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かつてはニューヨークで投資銀行マンとして働いていたNさん。
ストレスフルな生活がたたってウツ病にかかり、一時は本気で自殺を考えるほど落ち込みます。そんなときに幸福の科学と出合って、人生再建の道へ―。今回は、ウツを克服した感動の体験談をお届けします。
N・Tさん(埼玉県)
隔月刊「ザ伝道」225号より転載・編集

体験談ウツが治った!

投資銀行マンからの転落

15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

「Nさんは、重度のウツです。すぐに入院してください」
1995年、私が40歳のときのことでした。医師から告げられた病名は、自分とは一生無縁だと思っていた「心の病」だったのです― 。

私は、1955年に新潟県で生まれました。中学時代から英語が得意で、大学も外国語学部に進みました。大学卒業後は、一度、証券会社に就職しましたが、「さらに上のキャリアを目指したい」という思いから、退職して33歳でアメリカの経営大学院へ入学しました。

MBAを取得し、つかみとった再就職先は、ニューヨークに本拠を置く、世界的な投資銀行でした。

睡眠時間が2、3時間しかとれないほど多忙な毎日でしたが、世界中から集まった超エリート達と共に、自分も「エリート」として働く喜び、憧れのウォール街を黒カバン片手に歩く充実感で心は満たされていました。

そして入社4年目。私は会社のシステムを改良するという大きなプロジェクトを手がけ、成功させました。その功績が評価されて、バイスプレジデントへの昇進が決まったのです。私はいわゆる“勝ち組”でした。しかし、プロジェクトの成功と昇進によって達成感を感じた私は、投資銀行マンとして燃え尽きてしまったのです。

(この会社では、これ以上の仕事はもうできないな……)
惜しまれながら退社してニューヨークを後にし、次の目標を探すために、一度、日本に帰ることにしました。

キャリアアップのため、私が次に目指したのは公認会計士の資格取得でした。
(俺はエリートだ。すぐにできる)

いち早く結果を出そうと、自分を極限まで追い詰めて勉強しました。ストレスも溜まり、慢性的な睡眠不足になりました。

そしてあの朝、何かがぷつりと切れたように、どうしても気力が沸かなくなったのです。病院を受診すると、躁うつ病という診断が出され、大量の薬が処方されました。

(薬を飲めば元に戻るはずだ―)
そう思って薬を口に含むと、一時的に“ハイ”になるのですが、効き目がなくなると元気がなくなり、また薬を飲みました。そうして私は「薬漬け」になったのです。
副作用で、「ご飯が口からこぼれても気づかない」「よだれが止められない」ようになりました。かつては毎日チェックしていた新聞やニュースも、いくら見聞きしても内容がまったくつかめなくなったのです。

今日が何日で、何時なのかも分からない……。ひたすら家でぼーっとしていました。そして洗面所に立ったときです。鏡に映っていたのは、よだれで顔も服も汚れ、痩せて頬がたるんだ、一人のなさけない男の姿でした。

(俺じゃない……)
投資銀行マンとしてニューヨークで働いていたころの自分が懐かしくて、やるせなくて、涙が溢れてきます。絶望―。

いっそ、死んでしまった方が楽だと、本気で自殺を考える日もありました。それほどまでに追い詰められていったのです。

「心の居場所」を見つけて

少し回復したかなと思って再就職してみるのですが、いつも1年ももたずに辞めてしまいました。ウツは一度かかると、なかなか治らないと言われており、「一生こんな生活が続くのか」と思うと、余計に落ち込むのでした。

そんな状態だった1999年、知人に幸福の科学のセミナーに誘われたのです。セミナーでは、人生の挫折も糧にして成功するための心の持ち方が紹介されていました。

(幸福の科学の教えを学んだら、何か変わるかもしれない)
セミナーの内容に希望を見出した私は、会員になることを決めました。

そして2000年、私が45歳のとき、同じ信仰を持つRさんと知り合い、結婚しました。

大川総裁の教えで「病気は治る」と学んでいた彼女は、私の未来を信じてくれ、私がなかなか定職に就けないことも理解してくれたのです。

私は結婚してからも度々、気分が落ちて公園のベンチで一日中過ごしてしまう日がありました。そんなときでも、妻のことが心にふっと浮かぶと「家に帰らなきゃ」と身体が動くのです。玄関のドアを開けると、部屋に明かりがついていて、「おかえり」と温かく迎えてくれる妻がいます。私にも居場所ができたのだと思いました。

「Rさん、おすすめの経典はある?」
「今のあなたにぴったりなのは……」
夕食でテーブルを囲むと、妻はいつも、大川総裁の経典や法話の話を楽しそうにしてくれます。夫婦の団らんが、私にとってかけがえのない時間になりました。それまで、薬の副作用で仏法真理をろくに学ぶことができていなかった私も、妻のおかげでだんだんと教えを知るようになりました。

「俺は、ずっと愛されたかったんだ……」

15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

2004年10月のことです。私はウツから抜け出せず、メイクアップアーティストの仕事をしている妻に家計を支えてもらっていることが情けなくて、「自分を変えたい」と強く思うようになっていました。

そんな私を見た妻が、「幸福の科学の日光精舎は、自分と向き合うには良いところよ」と、研修を勧めてくれたのです。私は単身、電車に乗って、日光へと向かいました。

研修は、仏教の教えである「因(いん)〈原因〉・縁(えん)〈条件〉・果(か)〈結果〉・報(ほう)〈結果の影響〉」のプロセスで悩みを見つめ直す内容でした。

私は礼拝室のイスに腰掛け、本尊であるエル・カンターレ像の前で、なぜ自分がウツになったのか考えてみたのです。静かに合掌をして、自分の人生を振り返っていきました。
(突然ウツになったのは、勉強のストレスと睡眠不足からだったな。でも、そもそも何であんなに馬車馬のように勉強しなきゃいけなかったんだろう……)
心の原因を考えてみました。そして、はっと気づいたのです。

ウツになる前の私の心は、とにかく「人に認められたい」という一心で勉強も仕事も頑張っていました。他人からの評価が私にとって“食事”のようなものだったのです。

幸福の原点

それは結局、自分に自信が持てなかったので、「愛されている、必要とされている」という実感が欲しかったのだと思いました。思い返せば、子供の頃からその傾向性は変わっていません。私はずっと厳格だった父や、学校の先生に評価されたいと思って生きてきたのです。そのことに気づくと、大川総裁の『幸福の原点』の言葉が浮かんできました。

劣等感で苦しんでいる人は、与えられる愛ばかりを考えていることが多いであろうと思います。こういう人は、発想を切り換えて、与える愛の大切さ、無償の愛の大切さを考えねばなりません。

(そうだ……。大川総裁は「愛を与える」ことが幸福になる道だと説かれている。俺は真逆の生き方をしてきたな。変わろう―)

私は、これからは誰に褒められなくても、人の役に立つ生き方をしようと誓い、日光をあとにしました。

運命を変えた雲水修行

しかし、それまでの50年間、ずっと愛を求めて生きてきた人間が、自分の“心のクセ”を変えることは、たやすいことではありませんでした。
(どうしたら今までの自分から抜け出せるのか……)

そんなことを悶々と考えていたとき、月刊「幸福の科学」を読んで、雲水修行の存在を知りました。雲水修行とは、精舎で作務などを行いながら自分の心を見つめる修行です。

(これだ!)
私は2005年8月から3か月間、東京正心館で週末雲水に取り組むことにしました。
もともと真面目で几帳面な私は、作務もノルマのように考え、時間内に完璧に仕上げることが第一でした。トイレやお風呂場を磨き込み、ピカピカにして満足感に浸っていました。
そんなある日、講師の1人から声をかけられたのです。

「Nさん、いつもありがとうございます。でも、作務は心を見つめる修行なので、仕事のように完璧にやろうと思わなくて良いのですよ。自分のペースで進めてけっこうです。自分を追い込んで作務をしては、修行になりませんから」

「え、でも、それだと終わらないですよ」
「終わらなかったら、私がやりますから」
そう言われても、私はなかなか気が抜けません。

洗面所を磨きながら、講師から言われた一言が頭を離れませんでした。
そして、「完璧じゃなくていい」という言葉に引っかかる自分を発見したのです。完璧主義者はウツになりやすいと言われますが、思い返せば私も投資銀行マン時代から、仕事は完璧じゃないと自分が許せませんでした。
(あ……。何でも完璧にやりたがるのも、人に褒められたかったからだ……)

私は、完璧な仕事をしないと、周りからの評価が下がるのではないかと思っていたのです。「完璧主義」という自分の心にこびりついていたものを取り除くようなイメージで、作務に没頭しました。

また、一緒に雲水をする仲間や、幸福の科学の職員の方の姿からもたくさん学びました。
皆さん、「精舎を利用する方が幸せになりますように」「参拝に来られた方が、最高の時間を過ごすことができますように」という愛の思いで働いているのです。

(これが「与える愛」なんだ……)
私も、たとえば御手洗いの作務をするときには、「次に使う方が、気持ちよく利用できますように」と、少しずつ思いを込めるようにしてみたのです。すると不思議なことに、自分自身が喜びと幸福感で満たされていきました。

愛を与えるほど、仏から光が与えられる― 。幸福の科学の教えの通りなのだと実感しました。

そしてある日、精舎の床を磨いていたときのことです。何があったわけでもないのに、不思議と涙が溢 れてとまらなくなりました。それは悲しみの涙ではありません。仏の愛に包まれているような、なんとも言えない安心感を感じて泣けてきたのです。
(仏が俺をいつも見守って下さっている― 。俺は、愛されているんだ)

床にぽとぽと落ちる涙の粒を見ながら、私は心のなかで仏に「ありがとうございます」と言っていました。すると、その瞬間、背中にのしかかっていた「何か」がとれて身体がふっと軽くなった感じがしたのです。幸福の科学では、ウツの原因に悪霊の憑依があるとされていますが、まさに私に憑いていたものが取れたのだと思いました。

雲水修行を始めて3カ月が経つ頃には、気分が落ちることもほとんどなくなりました。
お守りのようにずっと肌身離さず持ち歩いていた薬も必要なくなってしまったのです。雲水最終日は、御本尊に心を込めて拝礼し、精舎を後にしました。

50歳からの再チャレンジ

15年ウツだった僕が銀座で英語講師をするまでの話【体験談】

雲水修行を終えた私は、この先の人生をどうやって生きていくのか考え直しました。
(今まで、ろくに働けなかった俺にできることはあるのだろうか……)
そしてある日、妻を見て、ふと「好きなことを仕事にしたらいいのでは」という思いが湧いてきたのです。メイクアップアーティストの妻は、大好きなメイクの仕事のときは、いつも楽しそうに働いています。

(俺が本当に好きなもの……そうだ、英語だ)
英語は私の原点でした。中学で出会った英語の先生の影響で、英語でコミュニケーションができる喜びに目覚めたこと、自分も昔は英語教師になりたかったことなど、忘れかけていた気持ちが蘇ってきたのです。

私はまず家庭教師からはじめることにしました。ところが、厳しい現実が待っていたのです。長いこと抑ウツ剤を飲んでいたせいで、あんなに得意だった英語がまったく分からなくなっていたのです。単語も文法もすべて消しゴムで消されたように私の中からなくなっていました。

それでもあきらめませんでした。私の心には、「何歳からでもやり直せる」という大川総裁の教えがあったのです。中学校のテキストから復習し、英語力を一から叩き直しました。家庭教師と経理のアルバイトをやりながら、英語の教授法の資格も取りました。

そして、2010年、ウツを克服して、ついに銀座に自分の英語塾を開いたのです。銀座は私が新潟から上京してきたとき、憧れの街でした。また、世界で使える英語を教えるなら、日本の中心地に塾を開きたいという思いがあったのです。

(英語塾は世の中にたくさんある。でも、俺だから教えられる英語もあるはず……)
私は、MBA取得やニューヨークの投資銀行で勤めていたという強みを生かして、実際に英語の論文を書いたり、ビジネスでレポートを書いたりするときに使えるアカデミック・ライティングを教えることにしました。

(よし、人生再出発だ)
開校にあたって広告などは出していないのですが、ありがたいことに、インターネットで私のブログや経歴を見た方から問い合わせが入り、塾生が集まりました。

「人生」を教えられる英語講師に

実際に英語を教えるようになって気がついたことがあります。教師とは、自分が偉くなるのではなく、教え子が自分を追い越し、偉くなることに喜びを感じる仕事ですから、「自分が褒められたい」と思っていた以前の私だったら絶対に務まりませんでした。

「N先生の授業は分かりやすい」「英語を学ぶのは楽しい」という塾生の言葉はとても励みになりますし、自分の教え子がどんどん優秀になって英検1級を取るまでに成長したときは、自分のこと以上に嬉しかったです。こんな気持ちは生まれて初めてでした。

生徒たちがそれぞれの夢を叶え、世界で活躍できるグローバル人材に成長していくためには、実践的な英語力だけでなく、人間として内面を磨いたり宗教や歴史の教養を身につけたりすることが大切だと思います。一流の人間は、“中身“がしっかりしているからです。それは、私がニューヨーク勤務時代に、成功者たちと接して実感したことでした。

ですから、教える立場にいる私が率先して英語力を磨くことは当然ですし、大川総裁の経典で心を耕やし続けることが必要だと身にしみて感じます。大川総裁の経典1冊には、教養書100冊分くらいのエキスが詰まっているからです。

今、私のところには、「Nさんのような英語力を身につけるためにはどうしたら良いですか」などと、たくさんの相談が届きます。そうした方々のお話を伺ってみると、実は英語よりも、人生に悩んでいることが多いのです。

皆さん、未来は“今の自分の延長線上”だけにしかないと思い込み、挫折や行き詰まりで苦しんでいるのですが、大川総裁は、「幸福への道は、一つの扉が閉じれば別の扉が開くようになっています。道は無限にあるのですから、あきらめずに次の道を探すことです」と説かれています。

本当は一人ひとりに様々な選択肢が与えられているのです。私にとって、それは英語講師という道でした。そして、そのことに気づき、ここまで立ち直ることができたのは、幸福の科学の教えがあったからです。本当に感謝しています。

人生はいつでも、何度でも切り拓いていくことができます。私は英語を教えながら、これからの日本や世界の未来を担っていく若い人たちに、このことを伝えていきたいです。

書籍で学ぶ心が折れてたまるか

『未来の法』(大川隆法 著/幸福の科学出版)第2章 心が折れるのは、どのような人か/心が折れる人の特徴②──完全主義者より抜粋したメッセージ

心が折れてたまるか

人生のどの局面を捉えても、「完全な人間」など、世の中にいるわけがありません。誰もが不完全なのです。
例えば、テストで百点を取れるのは、小学校1年や2年の足し算や引き算ぐらいまでであり、そのあとは、そう簡単に取れはしません。

たいてい、割り算あたりから間違い始めます。割り算を間違うのは普通の頭脳であり、全部できれば秀才でしょう。たいていは割り算あたりで減点が出始めるのです。

「足し算や引き算までは百点を取れていて、『大秀才だ』と思ったのに、割り算からは90点しか取れなくなった。残念だ」などと言い始めるわけです。その後は、言うまでもなく、「完全な人生」など生きているはずはありません。

人生は、あとになればなるほど、難しくなります。勉強も難しくなりますが、人間関係も難しくなりますし、仕事も難しくなります。
会社などに入っても、偉くなればなるほど、仕事は難しくなります。そのように先が見えない状況のなかで、完全を求めることには無理があります。

結局、「不完全な世の中」に「不完全な人間」が生きているのです。この事実を認め、それを受け入れなければなりません。不完全な世の中に、不完全な人間が生きていながらも、そのなかで、「よりよき人生を生きる」ということを選び取っていかなければならないのです。
これが人生の意味の一つなのです。

したがって、「心が折れた」などとのたまう人に対して、「あなたのどこに、完全な人生、完璧な人生があったのですか。また、他の人にも、そんな人生があるのでしょうか。『完璧に生きている』という人は、例えば誰のことでしょうか。言ってみてください」と問うてみても、なかなか名前を挙げられるものではないのです。

現代は、それほど難しい時代になってきてはいますが、言葉を換えれば、「チャレンジ精神、ベンチャー精神を持ち、チャレンジングな生き方をしていかなければ、未来が拓けない時代なのだ」とも言えるでしょう。
そういう精神を持つためには、当然のことながら、ある程度の失敗は織り込み、それを乗り越えていくだけの力が必要です。

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この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第147号より転載し、編集を加えたものです。

「Cさん(30代・女性)」

 どうしても起き上がれない、生きていたくない・・・。ある朝、突然ウツになり、ひきこもるようになった私。7年にわたる泥沼の苦しみに沈んでいた私の心にある日、”奇跡”が起きました。

この世で一番不幸なのは私

私はこれまでの人生の大半を、「この世で一番不幸なのは私だ・・・」そう思って生きてきました。20代後半でウツ病になってからは特に、体は鉛を流しこまれたように重く、心は家族や周囲への恨みでいっぱい。死ぬことばかり考えていました。

そんな私を救ってくれたのは、幸福の科学の方々でした。皆さんの愛にふれて初めて、自分が今までたくさんの愛を与えられてきたことに気づき、ウツから立ち直ることができたのです。

雨漏りのする家

私が育った家は、雨が降るたびに何カ所も雨漏りがするような借家でした。私が生まれて間もない頃、父が営む金融会社が、知人にお金を持ち逃げされたことから借金を抱えて倒産。一家は、親戚の助けを得ながらやっと暮らしていたのです。

父は工場勤務に加え、早朝の新聞配達もしていました。幼な心に、私は父の体が心配で、「新聞配達やめればええのに」と言うと、父は笑って私の頭をなでてくれたものでした。

「心配せんでもええ。新聞配達は健康のためにしとるんや」

いつも優しいこの父が、私は大好きでした。

私はいらん子?

一方、母はいつも不機嫌でした。腎臓が悪かった母は、いつも眉間(みけん)にシワを寄せていました。私は母に優しくしてほしくて、母の気を引こうと必死でした。

「お母さん、抱っこして」

両手を伸ばす私に、母は決まってこう言います。

「甘えやんの(甘えないで)」

また、具合の悪い母のために皿洗いを手伝おうとしても、いつも冷たく追い払われました。

「さわらんといて!」

次第に私は、「お母さんは私が嫌いなんや。いらへんのや」と思うようになりました。

生きていたくない

中学生になると、わが家と友達の家を比べるようになりました。雨漏りもせずお風呂のある家、流行りの服やラジカセ、優しい母親―。

「なんで私だけ、こんな不幸なんやろ?」

しかし、そんな惨めな状態を、人には知られまいと私は必死でした。小中高と成績は常に上位を保ち、「優等生」で通したのです。ところがふとした時に、いつも同じ思いがこみあげてきます。

「生きていたくないなぁ・・・」

死んで灰になって、自分を消滅させたいということが、いつしか私の唯一の願いとなっていきました。

父の死・母の病

苦難は続きました。高校3年の時には、父がガンで他界。悲しみを心に抱えながら、私は高校卒業後、生命保険会社に就職。ほどなくして母がパーキンソン病を発病したのです。

当時、同居の兄は昼も夜も仕事を持っていたので、母の世話は私が引き受けるしかありませんでした。母は銭湯に行くにも病院に行くにも、私の助けを求めます。その度に子供の頃の辛かった思い出が甦(よみがえ)りました。

「抱っこもしてくれなかったくせに! なんであんたの世話なんかせなあかんの!」

そう思う反面、母を見ていると、放っておけません。頼まれる前に世話をし、「文句はないでしょ」とばかりに、夜は繁華街に出かけました。心にも体にも、やり場のない怒りと疲労を充満させながら― 。

体が動かない

あれは、27歳のある朝のことでした。体が重くて全く起き上がれなくなってしまったのです。家事は兄と母がやるようになりました。

「2人でできるんやんか。今まで私に押しつけとったんやな。お母さんの面倒は、私より可愛がられとった兄ちゃんが見るべきなんや!」

閉め切った暗い部屋で布団にくるまっていると、昔の嫌な思い出が頭を駆け巡ります。舌打ちをして私を見る母の冷たい視線。兄は新品の学習机を買ってもらったのに、私にはボロボロの事務机が与えられたこと・・・。体も心も、何倍もの重力で押しつぶされるようでした。

「死ぬな!」

「結局、こんな自分から逃れるには死ぬしかないんや」

とうとう私は、死を決意しました。自宅で餓死すれば、母と兄への復讐になるし、自分を消すこともできる。その一念で食べ物を断って一週間。簡単には起き上がれない状態になりました。そんな時、ふいに心の中に、ある考えが浮かんだのです。

「このまま死んではいけない」

どうしてそんなことを思ったのかは分かりません。でも、心に浮かんだその言葉は、「死ぬな、死ぬな」と訴えかけてきます。

「・・・救急車・・・」

私は何かにせっつかれるように、泥のように重たい体を引きずりながら受話器に辿り着くと、自分で救急車を呼びました。

そして、精神病院へ

私はウツ病と診断され、精神病院に収容されました。ベッドで点滴を受けていると、兄と、交際相手のMさんという女性が病室のドアを開けました。

Mさんは、まっすぐ駆け寄ってきて、初対面の私を、ぎゅうっと抱きしめたのです。私は何カ月もお風呂に入っておらず、垢(あか)と臭いにまみれた状態だったはずです。けれどもMさんは、そんなこと気にもせず、何も言わずに抱きしめ続けてくれました。

「こんな人がいるんや・・・」

それからもMさんは、通ってきてくれるようになりました。Mさんが来ると、病室がぱっと明るくなります。幸福の科学の会員であるMさんは、人生の意味や苦悩の意味を、少しずつ教えてくれました。

「Cちゃん、魂は永遠だから、自殺したって自分を消すことはできないのよ」

うそやろ? そんなん最悪や―。 魂は永遠と聞いて、当時の私は落胆しました。一方で、「自殺者は成仏できない」と教えられると、「あの時死ななんで良かった」と、心底ホッとしたのを覚えています。

心に響いた一言

2カ月後、私はたくさんの薬を持たされて退院しました。兄は私がひきこもらないようにと、サービスエリアでの販売の仕事を見つけてきました。しかし私はその仕事が合わず、半年後、またひきこもってしまったのです。

真っ暗な部屋で、過去の事をぐるぐる思い出しては、ブツブツと恨み言をつぶやく日々・・・。そのうち母は老人施設に入所していきました。

兄とMさんは、その後結婚。Mさんは度々家に来ては、 仏法真理の話をしてくれました。

「本当の『愛』はね、自分から与えるものなの。幸せになりたかったら、自分から人を愛することが大切なのよ」

ある時Mさんが言った言葉が心に響きました。私は時折、その意味を考えるようになりました。

外に出てみたものの・・・

「外に出る練習と思って、支部でボランティアさせてもらったら?」

ひきこもって6年。自分でもどうにかしなければ、と思い始めていた矢先、Mさんの勧めに従って、幸福の科学支部に通うことにしました。掃除や備品の整理をしながら、緊張してぎこちなくふるまう私に、皆さんが優しく接してくれます。

「Cちゃん、こんなんできたん? すぐにお嫁に行けるやんか」

しかし、褒められる度に、「私は褒められるような人間じゃない」と、強い違和感を覚えました。いたたまれなくなった私は、半年後、パタッと支部に行かなくなりました。仕事を投げ出してしまって、皆、怒っとるやろな―。心の中は罪悪感でいっぱいです。

こんな私でも、愛されていた

「Cちゃん、本当にこのままでいいの? 皆、あなたを待っとるよ」

ある日、いつになく強い口調のMさんに連れられて、2カ月ぶりに支部の門をくぐりました。すると―。

「あっCちゃん! 元気やったん?」

「よかったー、会いたかったんよー!」

 満面の笑みと歓声が、私を迎えてくれたのです。呆然としてしまいました。皆が次々と抱きしめてくれます。泣いておられる人もいました。皆の温かさが心にしみてきて、自然と涙がこぼれました。

「私、こんなに中途半端やのに、受け入れてくれるんやな・・・」

 私はそれまで、完璧にしないと嫌われると思いこんでいました。でも、支部の皆さんは、未熟な私を受け入れ、こんなにも愛してくれていたのだと分かったのです。

「私、アホやったわ」

急に心が軽くなりました。長年身に付けていた鎧を脱いだようなさっぱりとした気分です。たった今、これまでの自分と訣別できたのだと実感しました。すると、今まで一度も考えたことのない思いが、湧き上がってきたのです。

「生きていこう!」

新しい人生の出発

私はその日のうちに「いつかこれを飲んで死のう」とためていた大量の安定剤を捨てました。また、支部行事に参加しては仏法真理を学びました。

そうするうち、Hさんという会員の方と知り合いました。一緒にいると心が安らぎます。自然におつきあいが始まりました。やがて、私達は、たくさんの方の祝福の中、結婚式を挙げました。

辛かったんやね、お母さん

ある時私は、法友のIさんが母親との葛藤に苦しんでいることを知りました。私は、彼女が人生にどう向き合えばいいのかを、主人と考えていきました。人は魂修行のための人生計画を立てて生まれるといいます。

「彼女は何を学ぶために、その人を母に選んできたんだろう?」

「Iさんは、自分を愛してくれない母親を持つことで、かえって愛の大切さを知ったんや。そして、そんな母親を恨むんじゃなくて、本当は与えられていたことに気づいて、心から感謝できるようになることを、人生の問題集として設定してきたんやろなぁ」

自分でそう言った瞬間、ハッとしました。彼女への結論は、そのまま自分への解答でもあったのです。

「私は自分の気持ちを分かってほしいばかりで、お母さんの心なんて考えてなかった。それは『奪う愛』や。だからずっと苦しかったんや・・・」

私は母の生い立ちを辿っていきました。以前聞いた話では、幼い頃に実母を亡くし、父親の後妻に子供が生まれてからは邪魔者扱いされていたとか。母もまた、愛に飢えていたのです。やがて結婚してこれから幸せになれるという時の父の会社の倒産。どんなに辛かったか―。

母は私を毛嫌いしていたのではない、優しく抱きしめられた経験がないから、私にどう接していいのか分からなかったのでは。そう思い至った時、急に胸が熱くなり、母が不憫(ふびん)で涙がどっとあふれました。また、母との葛藤があったからこそ、信仰の道にいざなわれたのだと気づきました。 「私は不幸だったんじゃない。本当は全てを与えられてたんや・・・」

ウツは必ず治る

それからは、母の入所先の施設をよく訪ねるようになりました。認知症の症状が出始めた母は、私に気づかないこともありますが、母の手をとって感謝を伝えると、母は微笑んでくれます。

私がウツになったのは、自分がいかに不幸かということばかり考え、与えられているものから目をそらしていたことが原因でした。でも、生きている限り、本当はたくさんのものを与えられています。そのことに素直に感謝した時、憎しみや悲しみは消え、心に喜びが生まれるのだと、今は実感できます。

私は今、同じ苦しみの中にある人に、仏がいつも見守ってくださっていること、「奪う愛」をやめて「与える愛」を始めることで、必ず苦しみから解放されるのだという真理をお伝えしています。

それが、私を苦しみの泥沼から救いあげてくれた幸福の科学の友人や、どんな時も傍らにあって、愛と慈悲を注ぎ続けてくださった仏へのご恩返しになると思うからです。

義姉のMさんより

初めてCさんに会った時、「絶対にこの子を助けたい」と思いました。信仰に出会って心の持ち方が変わることで、ウツを克服できた人はたくさんいます。Cさんも必ず治ると信じていました。彼女の良さが見えてくると、「あなたには良いところがたくさんあるのよ。本来のあなたになろうね」と、よく語りかけていましたね。

ご主人のHさんより

妻は、支部の皆さんの温かさにふれて、ウツ病から立ち直ることができ、彼女本来の長所を発揮できるようになりました。妻の長所は、人の好き嫌いがなく、誰とでも仲良くなれること。今は苦しんでいる人の心の支えになりたいと頑張っているんです。

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