Archive for the ‘教育・子育て’ Category

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第125号より転載し、編集を加えたものです。

見えることのない目

私は、生まれた時から目が見えません。

生まれつき目に障害があって、右目にわずかな光を感じるだけで、左目は何も見えません。

出産当日、私は予定より2週間も遅れて生まれてきました。泣き声をあげず、体温も低い状態でしたが、医師からは「特に問題はありません」と言われたそうです。

しかし、4カ月が過ぎた頃。同じ時期に生まれた赤ちゃんと一緒に検診を受けた時、母は私の様子がおかしいことに気づきました。

よその子が、まわりの様子を見て瞳をキョロキョロさせるのに比べて、私の視線があまりにも無反応であったからです。

総合病院を紹介されて検査を受けると、「網膜形成不全」「小眼球」と診断されました。

「胎児の時に、へその緒が首や身体に巻きついて、圧迫されていたのが原因かもしれません」

医師はそう説明しましたが、はっきりした原因は分からないようでした。

ただ、一つだけ明らかなことがありました。それは私の目が見えるようになる可能性はほとんどないということでした。

バイオリン

4歳ぐらいになると、私は自分の状況が少しずつ分かってきました。

「ねぇ、お母さん。私ってなんで見えないの?」

何度も同じような質問をする私。自分の障害について、だんだん気にするようになっていきました。

ある日、母が言いました。

「Aちゃん、音楽が好きだよね。バイオリンをやってみない?」

母に勧められて、バイオリンのレッスンを受け始めることに。自分で自由に音が出せることがうれしくて、私は夢中になりました。そのせいか、目に対する不満を口にすることも少なくなりました。

そして、小学校に入学する時—。

私の状況からすれば、当然、盲学校に入学するところでした。

「Aちゃんが、ふつうの小学校に通いたいのなら、応援するよ」

「うん。みんなと同じがいい」

母は教育委員会と交渉して、地元の小学校で学べるようにしてくれました。

私は、週に2回、小学校に通い、残りの日は自宅で訪問教育を受けることになったのです。

現実の壁

私は、視覚障害に加えて、生まれた時から股関節がはずれている病気(先天性股関節脱臼)でもありました。治療して治りましたが、その後遺症で足が弱く、運動も苦手だったのです。

バイオリンのレッスン中にも、痛みで立っているのがつらくなり、その場に座り込んでしまうことがありました。

バイオリンは立って弾く楽器であり、レッスン中は1時間近くも立っていなければなりません。

「こんなんじゃ、とても続けられない」

途中であきらめざるを得ませんでした。

小学校のほうも、週2回では授業についていくのが困難でした。

結局、5年生からは盲学校に通うことになりました。

「なんで、みんなと同じようにできないの! こんなの嫌だよ!」

私は泣きながら母に訴えました。

「Aちゃんが見えるようになるなら、すぐにでも、お母さんの目をあげてもいいのに・・・」

母のすすり泣く声が聞こえてきました。余計に悲しくなって、大泣きする私・・・。

やがて、父が言いました。

「A、目が見えなくても、耳は聞こえるじゃないか。みんなと話だってできるじゃないか。お父さん、Aにはできることがたくさんあると思う。それを一緒に探してみようよ」

いつもやさしい父—。

幼い頃、私が「水車ってなあに?」と尋ねると、何日もかけて水車の模型を作って説明してくれたこともありました。

両親の気持ちが伝わってきて、もう一度、がんばってみようと思いました。ほどなくして、私は自宅を出て、盲学校の寮に入ることになりました。

心に響く教え

盲学校は、環境も整っていて、思っていた以上に生活のしやすいところでした。そのおかげで勉強にも集中でき、順調に学年を重ねていきました。

中学2年生の時のことです。夜、宿題をしていると、ふと誰かに話しかけられたような気がしました。

(あれ、誰だろう? お母さん?)

不思議に思った私は、実家に帰った時、そのことを母に伝えました。すると、母は少し驚いた様子で言いました。

「ちょうど、その日、その時間ぐらいに、お母さん、お祈りをしていたの。その思いが、Aちゃんに届いたのかもしれないね」

母は、最近、幸福の科学入会したこと、そして『正心法語』という経典でお祈りをしていたことを教えてくれました。

私が、幸福の科学について興味を示すと、母は「仏陀再誕」という講演会のカセットテープを貸してくれました。さっそく、私は自分の部屋で聴いてみました。

「この世において、さまざまなる出会いが、あなた方を待っているであろう。しかし、真理との出会いは最も尊いものであり、人間として生まれて現成の仏陀の声を聴くは、奇蹟以外の何ものでもないことを知らねばならない」(『悟りの極致とは何か』第3章所収)

一言一言が、直接心に響いてくるようで、激しく心を揺さぶられました。

(・・・仏陀って、お釈迦様のこと? 再誕って、また生まれてきているということだよね?)

びっくりしましたが、その確信に満ちた力強い言葉に、「ほんとうに違いない」と思いました。胸のあたりが熱くなりました。こんなことは生まれて初めてのことでした。

語り明かした夜

「お母さん、これってすごい!」

テープを聴き終わると、私は興奮して真っ先に母のところに行きました。

次から次へと質問をあびせる私。

母は、人間が永遠の生命を持っていることや、魂修行のために何度も生まれ変わっていることなど、幸福の科学で学んでいることを教えてくれました。

「Aちゃん、“人生は一冊の問題集”なんだって。今回のAちゃんの人生は目が見えないという厳しい状況だけど・・・でも、それはAちゃんの魂が、大きく成長するために、仏が与えてくれた問題集だと思う」

母の言葉にはっとしました。

「・・・私、何不自由なく学校に通っている人たちと比べて、ずっと不公平だと思ってた。なんで私ばっかり、こんな苦労しないといけないのって・・・。でも、そうじゃないんだね。・・・よかった」

涙があふれました。

すっかり夜がふけていましたが、私はうれしくて眠る気になれず、母と一晩中語り合いました。

進学

高校生になってから、私も幸福の科学入会しました。テープを聴いたり、母に仏法真理の書籍を読んでもらったりして少しずつ学びを深めていきました。

ある日、母が「ヘレン・ケラーの霊言」を読んでくれました。

「私はこちらの世界へ来て、目も見えますし、耳も聞こえます。口も利けます。本来、人間は自由です。ただ、三次元のなかにおいて、あのような厳しい環境に置かれたということです。ですから、私が世の人々に言いたいのは、『環境をよくするために奔走するよりも、環境のなかでみずからを輝かす、そのような努力をしていただきたい』ということです」(『大川隆法霊言全集第14巻』第4章所収)

私よりも重いハンディを背負いながら、多くの人々に生きる勇気と希望を与えたヘレン・ケラー。

その言葉は、まるで自分の苦しみをすべて分かってくれているようで、心に深くしみわたりました。

「私も輝いてみたい。私にできることっていったい何だろう?」

高校2年の3学期—。私は自分の願いを両親に伝えました。

「私、進学したい。そして福祉について学んでみたい」

同級生は、鍼灸や按摩などの資格を取って就職する人がほとんどでしたが、私は「もっと勉強したい」という気持ちが強くあったのです。両親は賛成してくれました。

しかし、現実の受験は厳しいものでした。現役では受からず、1年間、受験指導を行っている盲学校で勉強。翌年は何とか地元の短大に合格することができました。

「私でも、やればできるんだ!」。苦労はしましたが、私にとって受験の経験は小さな自信になりました。

手足のしびれ

短大の寮に入って、学生生活を送るには、ある程度、一人で何でもできる必要がありました。

今の自分では無理かもしれないと感じた私は、いったん短大を休学して、生活訓練や歩行訓練を受けることにしました。

訓練のおかげで、視覚障害というハンディを負いながらも、何とかふつうの学生と一緒に学ぶことができるようになりました。

しかし、無理を重ねたせいかもしれません。その頃から、時々、体調を崩すことがありました。そのうえ、以前から感じていた右の手足のしびれがひどくなっていきました。

「いったい、どうしたんだろう・・・」。病院で検査をすると、軽い脳性麻痺であることが分かりました。

がんばろうとはするものの、思い通りにならない現実・・・。

その後、短大は卒業できましたが、体調が思わしくなく、進路を決めることができませんでした。これからどうすればいいのだろうと、不安な気持ちでいっぱいになりました。

ボランティア

「Aちゃん、一緒に支部に行こうよ」

短大卒業後、特にやることもなく、家のなかにこもりがちの私を心配して、母は幸福の科学支部に誘ってくれました。

支部に行くと、みなさん、まるで家族のように親しくしてくれました。

法話のビデオを拝聴したり、お茶を飲みながら歓談したり—みなさんと触れ合ううちに暗い気持ちが晴れていくのを感じました。

私は、頻繁に支部に顔を出すようになりました。

「私も何か手伝いましょうか? 電話番ぐらいならできますので」

「それは助かります。ありがとう」

支部で簡単なボランティアをするようになった私。

地域の方々にお配りする布教誌にチラシを挟んだりもしました。

そんな私の姿を見ていた知り合いの方が話しかけてきました。

「Aちゃんも、一緒に配らない?」

「ちゃんとできるかな・・・」。思いがけない誘いにびっくりしましたが、母からも勧められて、参加してみることに。

最初は緊張しましたが、母や支部の方に助けられながら、一軒一軒心を込めてポスティングをすると、とてもさわやかな気持ちになりました。

(どんな人が読んでくれるかな? 喜んでくれるといいなあ)。想像するのが楽しくて、私は、布教誌の配布が大好きになりました。

私、愛されてる

支部でのボランティアや、布教誌の配布を通して、私は自分が明るく前向きになっていくのを感じました。

「人のために何かをすることって、とても気持ちがいいなあ」

幸福の科学で、「与える愛」の大切さについて学んでいましたが、そのことが少し実感できたような気がしました。

そんなある日、母と一緒に総本山・正心館に参拝しました。

「障害に負けず、人生を輝かせたい」

そんな願いを込めて、私は「起死回生の秘法」という特別な祈願を受けることにしたのです。

祈願室に足を一歩踏み入れると、何とも言えないあたたかい光に包まれるのを感じました。

目の前に大きな仏がおられるような気がしました。

—がんばるんだよ。

そう、仏がやさしく声をかけてくれた気がして、涙が止まりませんでした。

終了後、いつになく心がとても軽くなっているのを感じました。

「仏は、いつどんな時も見守ってくださっているんだ・・・。私って、仏からも、家族からも、幸福の科学のみなさんからも、ほんとうにたくさん愛されてる。いまの自分が生きていられるのは、その愛のおかげだ。それなのに、進路が決まらなくて、なんで自分ばっかりこんなに苦労しないといけないのって嘆いてた。もう、そんな思いを捨てよう。自分の人生としっかり向き合ってがんばってみよう」

感謝の気持ちに満たされながら、私は心に決めました。

希望への一歩

幸福の科学支部精舎のおかげで、私はやる気を取り戻していきました。その結果、体調もよくなり、地元の視覚障害者協会でボランティアを始めることができました。

そこでの私の仕事は、様々な原稿を読みあげること。視覚障害者向けに音声を録音する仕事です。

「Aさんの声は、とてもはっきりしていて、聞きやすいですね」

ある時、広報担当の責任者の方が話しかけてきました。

「—私は、中途失明してから、30年近くこの仕事をしてきたけど、後を継いでくれそうな人が出てきてよかったよ」

「ありがとうございます。私、がんばります」

期待されて、うれしくなりました。

その後、内容や編集も任されるようになり、私はますますやりがいを感じるようになりました。

さらに、思いがけないことが起きました。ある大学から、「非常勤講師をしてくれないか」と依頼されたのです。

内容は、福祉を学んでいる学生に点字を教えるというもの。

(私にできるかな・・・でも、こんなチャンスはめったにない。やってみよう)

私は、年に7回、学生たちに点字の読み書きなど、具体的な実践について教えるようになりました。自分が苦労して学んだことや体験したことを、人のために生かせることに喜びを感じています。

自分の人生と向き合い、努力することの喜び

私は、目が見えない現実に何度も押し潰されそうになりました。

しかし、仏法真理との出会いが、自分の人生と向き合い、努力することの喜びを教えてくれたのです。

いま私は、与えられた環境のなかで、自分にできることを精一杯やっていきたいと思っています。

暗く手探り状態だった私の人生に、希望の灯をともしてくれた仏に心から感謝します。

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「お腹が痛い」

私には、E(中2)、K(小5)、R(小3)の3人の娘がいます。

Eが小学3年生のときのことです。3学期が始まって間もなく、学校の先生から電話がかかってきました。

「お母さんですか?Eちゃんがお腹が痛いと言って保健室で寝ていますので、迎えにきてもらえませんか」

Eは前日、風邪をひいて学校を休んでいました。しかし、たいしたことはないと、その日は登校させていたのです。

翌日も「お腹が痛い」と言うE。学校を休ませ、病院に連れていきました。診察の結果は、少し便秘ぎみなだけで、特に変調は見られないとのことでした。

―しかし、それから毎日、腹痛を訴えるようになったのです。

長女への期待

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翌月半ば、私は子どもたちと一緒に宇都宮市にある幸福の科学の総本山・未来館に行きました。そこで私は、講師にEのことを相談しました。

私の話をじっと聞いてくださっていた講師は、近くで友だちと遊んでいるEをしばらく見つめた後、こんなふうにアドバイスをしてくれました。

「もしかしたら、親の愛情不足を感じているのかもしれませんね。できればスキンシップを心がけてあげてください。まずお母さんがいつも明るく、家の中の太陽になることが大事ですよ」

実は、私には思い当たることがありました。

Eが幼稚園生の頃に次女が、その翌年には三女が生まれ、育児に追われていた私は、長女に「あなたはお姉ちゃんだから」と言って、あまり時間をかけて子育てしてこなかったのです。
その反省を込めて、私はEの「いいところ発見ノート」を付けることを決め、さらに意識して声をかけるように努めました。

「お母さん、どこにも行かないで」

春休みに入ると、Eも少しずつ「お腹が痛い」と言う日が減り、体調も安定してきたように見えました。

Eが4年生に上がった新学期、同時に次女が小学校に入学、三女も幼稚園に入園することになりました。そして、5月に入ったある日のこと。三女の運動会の打ち合わせを終え、帰宅すると、すぐに電話が鳴りました。

Eの担任の先生からでした。

「Eちゃんが、お腹が痛くて寝ているので、迎えにきてもらえませんか」

(―え?また、始まったの?)

私は、とてもやるせない気持ちを抱えたまま、Eを迎えに行きました。そのまま、一緒に家に戻り、Eを寝かしつけているときです。

「お母さん、しんどいよう・・・。ここにいて、どこにも行かないで」と、元気のない声でポツンと言ったのです。

「E・・・」

(この子、すごく寂しかったんだ―)私には、そんなEの気持ちが伝わってきたように感じました。

私と同じ苦しみ

私と同じ苦しみ【子育て体験談】

翌日の朝、子どもたちを学校に送り出した後、一人でお祈りをしていたときのことです。私は、Eについて考えていました。

(Eは頑張り屋だから、周りの期待に応えようと一生懸命。でも、何でもできるわけじゃないし、期待に応えきれないギャップに苦しんでいるのかもしれない。それが体の不調として現われているのかな・・・)そんなことを考えたときです。

(あっ、この苦しみって、私と同じだ!)と、思えたのです。

私自身、妻や母親、仕事、幼稚園の役員など、いろいろな役割を期待され、それに応えきれない苦しさをいつも感じていました。

(私は、そんな自分を受け入れて欲しいと思っている。きっとEも同じ気持ちだよね)

そう考えた私は、Eに宛てた手紙を、その晩、Eに読んであげることにしました。

「Eは小さいときからしっかりしていたから、お母さんも期待しちゃって。Eは『しんどいよー』って思っても、言わないで頑張ってきましたね。お母さん、Eの気持ちが分かっていなかったことに気づきました。しんどいときはしんどいって言ってね・・・」

それから、主人や学校の先生とも相談して、私はEとの交換日記をつけることにしました。

5月○日 お母さんより

「E、元気ですか? 今日はあまりお話ができなくて、ごめんね。ノートに書くと、口でうまく言えないことも正直に言えていいね。E
も思ったことを何でも書いてね・・・」

E

「席がえをしたよ。となりがいなくて、ちょっとさびしいな・・・」
P.S:「知らない漢字には、ふりがなをふってね」

普段、なかなか言ってあげられないことも日記だと書くことができました。この交換日記によって、親子の絆が深まっていくような気がしました。

家の中で太陽になる

その後、私は、以前、講師に言われたように「家の中の太陽」を目指そうと思い、「家庭を安らぎの場にする」という誓いを立てました。掃除にも気を使い、レシピ本を何冊か購入して、子どもたちが喜ぶような新たな料理にもチャレンジしました。

「お料理おいしいね!」と、子どもたちにも好評でした。

大川隆法総裁の書籍『奇跡の法』の中には、「悲観的な想念に負けそうになったときには、それに負けないだけの肯定的な想念を自家発電しなければいけません」と書かれています。

私は家事と仕事で体が疲れてしまい、弱音を言いたくなるときには、(うまくできなくても、これを題材に成長していこう。頑張ろう!)と、自分に言い聞かせながら、努力を続けていきました。

すると、Eの表情はどんどん明るくなり、口癖のように言っていた「お腹が痛い」という言葉も減っていきました。

そして、一年が過ぎ、なんと5年生のときはほとんど休まず、6年生になってからは一日も休まずに登校できました。現在は、毎日元気に中学校に通っています。

オススメ書籍

『奇跡の法』(大川隆法 著)

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月刊「ヘルメス・エンゼルズ」一覧

父との関係が子育てに影響していると気づいた【子育て体験談】
娘に厳しく当たってしまうのは、父との葛藤に原因があった!
自分の過去を振り返り、父親の愛に気づくことで、娘を心から愛せるようになった体験談です。
N・Kさん・Nさん(愛知県)
月刊「ヘルメス・エンゼルズ」より転載・編集

私に似てくる娘・・・

長女のNが2歳のころから、私はささいなことでNを叱るようになっていました。

「おもちゃを片付けなさい!」

自我が芽生え始め、なかなか言うことを聞かないN。私はついカッとなって大声を出してしまっていました。

そんな時、私の脳裏には自分の幼いころが甦りました。両親からいつも「わがまま」「常識がない」と怒られていた私。父にはよく叩かれていました。

(こんな私みたいな人間にならないように、Nの欠点は今のうちに直しておかないと)

Nは次第に私の顔色を伺うようになりました。6歳になるころには、外ではとてもいい子に振る舞うのに、家ではちょっとしたことで怒ったり泣いたりするようになりました。時には友達に「何やってんの!」などと、きつい言葉を浴びせることまでありました。私の口調そっくりに・・・。

(どうしよう。だんだん私に似てくる・・・)

私は、Nを通して、自分の醜い姿を見せつけられている気がしました。そして、これまで振り返ることを避けてきた自分の過去を、徹底的に反省しようと決意しました。

生まれてきたときの光景

生まれてきたときの光景【子育て体験談】

私は幸福の科学精舎、総本山・正心館で、生まれてから今日までを振り返る「生涯反省」研修を受けました。思い起こせば、家にはいつも罵声が飛び交っていました。父母と、同居している父の両親との折り合いが悪かったのです。父は酒を飲むと人が変わり、ささいなことで私を怒りました。

研修の中で行った、自分が生まれた時のことを瞑想する時間。私も目を閉じてそのときに思いをはせました。すると、意外な映像が浮かんだのです。

赤ちゃんの私を、家族全員が囲んで見ています。母も、祖父母も、なんと父までもが、とても嬉しそうにニコニコして心から祝福していたのです。

(みんながこんなに喜んでくれていたなんて―。私は愛されていたんだ!)

喜びで、心の中がいっぱいになりました。

研修から帰った私は、実家の母に気づきを話していきました。思い出話のなかで、母は、ぽつりぽつりと父の生い立ちを話してくれました。私は(お父さんに対するわだかまりを解いて水に流したい)と思い、続けて、幸福の科学の琵琶湖正心館で「両親に対する反省と感謝」という研修を受けることにしました。

父の心が理解できた

母から聞いた話をもとに、私は仏の御光を感じながら父の気持ちを考えていきました。

祖父母は、父よりも父の妹をかわいがっていました。そのため、父は愛されていないと思って育ったようです。さらに、長男だからと夢を諦めさせられ、農家を継がされたといいます。

やり場のない思いを、酒に紛らわせていた父・・・。

(父の気持ちが少しだけわかった気がしました・・・。不器用な人だから、やるせない思いを誰かにぶつけずにはいられなかったんだ。私がかわいくなくて怒っていたんじゃないんだ。)

父にしてもらったことが思い出されました。お酒を飲まないときの優しい笑顔。海に連れて行ってくれたこと。私が病気のとき、栄養ドリンクを差し入れてくれたこと―。

父は父なりに、精一杯私を愛そうとしてくれていたのです。子ども時代の悔しさや悲しみといったどろどろした感情が涙とともに洗い流されていきました。

私は、無意識のうちに両親への怒りや恨みの気持ちをも含めて、Nを叱っていたことに気がつきました。

そして、(でも、もうそんなことはしたくない。両親に愛されてきたと分かったんだから、私も愛を与えていこう。子どもを精一杯愛していこう―)

心の底から、そう決意することができたのです。

Nを心からいとおしく思えて

Nを心からいとおしく思えて【子育て体験談】

その後、父に会っても心が波立たなくなり、父に対して、「ありがとう」と感謝の言葉が自然に出るようにもなりました。子どもに対しては、以前は欠点ばかり気になっていたのに、ちょっとした仕草を「かわいい」と感じるようになったのです。私は、父との葛藤を乗り越えたことで、Nのありのままを受け入れられるようになりました。

私はもっと家族を愛していきたいと思い、毎日、家族のよいところをノートに書くようにしました。Nには素晴らしいところがたくさんありました。素直で明るいところ。集中して本を読むところ。活発なところ。人とすぐ打ち解けられるところ―。

私はNの長所を口に出して褒めたり、「大好きだよ」と言って抱きしめるようにしました。

家事の合間には仏法真理の書籍を読み、心を見つめるようにしました。毎日続けていくことで、徐々に穏やかさを保てるようになっていきました。

親としての成長

Nは、小学校に上がってから、少しずつ落ち着いてきました。6年生の今では、言葉のきついところも直ってきて、クラスのみんなと仲良くできて、リーダー的役割をするようになっています。

仏のお導きにより今の私がいるのだと思います。もし、以前の私のように悩んでいる方がいたら、仏法真理を学んでみませんか。必ず幸せになれます。

オススメ書籍

『限りなく優しくあれ―愛の大河の中で―』(大川隆法 著)

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月刊「ヘルメス・エンゼルズ」一覧

この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第116号より転載し、編集を加えたものです。

以前の私は、母のことを、いつも心のなかで責めていました。けれど、信仰と出会い、考え方がまったく変わってしまい、母との関係も変わりました。母と私が歩んできた道のりを、お話ししてみたいと思います。(Hさん・30代女性)

母の怒り

「さっさと、やりんさいや!」

私の実家は広島の郊外にある、大きな古い平屋で、裏手には、家族の食事用の作物をつくる田畑がありました。私は、小学校にあがる前から、いろいろと家の手伝いをさせられました。

掃除、洗たく、風呂焚き、畑から野菜をとってくること・・・。いつも、母から、たくさんの用事を言いつけられます。私には、それが苦痛でした。

「何回ゆうたら、わかるんね。ちゃんと片付けんさい、ゆうたじゃろう」

ささいなことでも、大声で怒られます。口答えや言い訳などしようものなら、もっと怒られます。私は、言い訳したい気持ちをぐっとこらえ、できるだけ早く、母に言われたように動くよう努力しました。

「言ってもわからんのんじゃったら、もう外に出ときんさい!」

ときには、夕食を抜かれたり、家の外に閉め出されることもありました。テストでいい点をとって、母の機嫌をとろうと、一生懸命、勉強しました。両親の仲も悪く、夫婦げんかはしょっちゅう。言い争う声を聞いていると、暗い気持ちになりました。

自由になりたい

小学校4年生のころのこと。よく家に遊びに行くようになった、友だちのお母さんは、とても優しい人でした。家事もお母さんがとりしきっているようです。私の家とは違う・・・ショックでした。

「もう、こんな家にいたくないな。そうだ、伯母さんの家に行こう」

私は、貯金箱から小遣いを取り出し、身の回りのものをリュックにつめました。母が出かけている間に、3歳下の妹をつれて、そっと家を出ました。妹の手を引き、記憶だけをたよりに、かなりの距離を歩き、さらに30分ほどバスに乗って、なんとか伯母の家にたどりつきました。

「どうしたん? あんたら、2人で来たん?」

私たちを見た伯母はびっくり。すぐ、私の家に電話すると、あわてた母が迎えに来ました。母は、なにも言わず、とても怖い顔をしていました。

自由になりたいなあ・・・何度もそう思いました。

憂うつな日々

中学、高校になってからも、やはり、母に振り回されていました。母の気持ちが荒れてくると、私も、父や妹も、母の怒りに巻き込まれるような感じでした。

家族はみんな、それとなく母の様子を気遣いながら、過ごしていました。私にとっては、なんとなく心の晴れない10代でした。

いつしか私は、人の言われるままに生きるようになっていました。「こうしたい」とか「こうなりたい」とか、将来の目標や理想のようなものは、私にはありませんでした。未来が明るいもののようには思えなかったのです。

高校卒業後は、担任の先生の勧めるままに、県内の短大に進みました。就職活動の時期も、自分からは何もせず、様子を見かねた先生が勧めてくれた地元の会社に、ようやく就職を決めました。

私は、会社で事務職として働きはじめました。幸い職場の人間関係はよく、私はまじめに仕事をこなしました。友だちにも恵まれ、それなりに楽しい時間を過ごしていました。

けれど、社会人となり、いろいろな人と接するなかで、私は、自分の気持ちをきちんと伝えることができないことに、しだいに苦しみを感じはじめました。心のなかでは嫌だと思っていても、断ることができません。

相手に不愉快な思いをさせたり、人間関係のトラブルが起きることが心配で、つい「はい」と言ってしまう・・・。そんな自分が嫌いでした。「私は、こんな苦しい感じのままで、ずっと生きていくんかな」と、なんとも言えない空しい感じがしていました。

親子には深い縁がある

ある日、会社の更衣室で帰る準備をしていると、先輩が、なにげなく椅子のうえに置いた本『神霊界入門』(現在『大川隆法霊言全集』第26巻、第27巻に所収。小桜姫の霊言)に目が留まりました。なんとなく、神秘的な感じのする本で、興味をひかれました。

「その本、貸してもらえますか?」

先輩にお願いして、借りて帰りました。自宅でさっそく読みはじめると、すぐに本の内容にひきこまれていきました。あの世の世界や生まれ変わりのことなど、聞いたこともないような話ばかりでした。夢中で読み進めていくと、ある一節で目が留まりました。

「親子の関係というものは非常に縁の深いものです。これは1回や2回の生まれ変わりでできたものではありません」

あの母と深い縁があるなんて、いままで考えたこともありません。考えれば考えるほど不思議な感じがして、「親子の縁」ということが、深く心に残りました。私は一晩で本を読み終わってしまいました。それが、大川隆法先生の本との出会いでした。

心が満たされていく

「この本、ありがとうございました。とても面白かったです。もっと読んでみたいのですが・・・」

「本屋さんに行けば、他にも売っとるよ」

先輩と相談し、互いに違う本を買って、交換して読むことにしました。そして、次つぎと新しい本を読みふけりました。

「苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです」「愛なくして幸福はありません」—。読めば読むほど、心が軽くなっていきました。

大川隆法先生の本には、さまざまなものの見方や考え方が説かれています。私にとって苦しみとしか思えなかったことも、違う見方をすることができるのだとわかり、とても気持ちが楽になりました。

嫌いだと思っている自分自身のことも、変えてゆくことができる。自分の意志で人生も変えてゆくことができる—。そのことを知って、未来が明るく見えてきました。カラカラだった心が、真理の言葉で満たされていくようでした。

片時も大川隆法先生の書籍を離したくなくて、ちょっとした時間にも本を開きました。

先輩といっしょに、職場の他の人たちにも、幸福の科学の本を勧めました。

私は、幸福の科学の機関誌も読むようになりました。あるとき、「情熱からの出発」(『悟りの極致とは何か』第2章に所収)という講演会の内容が載っていました。

「光の力が結集しなければ、とうてい、全人類、全日本人を幸福にするだけのエネルギーには足りないのです」

私も、この教えを広めていくお手伝いがしたい。光の力となって、もっと多くの人を幸福にしていきたい—。そんな気持ちがわいてきて、私は、幸福の科学に入会することにしたのです。

問題集を解かにゃいけん

幸福の科学に出会う前の私は、いつも、母の顔色をうかがいながら過ごしていました。私の人生にとって、母の存在は苦しみの種。心のなかで母のことを責め、できれば逃げ出したいと思っていました。しかし、仏法真理を学ぶうちに、「このままではいけない」という思いが強くなってきました。

仏法真理によれば、人生は一冊の問題集であり、この問題集は、各人が努力して解いていかなければならないのだと言います。そして、悩みの中心こそ、人生の問題集が何であるかを教えてくれているものなのだと言うのです。

私は、いろいろな本のなかから、問題を解くヒントをさがしました。すると、「与える愛」の教えが、私の心にひびいてきました。

「愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。・・・みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です」『太陽の法』第3章

苦しかったのは、私が、お母さんにみかえりを求めていたからかもしれないと思いました。問題集を解いていくには、きっと、愛を与えていくことが大切なんだ—。私は、母に対して、与える愛を実践していこうと決意しました。まずは、感謝の言葉を口に出すことから・・・。

それまでは、母への反発心から、「料理がおいしい」という言葉さえ、ろくに口にしたことがなかった私。ささやかな一言でも、勇気がいりました。

「今日の料理、ほんまにおいしいね」

「・・・してもらって、うれしかったよ。ありがとう」

ちょっとした折に、感謝を口に出します。しかし、頑張っているわりには、母の反応がありません。つれない態度に、「もうやめようか」と思うことも少なくありませんでした。

けれど、そのたびに、「みかえりを求めちゃいけん。私から、与えていくことが大事なんだ」と自分を励まし、努力を続けました。

母の涙

それからしばらくして、私が、いつものように読書をしていると、突然、母が部屋にやってきました。

「そんなに本ばっかり読んじゃいけん!」

そう大きな声で言うなり、すぐ出て行ってしまいました。私はあっけにとられながらも、なぜか、母の目にいっぱいたまっていた涙が、心に焼きついて離れません。母がそんなふうに泣いている姿など、見たことがありません。

「お母さん、私を気遣って、泣いとったんじゃろうか」

気がつけば、すぐ思い浮かぶ母の姿は、怒っている顔や、厳しい表情ばかり。はっとしました。

「私は、かたよった見方をしてきたんじゃないじゃろうか・・・」

子供のころの母の姿が、次つぎと思い浮かんできました。毎日の食事やお弁当づくり。母親参観のとき。運動会。家族旅行・・・。あらためて思い返すと、母にしてもらったことが、たくさんよみがえってきます。涙があふれてきました。

「こんなに愛してもらっとったのに。私が心を閉じて、お母さんの愛情を受け入れんかっただけだったんじゃね。お母さん、ごめんなさい」

あとからあとから涙があふれます。はじめて、心から素直に母に謝りました。それからは、いっそう心を込めて、母への感謝を、言葉や行動で表しました。

ゆっくりと話を聴き、母が興味を持ちそうな幸福の科学の本を勧めました。2、3日すると、母に渡した本が、食卓の私の席に置いてありました。

「これ、もう、読み終わったの?」

「ああ、読んだよ」

何冊も、そんな調子でした。私にはなにも言いませんが、母も考えるところがある様子でした。それから数カ月して、母は自ら幸福の科学に入会したのです。私は、ひとつ母に恩返しできたような気がして、とてもほっとしました。

母との対話のなかで

その後、私は結婚して実家を離れました。なんとなく母のことが気がかりで、しばしば電話しては、話を聴き、なぐさめたり、励ましたり。けれども、母は感情的になると、以前のように、言葉がきつくなってきます。

「仏法真理を学んどるはずなのに」と思うと、責める心が出て、心が揺れました。しかし、仏法真理では、相手を責めるのではなく、理解することが大事だと教わっています。私は、母のことをもっとよく知ろうと思いました。

子供のころのことを尋ねてみると、母は少しずつ話してくれました。母の実家は裕福な家で、祖母は厳格な人だったこと。ある日、家の戸締りをしなかったとひどく叱られ、いらない子のように言われて、とても傷ついたこと・・・。はじめて聴く話ばかりでした。

話を聴くうちに、母にとっての母親とは厳しいものだったのだとわかりました。そして、自分の叱られた経験から、「自分の子供には同じ思いをさせないように、しっかりした子に育てんといけん」と、一生懸命だったのだとわかりました。

私を叱った厳しさのなかに、母なりの愛情が込められていたのです。そのことに気づいてからは、母のきつい言葉も、徐々に心にひっかからなくなっていきました。やがて、私も娘を授かり、子育てをしていくなかで、いっそう母の気持ちを理解できるようになっていきました。

つらかったという気持ちは、もう、水に流そう・・・私の心から、わだかまりが消えていき、母と電話で話すのが楽しみになっていきました。

母の宝物

母も、幸福の科学の教えを学んで、自分を変えようと努力していました。毎日、お祈りや反省の時間をとり、自分を振り返っているようでした。

話していても、感情的にならないよう努力しているのが伝わってきます。母は少しずつ家族や周囲の人に対しても、人あたりのよい、まるい人になっていきました。

こうして、母が幸福の科学に入って、数年が過ぎたころのこと。私は、娘のSといっしょに実家に帰っていました。娘と遊んでいると、不意に、そばにいた母が言いました。

「H、大好きだよ。Hは、私の宝物だよ。ちっちゃいとき、すごい意地悪してごめんね」

とても優しい声でした。胸がいっぱいになりました。

「ありがとう・・・」

そう言うのがやっとです。母の顔を見ることもできません。母も、それ以上、なにも言わずに、静かにそばにいてくれました。私は、娘をあやしながら、母の愛を感じて、幸せな気持ちにひたっていました。このときから、いっそう深いところで、母と心が通いあえるようになりました。

私のいちばんの味方

いま、母は、私のいちばんの味方です。なんでも本音で話すことができ、ときには相談にものってくれる心強い存在です。

実家に帰れば、毎晩遅くまで、母と語りあいます。ほんとうに楽しくて、時を忘れてしまうほど。娘のSも、おばあちゃんが大好き。母も、私たちが帰ってくるのを楽しみにしているようです。

母は、幸福の科学の活動にも熱心に取り組んでいるようです。「多くの人に幸せになってもらいたい」と語る母の姿に、私は、母の愛情深さをあらためて感じます。

お母さんの娘に生まれることができて、本当によかった。しみじみとそう思います。いまでは、父と母、妹、そして子供たちも、幸福の科学の会員となりました。

互いに怒りをぶつけあって、心の休まらない家庭で暮らしていた私たち。それが、いま、こうして同じ仏のほうを向き、信じあい愛しあい、強く結びつきあっている─。あたりまえの家族の風景が、私にとっては、限りなく大切なものに思えます。

もし、幸福の科学にめぐりあうことができなければ、きっと、こんな日は来なかったに違いありません。あらためて、仏法真理の素晴らしさを実感し、仏への感謝があふれてきます。

この幸福をかみしめながら、これからも、大好きな母と、家族とともに、多くの方の幸せのために生きていきたいと思っています。

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