、ガンが発覚してしまったのです。肝臓ガン—最も恐れていたことが現実となり、私は目の前が真っ暗になりました。

翌年2月、主人は実家に帰省している際に吐血をしました。静脈瘤が破裂したのです。現地の病院にそのまま入院し、余命1年と告げられました。悲嘆にくれる私に対し、主人のほうは少しも弱気になりませんでした。

「一番下の子が、20歳になるまでは、絶対に生きるからな」

そう言って、東京に戻ってから他の病院で違う治療を試みたりしました。痩せて別人のように頬がこけ、腹水のせいでお腹が張っているにも関わらず、「疲れてないか? ずっと看てなくていいから、休みなよ」などと、いつも私のことを気づかってくれました。

6月、主人は家族に見守られながら息を引き取りました。4人の子どもたち一人ひとりに声をかけ、「子どもたちのことを頼んだよ」と私に言い残して……。

観てもらいたい映画

主人の死後しばらくは、葬式などで忙しく、落ち込んでいる暇がありませんでした。しかし、やがて落ち着いてくると、まるで心に大きな穴があいたようになり、何も手につかなくなりました。

「あぁ、もうこんな時間……夕飯の準備しなくちゃ……」

ふと気がつくと、一人でボーっとしている私。主人の面影を感じるものを目にしては、泣いてばかりいました。このままじゃいけないと思い、私は、休職していた保険関係の仕事を再開することにしました。また、結婚前に鍼灸師の資格を取っていたことから、近くの鍼灸院でお手伝いを始めました。

そんなある日、「子ども会のプリントを持ってきました」と、近所に住んでいるMさんが訪ねてきました。Mさんのお子さんと、我が家の三男は同級生。何かと相談相手になってくれていました。そんなMさんから、映画に誘われました。

「実はね、Yさんに、ぜひ観てもらいたい映画があるの」

彼女が誘ってくれたのは、「黄金の法」という映画でした。映画なんて久しぶりです。気晴らしになるかと思い、私は、彼女と一緒に行く約束をしました。

止まらない涙

映画の数日前、Mさんから「急用ができて一緒に行けなくなった」という連絡がありました。申し訳ないと詫びるMさん。どうしようか迷いましたが、チケットは私の手元にあります。もったいないし、せっかくだから行ってみようかなと、私は映画館に足を運びました。

始まってしばらくすると、スクリーンいっぱいに神秘的な宇宙の映像が展開され、その美しさに圧倒されました。

「すごい!いったい、何が始まるの」

まるで子どものように、期待で胸が高鳴りました。主人公の少年少女がタイムマシンに乗って、釈迦、イエス、モーセといった過去の偉人たちの時代へと旅立つ—。手に汗握るストーリーに釘付けになるとともに、登場人物たちのセリフが心に残りました。

特に、現代の日本に仏陀が生まれていること、人間は魂の成長のために何度も生まれ変わっていることに、心を激しく揺さぶられたのです。涙がとめどなく流れました。こんなに何かに感動したことは生まれて初めてのことでした。

大川総裁のお話

その後、Mさんから電話がありました。

「映画、どうだった?」
「それがね、感動して泣きっぱなしだったの。自分でも驚いた」
「えー、ほんと!よかった!今度、大川隆法総裁のお話が聴けるんだけど、Yさんも来てみない?」
「うん、行ってみる」

あんなすごい映画をつくっている幸福の科学って、いったいどんなところなんだろう。この目で見てみたい—。そんな思いで、幸福の科学の支部に行ってみると、私が思い描いていた宗教のイメージとは違い、とても明るい雰囲気で驚きました。

「人間は霊的な存在であり、そちらのほうが本質です。人間は、長年、霊として生活しているのであり、それがほんとうの生活なのです。……新しい人間関係や物質環境の変化のなかで生きてみて、新しい経験を得て、また霊界に還ってきます」(『神秘の法』第2章「憑依の原理」より)

やさしい語り口でありながら、なぜか心に響いてくるお話でした。

「霊界って、ほんとにあるんだ。そこに還れば、主人にもまた会うことができるのかな」

その後、Mさんとは以前にも増して、家族ぐるみでお付き合いするようになりました。

「長男の就職のこととか、気になることも多くて……」

そう打ち明けると、Mさんのご主人が、長男に会って気軽に相談に乗ってくれたりしました。夫のいない私にとって、Mさん一家は頼りになる心強い存在でした。

「こんなに何でも話せる人ができるなんて。法友(同じ法を学ぶ友人)ってすばらしいな」

感謝の気持ちでいっぱいでした。

思いがけない一言

幸福の科学で学び始めるようになると、信仰を持つことによって、心に安らぎが得られていくのを感じました。

しかし、末っ子のTが小学校4年生の時です。一緒に同級生の家に遊びに行くと、思いがけないことが起きました。Tが、同級生のお父さんにぴったりくっついて離れないのです。私の目には、まるで父親に甘えているように映りました。「やっぱり、さみしいんだ」と、複雑な気持ちになりました。

さらに、自宅で戦争の不幸を描いたアニメを一緒に観ていた時のこと。

「Tくん、この時代と違って、今は食べるものがいっぱいあって、幸せだよね」
「僕は幸せじゃないよ。だって、お父さんがいないんだよ」

思いがけない一言に、私は、ショックで言葉を失ってしまいました。

今でも両親がいる私に比べ、こんなに早く片親になってしまった子どもたち。幸福の科学で、「夫婦や親子の縁は、天上界で約束して生まれてくる」と学んでいましたが、Tのさみしそうな姿を見るにつけ、私たちの子どもとして生まれてきて本当によかったのだろうかと、自信が持てなくなりました。

家族の絆が心にしみて

「精舎でじっくり心を見つめると、人生についてのヒントが得られるよ」

法友のみなさんにそう勧められて、私は総本山・正心館で開催されていた「反省の指針・十箇条」を受けてみることにしました。研修の中で、自分の過去を振り返っていくと、ふと主人と交わした会話がよみがえってきました。

「不思議だけど、Yちゃんと結婚することは、決められているような気がする。こういうのって運命というのかな」
「うん。私も、そう思うよ」

それから、その言葉通りに結婚した私たち。主人と初めて会った時に、とても懐かしい気持ちになったことが思い起こされます。お互いに、目に見えない絆で結ばれていることを感じていたんだと、主人との縁の深さを感じて、胸が熱くなりました。

さらに、4人の子宝に恵まれたことへの感謝がこみあげてきました。私はもともと身体が弱い方で、中学生の頃から、点滴や鍼灸の治療を受けながら学校に通っていたぐらいです。初めての出産で、検査のために採血した時など、貧血で倒れてしまったこともありました。

「考えてみれば、あんなに身体の弱かった私が、4人も無事出産できたなんて、奇跡だわ。よっぽど、縁のある子たちに違いない。それに、あの子たちが生まれる前、すでに主人は病気だった。それを承知で、苦労するのを覚悟で、私たち夫婦のもとに生まれてきてくれたんだ……」

子どもたち一人ひとりの顔が思い浮かび、愛しくなりました。

「みんな、お父さんとお母さんを選んで生まれてきてくれてありがとう。お母さん、がんばるからね」

懐かしい声

また、支部で「霊人直伝メッセージ公案研修」を受けた時のことです。公案にそって、静かに自分の心を見つめていくと、主人の懐かしい声が心に響いてきました。

「自分はとても幸せだった。いつも見守っているから、がんばるんだよ。ほんとうにありがとう」

入院中はげっそり痩せていましたが、元通りのふっくらした笑顔が心に浮かんできました。「Kさんなのね? また会えてよかった—」涙がこぼれました。

それからというもの、私は、子どもたちに仏法真理の話をするようになりました。特に、ご本尊(家庭用の祭壇)を拝受してからは、いつも仏の優しいまなざしを感じて、自然に信仰の話ができるようになりました。
Tの前で、御本尊に向かって拝礼してみせる私。

「Tくん、さみしい思いをさせてごめんね。でもね、お母さんたちには、“魂の親”がいるから、ほんとうはさみしくなんかないんだよ」
「それにね、お父さんも、いつもあの世から見守ってくれているんだよ」
「えっ、ほんと!お父さん、いるんだ」

うれしそうなT。
いつしか、子どもたちも御本尊に手を合わせ、お祈りするようになりました。20歳になった長男も、弟たちの父親代わりをしてくれるようになりました。Mさんのご主人の経営する不動産会社に就職した長男は、高校に合格した三男に対して、「よくがんばったな。合格おめでとう」と言って、お祝いのプレゼントを買ってあげるなど、家族を支えてくれています。以前に比べ、わが家は明るい笑顔があふれるようになりました。

苦しみを癒したい

信仰のおかげで家庭も落ち着き、私は自宅で、以前から準備していた鍼灸の仕事を始めることができました。毎日、様々な患者さんが訪れますが、そのなかには心に悩みを抱えている方がたくさんいます。治療中、ある患者さんが言いました。

「主人をガンで亡くしてから、もう、あっちこっち痛くて。なんで、私ばっかりこんな辛い思いをするんだろうね」
「実は、私の主人もガンで亡くなったんですよ。でも、私、主人があの世で見守ってくれていることを信じているんです。そうすると、また会える日まで、がんばろうって気持ちになります。死は永遠の別れではないんですよ」

真理の話をすると、その方は涙を流しながら聞いてくれました。「以前の私のように、真理を必要としている人がたくさんいる。もっと伝えたい―」。悩み苦しむ患者さんたちを、少しでも癒すことができればいいな、と思って仕事に励んでいます。

信仰は、私の人生に大きな希望をもたらしてくれました。
主人を亡くし、子供どもたちの将来に不安を感じていた私が、一本の映画との出会いによって、人生のほんとうの意味を知り、幸福への道を歩み始めることができたのです。

幸福の科学の映画には、人生を変える力が秘められています。私がそうだったように、これからも、映画をきっかけとして、人生に希望を持てる方がたくさん出られることを心から祈っています。

関連記事

男性恐怖症を克服―恋愛・結婚―【体験談】

男性恐怖症を克服―恋愛・結婚―【体験談】

両親の不仲を見て育ち、男性に不信感を持っていたというAさん。社会人になり、男性上司にも葛藤を持ってしまいます。しかし、幸福の科学で学んだことを生かしてみると、異性への恐怖心が解け、ついに優しいご主人と結婚することができました。
> 続きを読む

天国から地獄まで「あの世」を実体験、臨死体験で死ぬのが怖くなくなった【幸福の科学 信者体験記】

天国から地獄まで「あの世」を実体験、臨死体験で死ぬのが怖くなくなった【幸福の科学 信者体験記】

瀕死の状態のときに起こった不思議な体験。意識を失くした体から魂が抜け出し、「あの世」の世界を見て、再び「この世」に戻ってくる、「臨死体験」と呼ばれる出来事です。
> 続きを読む

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

乳がんの克服体験 余命5カ月、運命を変えた心の力【幸福の科学 信者体験記】

ふとしたときに気づいた右胸の違和感。内科を受診した私に告げられた診断結果は、ステージ4の末期の乳がんでした。
> 続きを読む

関連リンク

幸福の科学 信仰体験 一覧
ネット入会のご案内

QRコード
携帯QRコード
幸福の科学リンクバナー

幸福実現党公式ホームページ

幸福の科学学園

精舎サイト「精舎へ行こう」ポータルサイトへ

幸福の科学出版

幸福の科学のラジオ番組 天使のモーニングコール

WITH YOU