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この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第122号より転載し、編集を加えたものです。

私は、自分が小さい頃に養女に出されたことを、不幸だと思っていました。しかし、幸福の科学との出会いを通して、自分自身の境遇に対する見方が全く変わり、心から感謝できるようになりました。
きょうは、私のたどった心の軌跡をお話しします。Hさん(40代・女性)

夫の浮気、離婚・・・

いまから十数年前、私は離婚しました。長年、前夫の浪費癖や夜遊びなどに悩まされてきましたが、3人の子供のためを思って、ひたすら耐えていました。

しかし、そのなかで夫の浮気が発覚。さらに長男が成長するにつれて、「おまえなんか!」と父親に反抗するようになったのを見て、「もう限界だ」と別れる覚悟を決めたのです。

私は子供たちを連れて実家に戻りました。長男は中学に入ったばかり、下の娘はまだ幼稚園でした。

愛を裏切られて・・・

前夫と出会ったのは20歳の頃。彼は遊び仲間のグループの一人でした。彼はとてもマメな人で、「体調が悪い」と言えば薬を買って車で届けてくれるし、よく高価な宝石を私にプレゼントしてくれました。スキーで捻挫したときは、毎日、会社まで車で迎えにきてくれました。

そんな彼の強烈なアプローチに押されたカタチで結婚。

ところが、塗装工をしていた夫はバブル崩壊のあおりで仕事が激減しました。極端に少ない額のお給料では足りず、私たち家族は一日1000円に満たない倹約生活でした。

彼はアルバイトもしましたが、そのお金を生活費に回してくれず、ブランド物を身につけ、夜も遊び回って帰ってこなくなりました。そして浮気—。

「こんなはずじゃなかった・・・」

幼い頃から人一倍、愛を求めていた私。実は生後すぐに養女に出されてしまい、心に寂しさを抱えていたのです。「こんなに強く私を愛してくれる人なら大丈夫だろう」という夫への期待は、見事に裏切られました。

養女と知った日

私が初めて、自分が養女だと知ったのは、小学校3、4年生ぐらいの夏だったと思います。東京の下町で育った私は、毎年夏になると、栃木にある母の田舎に遊びにいきました。

一人娘の私にとって、大勢のいとこたちと一緒に自然豊かな山や川で遊び回る日々は、とても楽しみでした。

ある日、一緒に遊んでいた3歳年下のいとこが、思い出したように言いました。

「ねぇ・・・ほんとうは、Hちゃんってさ、私のお姉ちゃんなんだって」

突然の言葉にびっくりしましたが、幼いなりにも、それがどういうことか、なんとなくのみこめました。

「いとこが私の妹・・・じゃあ、田舎のおばさんが私のお母さんってこと?」

口数の少ないおばさん。私から話しかけたりすることもあまりなく、なんだか自分の母親という実感がわきません。おじさんはすでに亡くなっていました。

私はいらない子

「私はお母さんのほんとの子供じゃないんだ。もらいっ子なんだ」

頭のなかで「もらいっ子、もらいっ子」という言葉がぐるぐる回り、ほんとうにショックでした。

ちょうどテレビでは、山口百恵が養女役のつらい境遇を演じる連続ドラマを放映していました。養女というイメージは私の心に暗い影を落としました。

「田舎は4人もきょうだいがいるのに、なんで私だけ養女に出されたの?私はいらない子だったの?」

「私はいらない子」という独り言を、何度つぶやいてきたことでしょう。

養女の事実に気づいて以来、心の底に「私は親から必要とされていなかった存在」という孤独感がありました。そんな私の心を満たしてくれるような、ほんとうに愛してくれる人を求めて、前夫と結婚したのです。

結婚前、私を追いかけ回していた彼。それを私は、自分だけに対する特別な愛情の証と信じ込んでしまったのでした。

「いらっしゃいませ」

離婚後、子供を連れて戻った私を、養父母は黙って迎えてくれました。何のあてがあるわけでもありません。

ただ、失意のなかにも、一条の希望のようなものが胸の内に宿っていました。その一条の希望—私の心の拠りどころとの出会いは、離婚の2年前、偶然とも言えるきっかけからでした。

ある日、いきつけの美容室に行ったところ、お店が閉まっていました。

「あー休業日かあ。どうしよう。また出直すのも大変だな。うちの子が待ってるし、次いつ来られるかわからないし・・・」

CLOSEDの札を眺めながら、しばらく店の前で思案していると、前に見かけた美容室をふと思い出し、そのお店に行ってみることにしました。

「—いらっしゃいませ。こちらは初めてですか?」

雰囲気のよい店内。店長さんらしき男性が迎えてくれました。初めての店だと、なかなか思うような髪型にしてもらえないことも多いので、ちょっと不安でしたが、私の要望をよく聞いてくれ、素敵にカットしてもらえました。思いきって来てみて正解です。

すっかり気に入った私はリピーターになり、店長さんとも顔なじみになりました。

けれども、これがのちのち私の人生を大きく変えていく出会いであったとは、この時点ではまだわかりませんでした。

運命のトビラを開いて

ある日、店長さんに髪を切ってもらいながら世間話をしているうちに、いつのまにか家庭の悩みを口にしていました。

「実は夫とうまくいかなくて・・・」
「そうなんですか。それは大変ですね」

店長さんは鏡ごしに心配そうな表情を向けました。

「—あ、そうだ。そういうことなら、いい本がありますよ。よかったら読んでみますか?きっと何かしら参考になることがあると思いますよ」
「えっ、本ですか?私はちょっと・・・」

子供の世話で、毎日てんてこ舞い。ぜんぜん本を読む余裕などなさそうでした。でも、美容室から出たあとも、店長さんの言葉が気になってしかたありません。

結局、それから何日かたって、やっぱり貸してもらうことにしました。本を適当にパラパラと開いてみるうち、いつのまにかひきこまれていきました。

「夫の愛情不足を嘆く人は、あちらにもこちらにもいます。・・・女性はどうやら愛情に飢えている動物であり、愛情が与えられないと、“飢え死に”をしてしまうもののようです」『「幸福になれない」症候群』第3章

自分に語りかけてこられるような感じがして、不思議なくらい早く読み終えることができました。店長さんにお礼をいって、本を返しました。

「おもしろかったですか?まだほかにもいろいろ本があるから、貸しましょうか」

こうして私は大川隆法総裁の本を読むようになったのです。

大川総裁の話のなかには、愛についての話がたくさんあり、気になります。「与える愛」とか「奪う愛」とか、まだよくわからないながらも、ここに自分の求めているものがあるような気がします。

私は未来への期待感を抱いて、幸福の科学に入信しました。

その後、離婚など、つらい出来事もありましたが、幸福の科学と出会っていたことが、そうした日々のなかで私の心の支えとなったのです。

心のなかの変化

ある日、玄関チャイムの音がしました。

「こんにちは。私、幸福の科学の者ですが・・・」

幸福の科学に入ってしばらくして、近所の信者さんが訪ねてきてくださいました。近くで集いを開いているそうです。新たな人たちとのご縁は、私にとって、とても新鮮でした。

幸福の科学の人と出会って、私のこれまでのお付き合いとは違うと思ったのは、心を開いて何でも話し合える雰囲気があることでした。

私もみなさんと一緒に集いに参加したり、支部の活動に出たりしているうちに、だんだん新しい生活のリズムができ、気持ちにも余裕が出てきました。

ある日、支部で、ある方から、「一度、これまでの人生で、自分が人に与えた愛と、人から与えられた愛を、全部書き出して比べてみるといいですよ」とすすめられました。

私は、そのやり方をヒントに、心に引っかかっていた前夫について考えてみることにしました。彼と出会った頃からの出来事をいろいろと思い出していくうち、(彼にはけっこうお世話になってたなあ)と、あらためて思いました。

そのわりには、「してもらって当然」という思いで、ぜんぜん感謝してなかった私がいました。なぜそんな態度になってしまったのかを、さらに考えていくうち、恐ろしいことに気がつきました。

「あなたが追いかけまわしたから、私は結婚してあげたのよ」

心の底に、常にそんな思いが潜んでいたことに気づき、ゾッとしました。自分が夫に愛されることばかり考え、思い通りにならなくて苦しんでいましたが、自分から夫に何かしてあげようとは思っていませんでした。

こういうのが「愛を奪っている」ということなんだと気づき、このままではいけないと思いました。

私はさらに反省していきました。もしかしたら、前夫だけではなく、他の人にも知らないうちに「奪う愛」になっていたかもしれない—。

これからは、私も愛を与えられるような人になりたいと思いました。

新しい生活のなかで

その日以来、私は他の人の幸せを意識するようになりました。でも、思いを切り替えるというのは難しいものです。

泉からあふれ出る水のように、愛を与えられる人—そんな理想のイメージにはほど遠く、「私のことをわかってほしい」という思いが先に立ってしまいます。つい人の目を気にする自分がいました。

私は幸福の科学の活動をしたり、仲間にアドバイスをもらったりしながら、少しずつ自分を変えようと努力しました。

仲間のなかでも特にお世話になっていたのが、私に幸福の科学のことを教えてくれた美容室の店長、Sさんでした。

Sさんは私に困ったことがあると、よく相談に乗ってくれました。何より、同じ信仰を持っていることで、互いに気持ちが通じ合えるのです。子供たちもSさんと親しくなりました。

私も彼の誠実な人柄にひかれるようになり、離婚から3年後、再婚することになったのです。

その後は、初めから家族だったように自然で、みんなで車に乗ってスキーに行ったり、テーマパークで楽しんだり、温泉を巡ったり・・・わが家のアルバムに楽しい思い出が追加されるたびに、私は「幸福の科学に出会ってから、ほんとうに幸せなことが増えたなあ」という実感をかみしめました。

また、可能なかぎり幸福の科学の精舎研修にも、主人と2人で参加していきました。

前夫への反省を通してはっきりしてきたのは、私の「愛されたい」欲求は根深く、それはやはり養女という生い立ちからきているということでした。

自分の過去をしっかり見つめたい—。私は、精舎で開催されていた「両親に対する反省と感謝」研修を受けにいくことにしました。

父母の本心

養女と知った当時、私は子供心に「聞いてはいけないんだ」という気持ちがして一人で抱え込んでしまいました。それが自分の正直な気持ちにフタをしてしまった最初だったと思います。

以来、私も親類も正面からその話題を出さないながらも、話の端々にチラチラにおわせることで、いつしか暗黙の了解のようになっていったのです。こうして親類のような親きょうだいのような、微妙な感じが続いていました。

でも、私の心の影は置き去りにされたまま・・・。

研修中、「大悲(だいひ)父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」を唱え、心を鎮めて瞑想していると、突然、心のなかにある光景が浮かんできました。田舎の家の広い座敷に寝かされている赤ちゃん—それは私でした。実の両親が私をのぞき込んでいます。

両親は顔を見合わせて、ため息をつきました。しだいに私を渡す日が近づき、どんどん無言になっていく両親。もうしばらくすると娘を手放さなければならない・・・。

寂しく悲しい気持ちになっている2人の心の内が、手にとるように感じられます。

「私のこと、いらなかったんじゃなくて、あげたくなかったんだ」

私は涙があふれ出し、嗚咽が止まらなくなりました。以前、上の姉が何気なく言っていた話の断片を急に思い出しました。

「父ちゃん、Hをあげたあと、心配でそっと東京まで見にいったんだよ。そしたらKおばさんが、Hを背負って鼻歌うたいながらおむつを洗濯していたから、安心したって」
「でもね、Hをあげたあと、父ちゃんと母ちゃんは寂しくて悲しくて、結局もう一人産んだんだよ。生まれた妹を抱いてね、『かわいかんべぇ。東京に行ったHに似てるべ』って、近所を歩いて回ってたんだよ」

早くに亡くなってしまった実父。写真でしか知らない人が、まぎれもなく私の父親であるということが、このとき初めて実感として迫ってきました。

そして実母。4人目の私を妊娠したとき、農家の嫁として朝から晩まで働きづめだっただけに、ずいぶん悩んだようです。

ある日、畑から戻った母は慌てました。高い縁側のふちで、3歳児だった長女が生まれて間もない次女を必死でつかんでいたのです。一人で床を這い出した次女が落ちかかっていたそうです。

「仕事が忙しくて、子供たちの面倒もろくにみてやれない。こんな状態で産んでもかわいそうだ。・・・いっそ子供のいない妹夫婦に預けたほうが、ずっと大切にしてくれるんじゃないか」

私を養女に出したのは、苦悩の末の決断でした。

田舎に行くと、いつも田や畑に出ていた実母。野良仕事から帰ってくると、「来たかぁ。ほら、とうもろこし茹でたぞ。食べろ」とすすめてくれました。

無口で、いつもニコニコ微笑んでいる人。親子の会話は少なかったけれど、やりとりの一つ一つがあたたかい・・・。あの母が苦しんで苦しんで、ほんとうに私のためを思って養女に出した気持ちを思うと、泣けてしかたありませんでした。

そして考えてみると、養父母も優しい人で、私を大切に育ててくれました。小さい頃、私の洋服は全部、養母のお手製でした。大好きだったキリンや馬のぬいぐるみまで作ってくれていたのです。

私は気づきました。「私は恵まれていた! 私には母が2人もいて、他の人より2倍も愛されていた」—そう思ったとき、長年ひきずっていた心のなかの影は消え、あたたかい気持ちで満たされたのです。

研修のなかで、私は実母に手紙を書きました。「お母さん」と呼ぶのは初めてです。

「お母さん、私を宿し、10カ月大切に育て、無事産んでくれてありがとう。私の幸福を願い、信じ、東京に養女に出してくれてありがとう。お母さんが私の幸せを心から願いつづけてくださったお蔭様で、今の私があります。心から感謝しています。ありがとう。—あなたの娘・Hより」

実母は80歳。帰省時には、いとおしむように2人のときを過ごしています。またこの体験を通じて、私を慈しんで育ててくれた養父母への感謝もいっそう深まりました。

魂の絆をかみしめて

再婚後、わが家はもう1人、男の子に恵まれ、4人の子供になりました。その子もいま、小学校2年生。明るく活発で、わが家のアイドル的存在です。

ほかの子供たちも主人とほんとうの親子のように暮らしているのを見ると、血の繋がりを超えた深い絆を感じるのです。

幸福の科学では、親子の魂は天上界で約束して生まれ合わせてくると学んでいます。肉体的な血縁があってもなくても、確かに魂の深い縁で結ばれている人たちがいるのだと実感しています。

最後に、幸福の科学と出会えた幸福に対し、天上界に心から感謝申し上げます。

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「お腹が痛い」

私には、E(中2)、K(小5)、R(小3)の3人の娘がいます。

Eが小学3年生のときのことです。3学期が始まって間もなく、学校の先生から電話がかかってきました。

「お母さんですか?Eちゃんがお腹が痛いと言って保健室で寝ていますので、迎えにきてもらえませんか」

Eは前日、風邪をひいて学校を休んでいました。しかし、たいしたことはないと、その日は登校させていたのです。

翌日も「お腹が痛い」と言うE。学校を休ませ、病院に連れていきました。診察の結果は、少し便秘ぎみなだけで、特に変調は見られないとのことでした。

―しかし、それから毎日、腹痛を訴えるようになったのです。

長女への期待

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翌月半ば、私は子どもたちと一緒に宇都宮市にある幸福の科学の総本山・未来館に行きました。そこで私は、講師にEのことを相談しました。

私の話をじっと聞いてくださっていた講師は、近くで友だちと遊んでいるEをしばらく見つめた後、こんなふうにアドバイスをしてくれました。

「もしかしたら、親の愛情不足を感じているのかもしれませんね。できればスキンシップを心がけてあげてください。まずお母さんがいつも明るく、家の中の太陽になることが大事ですよ」

実は、私には思い当たることがありました。

Eが幼稚園生の頃に次女が、その翌年には三女が生まれ、育児に追われていた私は、長女に「あなたはお姉ちゃんだから」と言って、あまり時間をかけて子育てしてこなかったのです。
その反省を込めて、私はEの「いいところ発見ノート」を付けることを決め、さらに意識して声をかけるように努めました。

「お母さん、どこにも行かないで」

春休みに入ると、Eも少しずつ「お腹が痛い」と言う日が減り、体調も安定してきたように見えました。

Eが4年生に上がった新学期、同時に次女が小学校に入学、三女も幼稚園に入園することになりました。そして、5月に入ったある日のこと。三女の運動会の打ち合わせを終え、帰宅すると、すぐに電話が鳴りました。

Eの担任の先生からでした。

「Eちゃんが、お腹が痛くて寝ているので、迎えにきてもらえませんか」

(―え?また、始まったの?)

私は、とてもやるせない気持ちを抱えたまま、Eを迎えに行きました。そのまま、一緒に家に戻り、Eを寝かしつけているときです。

「お母さん、しんどいよう・・・。ここにいて、どこにも行かないで」と、元気のない声でポツンと言ったのです。

「E・・・」

(この子、すごく寂しかったんだ―)私には、そんなEの気持ちが伝わってきたように感じました。

私と同じ苦しみ

私と同じ苦しみ【子育て体験談】

翌日の朝、子どもたちを学校に送り出した後、一人でお祈りをしていたときのことです。私は、Eについて考えていました。

(Eは頑張り屋だから、周りの期待に応えようと一生懸命。でも、何でもできるわけじゃないし、期待に応えきれないギャップに苦しんでいるのかもしれない。それが体の不調として現われているのかな・・・)そんなことを考えたときです。

(あっ、この苦しみって、私と同じだ!)と、思えたのです。

私自身、妻や母親、仕事、幼稚園の役員など、いろいろな役割を期待され、それに応えきれない苦しさをいつも感じていました。

(私は、そんな自分を受け入れて欲しいと思っている。きっとEも同じ気持ちだよね)

そう考えた私は、Eに宛てた手紙を、その晩、Eに読んであげることにしました。

「Eは小さいときからしっかりしていたから、お母さんも期待しちゃって。Eは『しんどいよー』って思っても、言わないで頑張ってきましたね。お母さん、Eの気持ちが分かっていなかったことに気づきました。しんどいときはしんどいって言ってね・・・」

それから、主人や学校の先生とも相談して、私はEとの交換日記をつけることにしました。

5月○日 お母さんより

「E、元気ですか? 今日はあまりお話ができなくて、ごめんね。ノートに書くと、口でうまく言えないことも正直に言えていいね。E
も思ったことを何でも書いてね・・・」

E

「席がえをしたよ。となりがいなくて、ちょっとさびしいな・・・」
P.S:「知らない漢字には、ふりがなをふってね」

普段、なかなか言ってあげられないことも日記だと書くことができました。この交換日記によって、親子の絆が深まっていくような気がしました。

家の中で太陽になる

その後、私は、以前、講師に言われたように「家の中の太陽」を目指そうと思い、「家庭を安らぎの場にする」という誓いを立てました。掃除にも気を使い、レシピ本を何冊か購入して、子どもたちが喜ぶような新たな料理にもチャレンジしました。

「お料理おいしいね!」と、子どもたちにも好評でした。

大川隆法総裁の書籍『奇跡の法』の中には、「悲観的な想念に負けそうになったときには、それに負けないだけの肯定的な想念を自家発電しなければいけません」と書かれています。

私は家事と仕事で体が疲れてしまい、弱音を言いたくなるときには、(うまくできなくても、これを題材に成長していこう。頑張ろう!)と、自分に言い聞かせながら、努力を続けていきました。

すると、Eの表情はどんどん明るくなり、口癖のように言っていた「お腹が痛い」という言葉も減っていきました。

そして、一年が過ぎ、なんと5年生のときはほとんど休まず、6年生になってからは一日も休まずに登校できました。現在は、毎日元気に中学校に通っています。

オススメ書籍

『奇跡の法』(大川隆法 著)

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月刊「ヘルメス・エンゼルズ」一覧

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第120号より転載し、編集を加えたものです。

私はいま一児の母です。10代のとき、私は不登校や非行など荒れた生活をしていました。そんな私が、立ち直ることができたのは、仏法真理と家族の励ましのおかげです。

転校先でのトラブル

中学2年生の時でした。

「M、またお父さん転勤だって」

母の言葉に、私はショックを受けました。せっかく、今の学校に馴染めたのに、また転校。 父の都合に合わせてばかりの引っ越しが不満でした。私の父は“転勤族”で、中学だけでも2度目の転校。しかも、今度は東京から遠く離れた、地方の学校・・・

泣く泣く転校して間もなくのこと。

「ちょっと、トイレに来てよ」

クラスメートに言われて、トイレに行くと、何人かの女子が集まっていました。

「あんたのその態度、ムカつくんだけど」

「なにその茶髪? スカートも短くして何様のつもりよ」

転校したばかりで、制服も東京の学校のままでした。東京ではふつうの格好なので、びっくりしました。このことがきっかけで、私はいじめられるようになったのです。

不登校

ある日、机の中に手紙が入っていました。

「みんなから、いろいろ言われているみたいだけど、大丈夫? 学校のことで分からないことがあったら、私に聞いてね。Y」

話したことはありませんでしたが、明るい世話好きそうな子からの手紙でした。嬉しくもありましたが、同情されているようなみじめさも感じました。その後も手紙が続き、彼女から話しかけてくるようになりました。

「Mさん、一緒に帰らない?」

誘われれば一緒に帰りましたが、私の態度は消極的でした。つい意地を張り、Yさんに対しても素直に心が開けなかったのです。そのうち、Yさんもあまり話しかけてこなくなり、私はクラスのなかで孤立した存在になっていました。

ある朝、急にお腹が痛くなりました。病院に行き、数日学校を休んだら痛みは取れましたが、それから朝起きるのがかったるくなり、どうしても起き上がれません。私は不登校になってしまったのです。

学校に行かなくなって数週間が過ぎ、母は、先生や教育委員会に相談して、他の中学に移る手続きをしてくれました。もともと学校が嫌いなわけではありません。この学校さえ移ればなんとかなると思いました。

私は、次の学校では服装や髪型に気をつけ、クラスに早く馴染めるように、できるだけ“いい子”を演じようと努力しました。しかし、同級生との距離はいっこうに縮まりませんでした。まじめな態度がかえってわざとらしく見えたのかもしれません。

「M、カバンの中、見せてみろ」

ある日、先生が私に言ってきました。カバンを開くとタバコが入っていて、びっくり。誰かの嫌がらせでした。私が必死に説明すると、先生も変だと思ったのか、いたずらだと分かってくれました。でも、陰険ないじめにショックを受けました。

「もう、嫌だ。学校なんて行きたくない」

私は再び不登校へと逆戻りしてしまいました。

私の青春、返してよ!

「M、ちゃんと話し合おうよ」

母に話しかけられても、「放っておいて」と、ふとんを頭からかぶって動こうとしない私。そのうち、父が怒りはじめました。

「いい加減にしろ! いつまで学校に行かないつもりなんだ!」

父はお酒を飲んでいるようでした。昔から、父はお酒を飲むと人が変わったように怒りっぽくなります。大きな声で怒鳴られて、私もキレました。

「何よ! お父さんが転勤したからいけないんじゃない。私の青春、返してよ!」

取っ組み合いの喧嘩になりました。私のあまりの荒れように、父は途中で匙(さじ)を投げたようです。それからは私に何も言わなくなりました。私のことは母に任せたようでした。

「私のことなんて、どうだっていいんだ」

国立大学を出て、大きな会社に勤めている父──できの悪い私を厄介者に思っているような気がしました。

東京に戻りたい・・・

私は虚しさに襲われ、リストカットをするようになりました。家の近くの崖に何度も行ったりしました。でも、その場に行くと、もう一歩が踏み出せませんでした。以前、母から聞いていた話が心にひっかかっていたからです。

「『死んだら楽になる』って自殺する人が多いけれど、天国に還れないで不成仏霊になって苦しむんだって」

母は幸福の科学の信者でした。私も、小学生の頃から、母に仏法真理の話を聞いていました。死んだ後まで苦しみたくないと、恐くなって、思い止まりました。

ある日、母に自分の正直な気持ちを打ち明けてみました。

「私、東京の学校に戻りたいよ」

結局、私は一人で東京にアパートを借り、転校前の中学に戻ることになりました。そこでは以前からの友だちも多く、何事もなかったかのように、ふつうに通学できるようになったのです。

高校は寮のある学校を受験。受験までの間、母が自宅と東京の間を行き来して、私の面倒をみてくれました。

ある日、母が幸福の科学総本山・未来館に連れていってくれました。

「明るくてきれいだな……」

ギリシャ的な雰囲気がとても好きになりました。私はこのとき、母に勧められて幸福の科学入会しました。

非行

私は高校に合格しました。中学時代は転校で苦しんだ分、高校では楽しもうと思っていました。でも、寮での一人暮らしは、思っていた以上にさみしいものでした。自分の部屋に一人っきりでいると、不安になります。

「ねぇ、これから部屋に行ってもいい?」

さみしさを紛らわすために、私は同じ寮の友達の部屋に入り浸っていました。お母さんはよく訪ねてくれるけど、お父さんは連絡もくれません。不登校で荒れて以来、私と接しようとしない父──。父が私を“お荷物”のように思って避けているんだと感じました。

毎日、あちこちに電話やメールばかりしていましたが、そのうち、それだけではもの足りなくなった私は、携帯サイトで出会った人たちと遊ぶようになりました。当時流行していたコギャルのファッションで、夜の街を遊び歩きます。さまざまな非行をするようになっていきました。でも、何をしていても、心はいつも虚しかったのです。

母は、私の様子がおかしいことを、薄々勘付いていたのかもしれません。夏休みに帰省した際、母に日記と携帯電話を見られ、私の非行がばれることになりました。

「M、これはどういうことなの!」

「勝手に見るなんてひどいじゃない!」

私は開き直って、母に反抗しました。父にも知られて、おもいっきり殴られました。ぜんぜん反省の素振りもない私に、両親はついに警察に相談することにしたらしく、警察署に連れていかれて説教された私は、ふてくされて部屋にこもり、両親と口をきかなくなりました。そんな私の心を開こうと、母は必死になって話しかけてきました。

「M、勝手に日記を読んでごめんね。お母さん、あなたのこと信じているから」

そういって、母は鍵付きの新しい日記を私に手渡してくれました。日記を無断で見られたのは頭にきましたが、母は本気で心配してくれてるんだと感じ、少しうれしかったです。

もう一度やり直したい

夏休みが終わり、東京に戻ると、母から幸福の科学の本が送られてきました。『愛の原点』という本でした。タイトルの「愛」という言葉が気になって本を開きました。

「愛とは、自分のためではなく、他のものに尽くしたいという思いです」(『愛の原点』より)

私は本に引きこまれていきました。母から送られてくる仏法真理の書籍を真剣に読むようになり、自分もこのままじゃいけないと思いました。そんなある日、母が幸福の科学総本山・正心館に連れていってくれました。

「お母さん、何か研修受けるの?」

「今日はMと一緒に『特別灌頂(とくべつかんじょう)』を受けようと思うの」

母の話によれば、それは仏への信仰のもと、過去の心の重荷をおろし、新しい人生への出発を誓う儀式だといいます。

「M、これまでつらい思いをさせてごめんね。もう一度、お母さんと一緒に、真っ白な気持ちになってやり直そう」

それまで、親のせいで、友だちのせいでと、人のせいにばかりしてきた自分。いろんな言い訳が積み重なった今の自分――。ほんとうに変われるものなら変わりたいと思いました。少し不安でしたが、祈願室に一歩足を踏み入れると、その厳かな雰囲気に、暗い気持ちが消えていきました。目の前に大きな仏がおられる気がしました。

「私、間違っていました。ごめんなさい」

一生懸命祈りました。心があたたかくなり、涙が止まらなくなりました。終了後、講師の方が話をしてくれました。私は今までのことをすべて打ち明けました。

「──こんな私でも変われますか?」

「どんな人でも信仰を通して生まれ変わることができます。間違いをよく反省してください。そして、もう一度やり直そうと決意し、努力してください。仏はそういう苦しい経験をされたあなたに対して、きっと期待しておられますよ」

講師の言葉に勇気づけられ、私は「二度と同じ過ちをしない」と心に誓ったのです。久しぶりに心がスッキリしていました。

久しぶりの釣り

高校を卒業した私は、実家に帰って働くことに決めました。仏法真理も熱心に学ぶようになりました。ちょうど父は単身赴任中で実家にはいませんでしたが、父とのこともなんとかしなければと、気にかかっていました。

精舎『幸福の法』公案研修に参加したときのこと。経典をじっくり読み進めていくと、ある一節が目に留まりました。

「無限に愛を奪い取る傾向を持っている人は、いくら、まわりの人からほんとうに愛を注がれていても、それが分からないことが多く、足りないことのほうにばかり意識が行くのです」(『幸福の法』より」)

「これって、私のことかもしれない……」

父の姿が心をよぎりました。私は父との関係をもう一度ちゃんと振り返ってみようと思いました。

「そういえば、小さい頃、花をプレゼントしてくれたことがあった。私が花好きだったから、父なりに一生懸命、見繕ってくれてたんだろうな」

「一人暮らししていた時、突然、父が訪ねてきたこともあったな。なぜか二人でお寿司を食べに行った。……あれは私のこと心配して見にきてくれたんだ」

「あっ、そうだ、釣り……。父は釣りが好きだったから、よく私を一緒に連れて行ってくれた。……たしか私専用の釣り道具まで揃えてくれてた」

考えだすと、いろんなことがよみがえってきます。私のことなんか、父はまったく関心がないと思っていたけれど、実は私のほうが父を見ようとしていなかったのではないかという気がしてきました。

「私は、父からもっと愛されたくて、反抗していたのかもしれない。ほんとうは父に愛されていたのに……」

研修をきっかけに、父に対する見方が少しずつ変わっていきました。たまに単身赴任先から実家に帰ってくる父。でも、2人の妹も思春期で、父と距離を取りたがっている様子。家で一人でお酒を飲んでいる姿はどこか寂しげに見えました。娘たちと話したいのに、話しかけられない父の不器用さが伝わってきたのです。私は自分から父に話しかけてみました。すると父はうれしそうに、仕事の話から始まって自分の幼少時のことまで、いろんなことを話してくれました。

「M、釣りでも行こうか?」

ある日、父が誘ってくれました。

「いいよ。ほんと、久しぶりだよね」

誘いにのって、2人で海釣りに出かけました。……なぜか私ばかりが釣れました。

「Mは釣りがうまいな」

ぽつりと父が言いました。まさか、釣りで褒められるとは思ってもみませんでした。勉強では父に褒められたことがなかった私。はじめて父に認められたような気がして、照れくさくなりました。

父への報告

仏法真理を学んで気持ちが前向きになったせいか、その頃、交際相手ができました。彼は大柄な体に似合わず、とてもやさしい人でした。私の過去を正直に打ち明けると、すべて受け止めてくれました。私も彼のために何かをしてあげたい、という思いが自然にわきあがってきて、よく幸福の科学で言われている「与える愛」の喜びって、こんな気持ちなのかと、少しずつ実感できるようになっていました。

結婚を前提にお付き合いを続け、お互いの家も公認になりました。ある日、私は自分が妊娠していることに気づきました。彼も喜んでくれ、私たちは母と彼の両親にもすぐに伝えました。ただ、父の反応を考えると、少し不安になりました。父はまだ単身赴任中で、家にいませんでした。

妊娠が分かった日の夜、私は不思議な夢を見ました。

「“約束”しましたよね。お願いしますよ」

夢のなかで、めがねをかけた大人の男性から、そう言われました。

「約束って言っていたな。もしかして……あの人が自分の子どもになる魂なのかも」

そんな気がしました。親子の縁はあの世で約束してくると教わっています。私が頼りなげに見えたのか、少し叱られたような気もしました。不思議がって母に話したら、母も「そんな感じの男の人が、私の夢にも出てきたよ」と言うので、びっくりしました。

「お腹の子がわざわざ挨拶に来たんだから、私もちゃんと父に言わなくちゃ」

勇気を出して父に電話をかけました。

「お父さん、私、赤ちゃんできたの……」

「…………」

無言の父。驚いているのか、怒っているのか、電話の向こうの表情が分かりません。緊張しながら父の言葉を待ちました。

「──そうか、分かった。おめでとう」

予想外の穏やかな言葉。私のほうが驚いてしまいました。それから数日後──。

「Mさんを、僕にください」

彼が父の前で正式に結婚を申し出ました。父は下を向いて黙ってしまいました。泣いていたのです。

「どうか、娘をよろしくお願いします」

涙で声をつまらせる父。私も涙がこぼれました。父に愛されていたことを、はっきりと感じました。

私でも人の役に立てる

結婚後、主人も幸福の科学入会し、赤ちゃんも、夢で見た通り、男の子が生まれました。私は家庭の幸福を実感していました。

ある日、ふとYさんのことを思い出しました。中学の時、いじめられている私に対して、手紙で励ましてくれた子です。あの時言えなかった「ありがとう」の一言が言いたくて、彼女に手紙を書きました。すると、すぐに彼女から電話がかかってきたのです。

「ほんと久しぶりだよね。どうしたの?」

「Yさんからもらった手紙、今も大事に取ってあるんだよ。すごくうれしかった。でも、あの時は素直になれなくてごめんね。ほんとうにありがとう」

彼女も喜んでくれて、お互いの近況を話していると、驚いたことに、彼女も私とほとんど同じ時期に出産したと言います。子育てで悩んでいる様子でした。

「もし、よかったら、幸福の科学支部に行ってみない?」

「それって、誰でも参加できるの?」

「うん。子育てをしているお母さん方の集いもあって勉強になるよ。あの後、私もいろいろあったけど、ここで学んでから変わることができたんだ」

私は自分の経験を話しました。私の話に興味を持った彼女は、支部の子育て中の母親の集いに参加するようになりました。やがて、彼女も幸福の科学入会しました。

幸福の科学を教えてくれてありがとう」

Yさんに感謝されて胸が熱くなりました。

「私でも人の役に立てるんだ――」

お返しの人生を

私の10代は荒れたものでした。まるで出口の見えないトンネルのなかをくぐっているようで、苦しくてどうしようもない時期もありました。

でも、幸福の科学の信仰と母の励ましを通して、自分の間違いに気づき、やり直すことができたのです。その結果、父との葛藤を乗り越え、私自身も子を持つ母として幸せな家庭を築くことができました。

薄暗く見えた私の人生に光を与えてくれた仏に心から感謝しています。この気持ちを胸に、これからはお返しの人生を生きていきたいと思います。

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27年前、愛する息子を自殺で亡くしたKさん。悲しみの淵にいたときに大川総裁が説いている「死は永遠の別れではない」という霊的人生観を知って元気を取り戻していきました。
そして、幸福の科学で息子さんの供養を行ったところ、Kさんにある神秘体験が臨んだのです―。
(Kさん/女性/月刊「ザ・伝道」第223号より転載・編集)

体験談いつかまた会おうね

突然、逝ってしまったわが子

1990年4月、春の訪れを感じる温かな昼下がりのことでした。私が台所で食事の支度をしていると、1本の電話が鳴り響きました。
「もしもし、Kさんのお宅ですか? 日光警察署の者ですが……」 
「はい。Kです。はい…え……本当ですか? わかりました。すぐに行きます」

それは離れて暮らす次男のMが、日光の山中で自ら命を絶ったという知らせだったのです。まだ、24歳でした。

頭が真っ白になった私は、しどろもどろになりながら、客間にいた主人と、すでに独り立ちして家を出ていた長男に訃報を伝えました。そして、主人と一緒に日光へと向かう電車に飛び乗ったのです。

(これはきっと悪い夢よ。お願い。早く覚めて……!)
警察署で長男と合流し、冷たくなったMと対面しました。
(M、どうして? 私が近くにいたら……無理矢理でも自宅に連れて帰ってきていれば……)

日光で火葬を終えて自宅へ戻る車中、私は骨壷を抱きながら、Mと過ごした日々を思い出していました―。

受験の挫折、不登校、大学中退、そして引きこもり……

Mが生まれたのは1966年。大学講師として働く主人と私の次男として、すくすくと育っていきました。小さいころは、一人で絵を描いたり歴史マンガを読んだりすることが好きな、どちらかと言えば、おとなしい性格で、決して友達を傷つけたりしない、心優しい子でした。

そんなMの人生の歯車が少しずつ狂っていったのは、中学受験の挫折がきっかけだったように思います。
Mが受験した中学は石川県の最難関レベルの中高一貫校。
4つ上の長男が通っていたのでMも同じように受験したのですが、わずかの差で合格できませんでした。

「M、気にすることないよ。近くの公立中学も良い学校なんだから」
「うん……」
私は、肩を落とすMを励ましましたが、Mの表情は晴れません。思えば、このときからMは強い劣等感を抱き、精神的に不安定な面を見せるようになっていきました。

進学した地元の中学では、ずっと受験勉強に励んできたMのことを、同級生たちが「お前の家はみんなガリ勉」とからかったそうです。それからというもの、Mは“不真面目”を演じるようになりました。

授業以外はほとんど勉強せず、遊んで過ごしていました。それでもなんとか高校に進学できましたが、馴染めず、一学期で不登校になったのです。知り合いのツテで転校し、学力レベルを下げた私立大学にも進みました。しかし、Mは、「兄さんは国立大学に通っているのに……」と、みじめに感じたのかもしれません。入学式だけ行って中退し、引きこもるようになってしまったのです。

(この子はこの先どうなるだろうか……)
私はMの将来を案じて、不安な毎日を過ごしていました。そんなある日のことです。
「大阪で暮らしたい。ゆくゆくは東京に出る」

Mがそう切り出し、趣味だった音楽に携わる仕事がしたいと言ったのです。「地元だと昔からの知り合いに心配されるのでいられない」という気持ちから出た結論のようでした。
(何でもいい。この状況が変わるのなら……)
私も主人も、そう思ってMを応援したのです。

Mは大阪で一人暮らしをはじめました。ところがアルバイトもせず、部屋に引きこもるように……。心配になった私はMのもとに駆けつけ、しばらく同居することにしました。しかし、私たち親子に会話はほとんどなく、部屋はいつもどんより暗い雰囲気が漂っていました。

(……でも大丈夫。Mはいつかきっと元気になる)
自分にそう言い聞かせて、「私にできることをやろう」と、掃除、洗濯、食事の用意など身の回りの世話に励みました。しかし、地元に置いてきた主人のことも心配です。

(こんな毎日が、いつまで続くのだろうか……)
ふいに不安と焦燥感(しょうそうかん)が襲ってきます。
「M、お父さんも大変なようだから、もう自宅に戻ろうと思うんだけどいい?」
「嫌だ。もうしばらくいてほしい……」

Mがこう言って引き止めるので、結局、落ち着くまで約3カ月間そばにいました。Mはその後半年くらい経ってから東京に移り、ミュージシャンの警備などをやってみたようです。しかし、またすぐに辞めてしまいました。

受験に失敗し、学校にも通いたくない、音楽の仕事にもなかなか就けない―。Mは、何もかも思うようにいかない人生に次第に絶望していったのです。精神科に通うようになり、睡眠薬や精神安定剤を処方されていました。そしてあの日、思いつめて―。

「Mは“あの世”にいるの?」

天国に届けるありがとう【体験談】

Mが亡くなってしばらく経っても、「もし私が……」という後悔は、なかなか消えません。それに、Mのことを人様に言うのは、はばかられます。私も家族も明るく振る舞っていましたが、心の奥にそれぞれ悲しみを抱えこんでいました。

そんなとき、友人のGさんと久しぶりに会う機会がありました。私とGさんは家族ぐるみのつきあいがあり、GさんはそれまでのMのことも知っています。
「Kさん、最近連絡なかったけど、どうしてた? 元気?」
「実は……」
私は信頼するGさんにすべて打ち明けました。
「……。それはつらかったよね。Mくんも苦しかったんだね」

Gさんはそう言って励ましてくれました。そして、「今度、幸福の科学のセミナーがあるから、気分転換に来てみないか」と誘ってくれたのです。幸福の科学の会員だったGさんは、以前から私に大川総裁の書籍を紹介してくれていました。ずっと関心があった私は、思い切って参加することにしたのです。

数日後。セミナーに伺うと、たくさんの方が集まっていました。みなさん気さくで素敵な方ばかりで、「暗い」「不幸そう」という私の宗教に対するイメージががらりと崩れました。
「人間の本質は『魂』です。私たちは、この世とあの世を何度も生まれ変わっている存在なんですよ―」

(Mはいなくなったけど、Mの魂はあの世にいるの?)
セミナーで聞いた話は、漠然と「あの世はあるのかもしれない」
と思っていた私にとって、とても興味深いものでした。「もっと知りたい」と思い、会員になることにしたのです。

『常勝思考』

教えを学び始めると、私の心を覆っていたものが晴れていく感覚がしました。大川総裁の『常勝思考』を読んだときです。

幸福の科学では、『人生は一冊の問題集であり、その問題集は、各人が努力して解かねばならないものだ』と説いています

(人生は、問題集……?)
その本には、人間は魂修行のためにこの世に生まれてきていること、人生の途上で起きるさまざまな苦難困難は単なる不幸ではなく、魂の糧になるということなどが説かれていました。この「人生は一冊の問題集」という言葉で、私の人生観が変わったのです。

以来、大川先生の教えを夢中になって学ぶようになりました。そのうちに、自殺した人は死後どうなっているか知ることになったのです。
(「死んだら楽になる」と思って自殺しても、死後、天国にも地獄にも行けず迷うと説かれている……。もしかしたらMも今、苦しんでいるのかもしれない)

そして、迷っている霊を救うためには、遺された人たちが正しい信仰を学んで、幸せに生きる姿を見せることが大切だとわかりました。
(Mのためにも、落ち込んでいられないわ)

私は主人や長男にも幸福の科学を勧め、家族で教えを学ぶようになりました。また、Gさんたち幸福の科学のメンバーと一緒に、地域にも幸せを広げる活動にどんどん参加するようになったのです。自分の幸せではなく、人の幸せを考える時間が長くなったことで、私の心もどんどん前向きに、そして軽くなっていくのを感じました。

供養の光をMにも

Mがあの世に旅立って7年が経った、1997年のある日のこと。いつも通り幸福の科学の支部に行くと、支部長さんが私に話しかけてきました。 
「Kさん、Kさん、幸福の科学で『永代供養(えいたいくよう)』が始まるんですよ」
「永代供養ですか?」

聞くとそれは、栃木県にある幸福の科学の総本山・正心館から、読経(どっきょう)による神仏の光が故人の魂に手向けられる尊い供養だそうです。私はさっそく申し込むことにしました。そして、なかなか栃木に参拝に行けない私は、自宅で幸福の科学の根本経典である『仏説・正心法語(ぶっせつしょうしんほうご)』の言葉を、あの世のMに伝えるような気持ちで読むようにしたのです。

(神仏の光がMに届き、苦しみが癒えますように)
主人もMのことがずっと気になっていたようで、永代供養してからは安心した表情で
「しっかり供養ができて良かった」と言うようになりました。

そしてこの頃から、家族の様子も変わっていったのです。もともとわが家は仲がよく、穏やかに暮らしていましたが、Mのこともあって、どこか影がありました。しかし、供養によってMだけでなく、私たち家族も神仏の光をいただけたからでしょうか。家の雰囲気が明るくなり、主人も長男も仕事にさらに打ち込んで昇進し、希望があふれてきたのです。

(供養させていただいて本当によかった。仏よ、ありがとうございます―)
永代供養の功徳を、家族で実感したのでした。

「お母さんごめん。僕は天国で頑張っているよ」

天国に届けるありがとう【体験談】

2000年8月。私も家族も元気を取り戻していました。しかし、私の心の奥の奥では、まだ「Mを救えなかった」という思いはぬぐい切れずにいたのです。街でMと同い歳くらいの人を見かけたときなど、ふとしたときにその後悔が巻き戻ってくるのでした。

(私はまだ引きずっているんだ……けじめをつけよう)
 気持ちを整理したいと思い、幸福の科学の日光精舎で「三日懺悔(ざんげ)式※」を受けることにしました。

セミの声が鳴り響く夏の日光。研修室の椅子に座り、私はMが生まれた日から順に記憶を振り返っていきました。そして、中学受験の場面―。夜遅くまで必死に勉強するMの顔と、「頑張れ、頑張れ」と応援する私たち家族の姿が浮かんできます。

(Mはまだ小学生だったのに、本当によく努力したなあ)
そのとき、ふと以前、大川総裁の法話「人を愛し、人を生かし、人を許せ」で聞いた言葉を思い出しました。

「愛していると称して、その実、心配することだけを習慣にしている人がいます(中略)
たとえば受験生を子に持つ人であれば、『子供が受験に失敗すると困る』と心配しているでしょうが、ほんとうにその子の将来を考えて、そう思っているのでしょうか。『自分がまわりに対してあまり格好がよくない』『その後の1年間、自分も余分に苦しまなければならない』などの理由で、困ると思っていることも多いのではないでしょうか」

はっとしました。

(そうなのかもしれない……。私は「Mのために」と思って一生懸命だったけど、心の奥の奥では……)
私が嫁いだK家は、代々地主を任されてきた旧家でした。主人や主人の兄弟をはじめ、親戚はみな高等な教育を受けていましたし、義母など女性たちも教養がありました。普通の農家で育った私は、知らぬ間にコンプレックスを感じていたのだと思います。

息子たちに家庭教師をつけるなど、熱心に教育してきたことも、よくよく考えてみると、「母親が優秀じゃないから子供もレベルが低いんだ」と周りに思われないか心配になる自分の心を護るためでした。

(今まで気づかなかった……)
Mは受験競争に向くようなタイプではなかったのに、一族からのプレッシャーに耐え、期待に応えようとしていたのです。Mの気持ちを考えると胸が締めつけられます。
(M、ごめんね……)

そのときです。不思議な体験が私に臨みました。
Mからのメッセージがありありと、心に浮かんできたのです。

「お母さんがあまり心配するといけないので来ました。仏がここに呼んでくれたのです。今から自分の気持ちを話しますー」

Mの霊は続けて、自分で命を絶ったことを申し訳なく思っていること、供養のおかげで今はもう天上界に還り、天使たちと一緒に自殺者を減らす活動をしていること、そして自分のことはもう心配しないで両親には世の中のために働いてほしいことを伝えてきました。

「僕はこっちの世界にきて、本当に立派な家族の一員であったのだとつくづく分かりました。お父さん、お母さん、本当にありがとう」

私は、あふれ出てくる涙を止めることができませんでした。 
(Mは家族のことを恨んでないんだ……そっちで元気にやっているんだね。よかった……。私こそ、立派な息子を持つことができて誇りに思うよ。お前は私たち家族の宝だよ。本当にありがとう―)

Mの気持ちを聞いて、それまで私の人生に重くのしかかっていたものが消えました。
そして、やっと自分で自分のことが許せたのです。
(Mが言うように、私も残りの人生、世の中の役に立つ生き方を送ろう―)
なんとも言えない幸福感と希望で胸をいっぱいにして、私は日光をあとにしました。

いつかまた会える日まで

天国に届けるありがとう【体験談】

2008年、幸福の科学の霊園である「来世幸福園」に納骨壇をいただきました。
2014年には主人も他界し、今はMと一緒に眠っています。

今は、長男も家から出て遠くで働いているので、私一人になってしまいました。でも全然、寂しくはありません。目には見えないけれどMも主人も、天国から私のことを見守ってくれていて、心は繋がっていると実感できるからです。

人生、うまくいくときもあれば、挫折するときもあります。私も息子に先立たれたときは、「自分の人生は失敗作だ」と、何もかも悲観的になっていました。でも、何より大切なことは、どんな状況でも、そこから何かをつかみ、自分の心の糧にしていくことだと思います。

そう気づけたのは、幸福の科学に出合えたからです。この教えがあったからこそ、私はここまでくることができました。今が人生で一番幸せなのかもしれないと、感じる毎日です。

神仏に、この感謝の気持ちを少しでもお返ししたくて、幸福の科学で人助けの道に励んでいます。教えを学んで幸せになっていく方を見ると、私も本当にうれしいですし、元気になれるんです。何よりそれがMの供養になると確信しています。

M、そちらはどうですか。
相変わらず、人助けで忙しいですか?

私はいたらない母だったかもしれませんが、あなたはそれでも愛してくれましたね。
あなたと出会い、育てるなかで、私は本当愛とは何かを学びました。
あなたが私に、大切なことを教えてくれたのです。
いつかまた会える日まで、私もこっちの世界で頑張りますから、見守っていてください。

私の子供として生まれてきてくれて、本当にありがとう。


※懺悔文を書いて奉納し、神仏に許しを請う儀式。

◆この記事は、月刊「ザ・伝道」第223号(2017年9月号)に掲載された体験談をもとに編集しています

書籍で学ぶ天国に還った人への供養のあり方

『正しい供養 まちがった供養』(大川隆法 著/幸福の科学出版)第3章 正しい供養で故人も遺族も幸福になるより抜粋したメッセージ

「感謝」の気持ちが故人の「徳」になる

先祖供養と言っても、天国に還った人と地獄に堕ちた人とに大きく分かれます。

天国に還った場合は、「この世の修行を見事に完成して、卒業した」ということになります。死というものは、いわば、この世の卒業式であり、あの世へ行くことは入学式なのです。

したがって、本当は、死はおめでたいことであり、遺された人たちは、天国に還った人に対して、「見事に修行を終えられ、おめでとうございます」と言うべきなのです。

そして、「私たち子孫は、先祖のみなさんを誇りにしております。みなさんを手本にして、これからも努力・精進してまいりますので、どうか、私たちをご指導ください。また、みなさんのご恩や徳に報いるため、毎年、お彼岸やお盆の季節には、みなさんに感謝をさせていただきたいと思います。この気持ちを、どうか、お受け取りください」と言えばよいのです。

肉体を頂いたことをはじめ、先祖からは、いろいろな恩を受けているでしょうから、毎年、1回か2回は、きちんと感謝することが大事です。毎日する必要はありませんが、年に1、2回は、思い出して感謝してあげると、天国に還った先祖もうれしいものなのです。

子孫から「ありがとうございます」と感謝されるということは、先祖に徳があったことを意味します。あの世で、周りの友人たちから、「あなたは子孫から非常に慕われていますね。生前、ずいぶん徳があったのでしょう」と言われるので、あの世の人にとっても、やはり、うれしいのです。

また、友人や知人が亡くなった場合も、地上の人が思い出してあげると、彼らは、うれしいものなのです。反対に、誰からも供養してもらえないということは、遺族や子孫に見捨てられたか、生前、多くの人から嫌われていたことになります。

遺された人たちが進んで供養をしてくれるということは、その人に何らかの徳があったということなのです。

要するに、天国に還った人に対しては、地上の人間が救済する必要はないので、あの世での活躍を祈るとともに、「私たちに対して、ときどきはご指導ください」と祈ればよいのです。

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